今月27日(火)の午前9時半から約2時間、夏休み特別企画・第2回「子ども哲学カフェ」が職場の隣にあるコムズの4階創作室で開催され、私はボランティア・スタッフとして参加した。今回のテーマは<「きらい」を哲学する>だったが、参加した子どもたちは小学4年生から中学3年生までの合計6名。夜に開催した前回は4名だったが、今回は昼間だったからか少し増えていた。大人は主催者側5名(私も含めて)と保護者等5名の合計10名。今回も「子ども哲学カフェ」と銘打ちながらも大人も参加して、哲学対話をすることになった。
まず、主催しているNPO法人の代表者(ファシリテーターと同姓のYさん)が簡単なあいさつをし、続いてファシリテーターのYさんが哲学対話の趣旨や約束事、進め方等を分かりやすく説明した。子どもたちはまだ緊張した表情を崩さなかったが、保護者の方々は少し気分が和らいだような雰囲気になった。その後、前回のようにスタッフの女性が2冊の絵本の読み聞かせをした。1冊目は『きらいさきらい』(作;中川ひろたか/絵;工藤エリコ)、2冊目は『おばけじま』(作・絵;長新太)だったが、私は1冊目の内容が面白かった。擬人化した事物が何かを「きらい」になる理由に、全く反対の意味を挙げている視点に、私は意外性を感じたのである。「きらい」になる理由なんて、何とでも言えるものなのである。
その後、絵本に対する感想や「きらい」に関する自分の経験に基づいた考えなどを、席順で各自が話していった。子どもたちの発言内容は「ちょっとしたことで、大きらいになることがある。」「何かが少な過ぎても多過ぎてもきらいになる。」「けんかしてきらいになる友達がいるけど、けんかをしないのは本当の友達だと言えるのか。」などだったが、自分の思いや考えを何とか言葉にしようとする姿がとても微笑ましく感じた。それに対して、大人たちは「きらいという気持ちはどこから出てくるのか。」「きらいという気持ちをもつことは悪いとは言えないのではないか。」「自分の見えている所だけ見て、きらいになっていることもある。」など、自分の経験から生まれてきた言葉を紡ぎ出している感じがした。私は、参加者の皆さんの発言を聴きながら、「なるほどなあ。そういうとらえ方もあるなあ。」と頷いていた。
皆さんの発言内容に触発されて思考が錯綜している中、私の順番が来た。私は子どもの頃に自分の中に「きらい」な性格や癖等を見出して自己嫌悪になったことや、高齢になった今でも孫の姿に自分の「きらい」な部分を見出すとつい叱ってしまうことなどを話して、自分の「きらい」な部分を今でも自己受容できていないと反省することがあると、ついつい長話をしてしまった。でも、前回とは違って私の発言内容に対する反応は特になかった。でも、ファシリテーターのYさんが「自分のきらいな部分を他者に投影して、その相手をきらいになることもあるもかもしれませんね。」とフォローしてくれたので、私の胸のざわつきが少し治まったように感じ、何気なくYさんの方へ向き直った。すると、前回のようにYさんが皆の発言内容の要旨をホワイトボードに板書する姿が目に入った。
全員が一通り発言し終わったので、しばし休憩の時間を取った。参加者の多くは、飲み物を取りに席を立った。私も紙コップにブラックコーヒーを注ぎなから、前半で自分の順番をパスした小学生の女児のことが少し気になったので様子を見てみると、母親が「何でも自分の思ったことを言っていいのよ。」とやや強い語気で言っていた。母親がどのような思いで娘をこの「子ども哲学カフェ」へ参加させようと思ったのか定かではないが、無理に発言しないで他者の言葉に集中して聴くことも自分の思考を活性化させることになるので、あまり発言することにこだわらなくていいのになあと思った。
皆さんが着座した頃合いを見計らって、ファシリテーターのYさんが、板書していた参加者の前半の発言内容の要旨を整理しながら、いくつかの問いの視点を提示してから、「きらい」に関する後半の哲学対話を促した。次に、皆さんの発言内容の骨子を羅列してみよう。
〇 「きらい」という言葉は、相手に対して関心をもっているから使うので、「無関心」よりまだよい。
〇 「きらい」という感情には「すき」という感情も含まれている場合もあり、いろいろと深いものがある。
〇 「きらい」になる原因は環境や経験によって様々あると思うが、よく相手のことを知ると「きらい」でなくなってくることもある。
〇 「きらい」になるのは「苦手」→「不快」→「きらい」という過程があり、その極限に「無関心」があるのではないか。
〇 「きらい」な人や物を克服することは必要なのだろうか。「きらい」な食べ物を自分が克服したいという価値を見出したのなら「ふつう」や「すき」になることも大切だが、全てのことを克服する必要はないのではないか。 等々
後半の最終場面では、子どもたちになるべく発言してもらおうと思い、さり気なく「きらい」な食べ物に関する話題に大人たちは触れていった。すると、ずっと発言するのを控えていた先の小学生の女児も小声ではあったが数回発言したので、大人たちはホッとしたような表情になった。でも、私は最後まで多少の違和感を抱き続けた。その理由は、聴くという行為には「能動的受動」の側面もあり、他者の発言を内面では主体的に受け止めながら思考を自ら深めていく情況もあるからである。もしかしたら、彼女もそのような経験をしていたかもしれないのだ。私は、彼女の今回の哲学対話に対してどのような感想を書いたか知りたかった。次回は、本人の了解の下で各自の感想を述べ合う時間を取ってもいいのではないか。ファシリテーターのYさんに、私から提案してみようかな。