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動物も「退屈」することはあるのか?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑦~

 首都圏の1都3県に発出されていた「緊急事態宣言」が解除された途端に、いわゆる“第4波”があっという間にやってきた。つい先日までは新型コロナ・ウイルスの新規感染者数がほとんどいなかった我が県でも急増してきて、数日前には今までの最高値を更新したのである。感染力の強い変異ウイルスも検出されているらしい。このままだと近いうちに県内の医療体制が逼迫する事態に至ることは間違いない。なるべく早くワクチン接種をして感染予防したいところだが、高齢者対象でもまだ1か月以上先の話である。だから、今まで実行してきたような「三密を回避したり、外出時はマスクを着用したり、こまめに手指消毒をしたりするなど」の感染予防策をより徹底したい。今のところ我が家は、基本的に孫Mの世話中心の生活をしているので、買い物以外の「不要不急の外出をしない」というステイホーム状態であるから、感染リスクはかなり低いと思うが、油断は大敵!改めて気を引き締めた生活を送っていこうと、感染予防意識を高めた次第であります。…ということで、今回も始めますよ~。

 

 さて今回は、本書に関する10回連続記事シリーズの第7回目である。前回同様にマルティン・ハイデッガー著『形而上学の根本諸概念』を取り上げて、「退屈」に関する動物と人間の違いについて論じた部分を批判的に検討しているのが「第6章 暇と退屈の人間学-トカゲの世界をのぞくことは可能か?」である。私にとって大変興味深い内容である。特に生物学者ヤーゴプ・フォン・ユクスキュルがその著書『生物から見た世界』の中で提唱した「環世界」という考え方を、ハイデッガーが批判的に検討している部分が面白い。

 

    そこで、この「環世界」という概念とそれに対するハイデッガーの批判についての解説内容を要約した上で、「退屈」に関する動物と人間の違いについてまとめてみよう。

 

 普段私たちは、自分を含めたあらゆる生物は一つの世界の中で生きていると考えている。つまり、全ての生物は同じ時間と同じ空間を生きていると考えているが、ユクスキュルはそれを疑った。そして、全ての生物がその中に置かれているような単一の世界などなく、全ての生物は別々の時間と空間を生きていると述べたのである。これが「環世界」の考え方なのであるが、『生物から見た世界』の中ではダニの狩りの様子を基にしてその吸血プロセスを描きながら、嗅覚と触覚しか機能しないダニが<酢酸のにおい・摂氏37度の温度・体毛の少ない組織>という三つのシグナルだけでつくられた「環世界」を生きている印象的な事例を挙げている。

 

 また、18年間絶食しているダニが生きたまま保存されている事実をユクスキュルが紹介している。このことから、ダニと人間の受け取る情報の数が異なるだけではなく、もしかしたら時間も異なっているかもしれないと考え、追究する。その結果、彼は「時間とは瞬間の連なり」であり、この「瞬間」を具体的数字でもって説明した。例えば、人間にとっての瞬間とは、18分の1秒(約0.0056秒)。彼はこれを映画から導き出す。人間は、映画フィルムの各コマの停止とスクリーンの暗転が18分の1秒以内に行われると、真っ暗になる部分は感じられない。18分の1秒以内で起こることは人間には感覚できないのだ。したがって、18分の1秒とは、人間にとってそれ以上分割できない最小の時間の器なのである。驚くことに18分の1秒は視覚だけでなく、聴覚でも言える。人間の耳には1秒間に18回以上の空気振動は聞き分けられず単一の音として聞こえるらしい。また、触覚でも1秒間に18回以上皮膚をつつくと、ずっと棒を押し当てられているような一様な圧迫として感じるそうなのである。つまり、人間にとっては18分の1秒が感覚の限界なのであり、人間の「環世界」に流れているのは18分の1秒が連なった時間なのである。面白い!

 

 この後、著者はある研究者の研究成果に基づいて、ベタという魚は30分の1秒まで知覚することができることや、カタツムリは3分の1秒(あるいは4分の1秒)より短い時間を認識できないこと、そして各生物はそれぞれ異なった時間を生きていると述べていることを紹介している。次に、先ほど何も食べずに18年間生き続けているダニの話に戻って、それは驚くことではないと言う。私たちがこの事実に驚くのは、ダニも人間の時間と同じ時間を生きていると前提してしまっているからだとも述べる。ただ、ユクスキュルはダニの「瞬間」については何も述べていないが、18年間冬眠に似た一種の睡眠状態にいたのではないかと推測している。

 

 さらに、ユクスキュルはこのような「環世界」における時間のとらえ方と同様なことが空間についても言えることを、ミツバチと巣箱に関する事例を挙げて説明している。人間のように空間把握をもっぱら視覚のみに頼る動物とは異なり、ミツバチは触覚を用いていることが分かったのである。生物はそれぞれ他の生物とは異なった仕方で空間を把握しているのである。なるほど。

 

 以上のようなユクスキュルの「環世界」論に対して、ハイデッガーは次のように批判している。確かにユクスキュルの「環世界」論は動物に関しては正しいが、その概念を人間に適用するのは間違っている、と。このことをハイデッガーは、「環世界」を生きる動物にとっては、物そのものとか、物それ自体といったものが、構造的に欠けているから認識できないのだと、哲学的な言い回しで説明している。それに対して、トカゲはトカゲの「環世界」をもつように、宇宙物理学者は宇宙物理学者の「環世界」を、鉱物学者は鉱物学者の「環世界」をもつのではないかと、著者は反論する。そして、このことをハイデッガーがどうしても認めないのは、彼がはなから人間は特別であるという信念に合うように立論しているからだと断定している。

 

 それにしても、ハイデッガーはなぜ人間に「環世界」を認めることを拒絶するのだろうか。理由はいくつかあるが、著者は<暇と退屈の倫理学>の議論にとって重要な理由は、次のようなものだと考える。ハイデッガーは、人間だけが「退屈」する。なぜなら人間は自由だからである。それに対して、動物は「退屈」しない。なぜなら動物は<衝動の停止>と<衝動の解除>の連鎖によって動いていくという<とらわれ>の状態にあって自由でないからである。彼の考えでは、「環世界」に生きるとは、動物のような<とらわれ>の状態、一種の麻痺状態を生きることを意味するから、それを人間に認めることはできないのである。

 

 でも、もし人間にも動物の場合と同様に「環世界」を認めたとして、人間と動物は変わらないということになるのだろうか、やはり人間と動物は何か違いを感じるのではないかと、著者は問う。そして、様々な生物の「環世界」の間の違いの大きさに着目し、その大きさとは一つの「環世界」から別の「環世界」へと移行することの困難さによって示すことができるのではないかと考え、ユクスキュルが挙げている盲導犬の例を取り上げている。

 

 盲導犬を訓練によって一人前に仕立て上げることは大変難しい。その理由は、その犬が生きる「環世界」の中に、犬の利益になるシグナルではなくて、盲人の利益になるシグナルを組み込まなくてはならないからである。要するに、その犬の「環世界」を変形し、人間の「環世界」に近づけなければならないのだが、これが困難なのである。しかし、不可能ではない。盲導犬は見事に「環世界」の移動を成し遂げるのである。このことから生物の進化の過程について考察を深めると、生物は自らが生きる環境に適応すべく、その本能を変化させてきた。この環境への適応、本能の変化は、当然ながら「環世界」の移動を伴ったに違いない。そう考えると、あらゆる生物には「環世界」の間を移動する能力があると言うべきであろう。

 

 人間にも当然「環世界」を移動する能力があり、他の動物とは比較にならないほどの高い能力が発達している。さらに、人間は他の動物に比べて比較的容易に「環世界」を移動する。本書では、この「環世界」を移動する生物の能力を「環世界間移動能力」と名付け、著者はそれを人間と動物の違いについて考えるための新しい概念として提唱している。そして、ハイデッガーの立論の問題点は、この相対的に高いに過ぎない人間の「環世界間移動能力」を絶対的なものとみなしてしまったことにあり、そのために人間を「環世界」を超越するような存在して描いてしまったことにあると、著者は批判している。

 

 このことから「退屈」について考えてみよう。人間は「環世界」を生き、かなり自由に移動する。人間は容易に一つの「環世界」から離れ、別の「環世界」へと移動してしまう。一つの「環世界」に浸っていることができない。おそらくここに、人間が極度に「退屈」に悩ませる存在であることの理由がある。そして、この「環世界」を容易に移動できることが、人間的「自由」の本質かも知れないと、著者は言う。では、動物と「退屈」についてはどう考えれはいいのか。人間は高度な「環世界間移動能力」をもつが、それは他の動物に対して相対的に高いに過ぎない。他の動物もこの能力をもつ。だとすれば、少なくとも可能性としては、他の動物もまた、一つの「環世界」に浸っていることができず、「退屈」することがあり得ると言わねばならない。さらにここから、人間と動物の区別がもつ意味をも問い直すことができる。それは今までの「環世界」と「退屈」を巡るこれまでの議論から、人間は動物より高い「環世界間移動能力」をもち、高い地位にあるという上下関係の価値判断をひっくり返す可能性を見出すことができる。なぜなら、動物は人間に比べて相対的にかつ相当に高く一つの「環世界」に浸る能力をもつということができるからである。著者は、ここに<暇と退屈の倫理学>を構想するための一つのヒントがあるのではないかと期待を込めて述べている。なかなか鋭い視点だ。

 

 今回の記事は、ほとんど本書の「第6章 暇と退屈の人間学-トカゲの世界をのぞくことは可能か?」の中で、私が特に興味深く、面白く感じた内容の概要をまとめただけになってしまったが、それはそれで私の所感がこの文章に込められているとも解釈できる。それぐらい、私は本章の内容に引き込まれていったのである。いやー、楽しかったなあ。でも、副題にある「トカゲの世界」のことを紹介できなかったのは、私の要約力の乏しさが露呈してしまったかな~。