前回の記事をアップしてから、もう1か月経ってしまった。10月に入っても残暑厳しい日が続き、推理小説やエッセイなどの軽い本を読むのがやっとだった。そのせいか、記事を綴りたくなるような題材もなく、変わりない日常をただ過ごしてしまっていたが、最近になってやっと秋らしい気温になり、少し硬い本を読みたいなと思うようになった。そこで、ここ数年間積読状態にしてしまっていた本を思い出した。本ブログでも何度か著書を取り上げてきた教育学者で哲学者でもある苫野一徳氏の著した『「自由」はいかに可能か-社会構想のための哲学』(NHKブックス/2014年6月発刊)である。読み始めて数日で読了することができた。
つい最近、古希を迎えた年齢になった私だが、さり気ない日常の中で改めて「自由」を感じながら過ごしていこうという新鮮な気持ちが溢れてきた。そして、“この爽やかな感動の中身を再確認しておきたいなあ”・・・そんな思いが募ってきたので、本書の骨子と著者が主張する「自由」の本質やその「自由」の条件等について、今回から2回続けて記事を綴ってみようと思い立った。何分、思考力や集中力の衰えを実感しつつある中での執筆なので、要領を得ない文章になるのは目に見えているが、チャレンジしてみたい。

本書は、「はじめに」と「おわりに」の間に<序章 「自由」に代わるもの?><第1部 「自由」の本質/第1~4章><第2部 「自由」の条件/第5~6章>という全体構成になっている。各章題も示すと、<第1章 「本質」とは何か><第2章 「自由」のイメージを解体する><第3章 「自由」とは何か><第4章 現代政治哲学の難点><第6章 どうすれば「自由」を感じられるか><第6章 どうすれば「自由」な社会を作れるか>となっている。論の大筋の進め方は、まず「自由」の本質を現象学的に解明した上で、その「自由」の本質はどのような実存的及び社会的条件の下で実現することができるのかを明らかにしていくというものである。
そこで今回は、まず著者が現象学の本質観取という方法で概念化した「自由」の本質について簡潔にまとめた上で、その「自由」を実現するための実存的条件について要約しつつ簡単な所見も付け加えたいと考えている。さて、どうなることやら・・・
著者によると、従来の「自由」論が論じてきた「自由」の概念の多くは、「因果からの自由」「恣意としての自由」「解放としての自由」というように、いまだその“表象”(表面的なイメージ)に過ぎないものばかりである。では、「自由」の本質(共通意味本質)とはどのようなものなのか?著者は、哲学史上最高度に鍛え上げられたヘーゲルの「自由」論を参照しながら、ヘーゲルの用語を用いて次のように概念化している。・・・「自由」とは、「諸規定性における選択・決定性」の“感度”のこと。より砕いて言うと、できるだけ納得し、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感のこと。さらに別の表現で言い換えると、「我欲する」と「我なしうる」とが一致している、一致しうると感じられること。私は、これらの表現であれば、誰でもが頷くことができる「自由」の本質を言い得ているのではないかと納得した。
では、このような「自由」を私たちはどうすれば手に入れることができるのだろうか?著者は、本書の第Ⅱ部においてこの問いを「自由」の「実存的条件」と「社会的条件」の2つの観点から考察し克明に描き出しているが、今回はその一つ目の「実存的条件」についてまとめてみる。
著者は、どれだけ一般に「自由」といわれる“状態”にあっても、私たち自身の内的条件(実存的条件)が伴わない限り、「自由」を存分に感じることはできないと指摘する。言い換えれば、世間から見てどれだけお金を持っていても、地位や名誉を手に入れても、私たちは満足に「自由」を感じられないことがある。だから、そこに実存的条件が伴わなければ、決して「自由」を手に入れることはできない。つまり、「自由」の本質は特定の“状態”ではなく、私たち自身の“感度”にこそあるのである。そして、「欲望」のあり方と「思考」のあり方の2つの観点からこの内実に迫っていく。
まず、「欲望」のあり方について。著者は、「自由」は人間的欲望の本質だから、どのような欲望をどのようにもつかが、私たちの「自由」の“感度”を大きく左右すると言っている。そして、ルソーの「不幸(=不自由)の本質は、欲望と能力の不均衡にある」という優れた洞察に着目して、「自由」の第一の実存的条件として、私たちは「欲望」と「能力」をできるだけ一致させる必要があると主張する。
ところが、現在はもう一つ不幸(=不自由)の本質を見出すことができる。それは、そもそも自らの「欲望」それ自体が何なのか分からないということ。近代以降「生き方の自由」を手にした私たちの多くは、何をすればいいのか何をしたいのかという「自由であることの苦しみ」の中で生きていかざるを得ないのである。したがって、この不幸(=不自由)を乗り越えるためには、私たちはある一定の“欲望の中心点”を必要とする。「これをやりたい」「これを叶えたい」という“欲望の中心点”ができて初めて、それを「なしうる」可能性、すなわち「自由」の“感度”が芽生える可能性が現れるのである。
では、どうすればこの“欲望の中心点”を見出しうるのか?一切の希望を失ってもなお、私たちの欲望が世界へと網を投げかけようとするのだという『夜と霧』の著者フランクルたちの体験を引用して、著者はいう。粗い欲望の網の目である世界に、まず何らかの形で“フック”をかけ、こちらにたぐり寄せ、その中心点をくみ上げてしまう。そうしていくつもの結び目をつくり出し、そのことで世界に豊かな“意味”を作り出していくことこそが必要である、と。つまり、“欲望の中心点”を見出すためには、さり気ない日常の中に小さな喜びを味わい、小さな結び目を作り続けることが大切なのである。
しかし、その小さな喜びや意味が、本当に私たちの「自由」に結びつくのかどうか、私たちは十分に内省する必要がある。刹那的な喜びや意味に飲まれて、かえって「自由」を失ってしまうこともあるからである。だからこそ、私たちは「自由」のために「思考」を必要とするのである。私たちは、ただ「欲望」のままに生きているだけでは「自由」になることなどできない。自らどうすれば「自由」になれるかを、考えることができなければならないのである。
そこで次に、問うべきは「思考」のあり方について。私たちは「不自由」な状態を、どのような「思考」を通して克服することができるのだろうか?著者は、今私たちが不幸(=不自由)を感じているなら、その理由は“欲望の中心点”が結ばれていないことと「欲望」と「能力」に著しい不均衡があることの二つあると指摘する。そして、もし“欲望の中心点”を見出せていないのなら上述した方法が必要になるので、その時に必要な「思考」は、なぜそれが私にとっての“喜び”や“意味”でありうるのか考えることである。
また、もし欲望と能力の不均衡ゆえに不自由を抱いているのなら、どうすればこの不均衡を埋められるかを「思考」することが必要である。その際、“能力を上げる”ことを選ぶのだとしたら、どうすれば“能力を上げる”ことができるのか「思考」する。逆に“欲望を下げる”ことを選ぶのだったとしたら、どうすれば自分の欲望を飼い馴らすことができるか「思考」する。さらに、“欲望を変える”ことを選ぶのだとしたら、一体どのような欲望に変えることができるかを「思考」することが必要なのである。
以上、「諸規定性における選択・決定性」の“感度”を本質とする「自由」を実現するための「実存的条件」について簡潔に要約したが、著者の主張内容は「欲望・関心相関性」の原理(世界は欲望の網の目というとらえ方)に基づいているので、この理解さえあけばそんなに難しいことを言っているとは思えない。著者が示してくれた「自由」の本質とその実現のための「実存的条件」は、特に経済的な不安を抱えていない老齢期を生きる私にとって、日常生活を営む中で「自由」を実感することができる幸福論になっているなあと改めて勇気を与えられた内容だった。次回は、著者が提起している「社会的条件」についてまとめてみたいと考えているが、今の私にはまとまった時間が取れないのでしばらく猶予をいただきたい。