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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

西部邁氏の「自裁死=自殺」の真意とは…~西部邁著『死生論』から探る~

      前回の記事において、2月のNHK・Eテレ「100分で名著」で取り上げられているオルテガ著『大衆の反逆』のテキストの中で講師の中島岳志氏が解説している内容をまとめながら、西部邁氏の主張について言及した。その記事を執筆している時に、昨年1月に自殺した同氏に関する記事を執筆していたことを思い出したので、今回はその文章を再構成して掲載したい。

 

                  ※

 

 昨年1月21日、「保守派の評論家として知られる西部邁氏が、東京都大田区多摩川で溺死しました。河川敷には遺書らしきものが見つかり、入水自殺をしたようです。」と夜のニュースで聞いて、しばらく心の動揺が治まらなかった。というのは、私は若い頃から西部氏の著書群を愛読しており、私の思想・信条の形成に少なからず影響を与えた人であったからである。

 

 西部氏は、東大在学中に自治委員長として60年安保闘争の指導的役割を果たし、卒業後は横浜国立大学助教授等を経て、東京大学教授(専門は社会経済学)になった。しかし、人類学者の中沢新一氏を助教授として東大教養学部に招き入れる人事が教授会で拒否されたことに抗議して1988年に辞任。その後、テレビの討論番組等で「大衆社会論」を軸に保守の論客として活躍しつつ、論壇誌「発言者」と後続の「表現者」を主宰。一昨年には顧問を引退していた。近年、周りの知人や家族に「自裁死=自殺」を選択する可能性を示唆していたらしい。曖昧なことが大嫌いだった西部氏らしい、ある種の絶望感に陥った上での覚悟の自殺だったのか…。

 

 私はこの西部氏の訃報に接し、その「自裁死=自殺」の真意を探るべく既に自決を予告していた『死生論』(1996年刊)を再読してみた。本書の内容は、「死の意識」「死の選択」「死の意味」「死の誘惑」の4章で構成されている。その中の第1章「死の意識」の中で氏は次のように述べている。「自分の死を意識しつつ死ぬこと、それが人間に本来の死に方であり、その最も簡便な形が『自殺』ということなのである。このことは、論理の完璧主義を期していうのではない。『人間』として死ぬか『動物』として死ぬかというごく簡単な選択において、人間(意識体)は前者をとらずにおれないのだということをはっきりさせたいだけのことだ。」

 

    また、第2章「死の選択」の中では「自分が自分でありつづけている(と思い込んでいる)うちに死ぬこと、現代にあってはそれを可能にしてくれる最も簡便な方法は『自殺』である。」とも述べている。つまり、著者である西部氏は、既に20年ほど前から自分の死に方を「自裁死=自殺」と決めていた節がある。その理由は、自分が単なる生命体でしかなくなった後まで自分を生き永らせることが耐えられないからである。したがって、今回の自殺は意識のある間に自分の生命体をおしまいにするという人間的な選択をしたのであろう。

 

   そう言えば、一昨年12月に刊行された最期の書『保守の真髄~老酔狂で語る文明の紊乱(びんらん)~』においても「病院死を選びたくないと強く感じかつ考えている。おのれの生の最期を他人に命令されたり、弄り回されたくないからだ。」と述べていた。その上に、5年前に妻を亡くしたこと、その後咽頭がんを手術で切除したこと、皮膚病の一つである掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)や頸椎磨滅・腱鞘炎の合併による神経痛等によって手足に強い痛みを感じていたことなど、老齢期(享年78歳)になり心身共に不自由な状況下にあったことも「自裁死=自殺」を選択する意志を強めていく誘因になったのではないかと思う。

 

 最後に、『死生論』の中で私の心に最も響いた文について記したい。それは「おわりに」の中にある「生と死が表裏一体であることに気づけば、よくできた会話は生を語ることによって死を照らしだし、死を想うことによって生を輝かせるような種類のものとなる。」という文である。ともすると近代化の洗礼を受けた私たち日本人は死の恐怖から逃れるために、「死をめぐる会話」を避けてきたと思う。しかし、本当は死の恐怖を和らげるためにこそ、特に世代間において「死をめぐる会話」の場や方法を創造するべきなのである。私たちは、もっと日常的に死について語り合うことが必要なのではないだろうか。

懐疑することを懐疑しない!?~西部邁著『大衆への反逆』における主張~

      前回の記事で、2月のNHK・Eテレの「100分で名著」で取り上げられている『大衆の反逆』のテキストに書かれている内容、特に第2回(2月11日放送分)「リベラルであること」の中島岳志氏の解説内容について触れた。そこで今回は、その最終回になる第4回(2月25日放送予定分)「『保守』とは何か」の解説内容から、我が国でオルテガの存在にスポットライトを当てた、日本を代表する保守思想家であった西部邁が著した『大衆への反逆』(特に「“高度大衆社会”批判-オルテガとの対話」という文章)における主張に焦点を合わせてその概要をまとめ、私なりの簡単な所感を述べてみたい。

 

 評論家としてのデビュー作となった「“高度大衆社会”批判-オルテガとの対話」という文章の中で、西部氏はオルテガの姿勢に対する厚い信頼を綴っている。つまり、オルテガが「大衆とともにあること」と「大衆から離れて独りで歩むこと」の両方を同時に実践したことを高く評価しているのである。また、オルテガの著作の中に、多数者の専制に対する警告を見出している。さらに、大衆が支配する現代のデモクラシーの姿を「集団的独裁」と呼び、現代は少数者と対話しようとせず、異なる他者への寛容を失い、死者を殺してしまった時代だと指摘している。

 

 一方で西部氏は、近代を生み出しながら、その近代を全力で疑ったヨーロッパ近代思想に、多大な信頼を寄せている。つまり、ヨーロッパの懐疑主義的な精神の中に、人間の在り方を見出していたのである。「懐疑することを懐疑しない」…疑うことを疑ってはいけない。自己の存在をはじめ、あらゆるものを徹底的に疑う。これが実は健全なる何かをつかむことにおいて重要なのだ、と言う。しかし、近代は近代を信奉し、そのまま進めばすべてがうまくいくと考える、あまりにも軽薄な時代であるというのが氏の主張なのである。

 

 氏はまたこうも言う。トポスなき、自己懐疑を失った近代人たる「大衆」に寄り添ってみせるのが善良な知識人だという風潮があるけれど、自分はそれには従いたくない。大衆の中にある問題を突き刺し、示して見せることによってこそ、開けてくる世界があるのではないか…。また、自民族中心の思想こそが大衆化、大衆主義の典型であると考えている。そして、ヨーロッパの徹底した懐疑的精神に立った上で、ぎりぎりのところまで自分たちを、人間を疑い、問い詰めた先に、ようやく「日本という国をどう考えるか」という問いが立てられる。それを経ずして、安易に大衆社会の中で「日本」を礼賛し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれている人間を、氏は軽蔑していたのである。

 

 『大衆への反逆』の中で、氏は繰り返し、オルテガの「自己懐疑する精神」を高く評価している。自分や自分の依って立っている時代を、常に問い続ける。その結果として、自分を超えたところにある英知をつかもうとする意志をもち続けたのがオルテガだった。氏は、その「疑いの先にある英知」を、自分のものにしようとしたのである。私は、オルテガから学んだ氏の「懐疑することを懐疑しない」という主張に、徹底して英知をつかもうとする真摯な精神性を感じ取り、強く共鳴する。しかし、この精神性を常に維持することは困難であることも分かる。汝自身、それができるのかと問われれば、安易に首肯することはできない。というのは、私はついつい易き方向に進んでしまいそうになる怠惰な精神状態に陥ってしまうからである。

 

 では、どうすればそのような精神状態を脱することができるのか。私なりに意識して実践していることは、多様性をもった他者との出会い、異質な文化を内包する様々な本との出合いをなるべく積極的に求めていくことである。そして、ともすると即自的に陥りがちな自己の在り方を問い直し、異文化との対自的な対話を積み重ねていく中で、よりよい英知をつかんでいく。…と、ついカッコいい言葉を連ねてみたが、現実的には日々ささやかな実践を積み重ねて、カメのような遅々たる歩みを続けているに過ぎないのだが…。

保守は本来リベラルだった!~オルテガ著『大衆の反逆』に学ぶ~

    現在の我が国の政党政治の対立軸はアメリカに倣って「保守」対「リベラル」という構図になっていると、私を始め多くの国民は認識していると思う。つまり、「保守」と「リベラル」というのは、主に政局的に対立する考え方や立場であると暗黙の内にとらえている。ところが、そのような認識を覆すような「保守は本来リベラルだった!」という言説を知る機会を得た。それは、2月のNHK・Eテレの「100分で名著」で取り上げられている、スペインの哲学者で思想家であるホセ・オルテガ・イ・ガセットが1930年に刊行した『大衆の反逆』のテキストを読んだことがきっかけである。そこで今回は、同番組の第2回(2月11日放送分)「リベラルであること」の中で、講師の評論家で東京工業大学教授である中島岳志氏が「リベラル」に関して解説している内容の概要をまとめながら、私なりの所感を綴ってみたい。

 

 オルテガは保守的な考えをもっていたが、「反リベラル」ではない。むしろ、保守的であるがゆえにリベラリズム自由主義を徹底的に擁護した人物である。その理由は、オルテガがリベラルに対立する存在ととらえていたのは、いわゆる「保守」ではなく、ファシズム社会主義だったかからである。歴史的には「リベラル」という言葉はもともと「寛容」という意味だった。その概念の起源は、17世紀前半にヨーロッパで起こった30年戦争にある。この戦争は、プロテスタントカトリックという宗教上の対立であったが、本質的には価値観をめぐる戦争であった。しかし、30年間の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しいという結論が出なかった。そこで現われたのが「リベラル」という原則だった。〈自分と異なる価値観をもった人間の存在を認める。多様性に対して寛容になる。〉これらが近代的な「リベラル」の出発点なのである。そして、この概念は必然的に「寛容」⇒「自由」という観念へと発展する。ここに「自由主義としてのリベラル」が生まれてくるのである。オルテガは、そのリベラルの原則に基づいた「最高に寛大な制度」である自由主義は、「地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである」とも言っている。

 

 一方で、オルテガリベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うという認識ももっていた。違いを認め合いながら共生していくのは、手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史の中でさまざまな英知を育んできた。自分と異なる他者と共存することが「文明」であり、そのときには手続きや規範、礼節といったものが重要になる。ところが、それらを面倒くさがり、すっ飛ばしてしまうのが「大衆」(自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別もつかないような、個性を失って群衆化した大量の人=平均人)の時代ではないか。そのような大衆の時代だからこそ、自分と真っ向から対立する人間こそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだと、オルテガは言う。

 

 オルテガは「大衆」と対立する概念として「貴族」という言葉を使う。反対者や敵対者とともに統治していこうとする人間。それだけの勇気や責任感、指揮をする能力をもった尊敬に値する人間。孤立と連帯とのバランス感覚をもった人間。そうした人間を「貴族」と呼んでいる。真意としては「精神的貴族」「人格的貴族」ということであり、高貴な人であり努力する人であり、卓越する人なのである。また、貴族なる人間は、真理の探求を欠かすことはなく、他者と共存することができる粘り強さをもった人間である。さらに、オルテガ自由主義の本質は、常に過去の経験知の中にある。それが他者に対する寛容であり、またそれを可能にするための儀礼や手続きであるとも言っている。

 

 以上、「リベラル」に関する中島氏の解説内容の概要をまとめてみた。限られた内容ではあるが、オルテガ全体主義が席巻する20世紀はじめのヨーロッパにおいて、「大衆」の本質と民主主義の限界を示し、真の「保守」や「リベラル」とは何かを問おうとしたということがよく分かる。現代の我が国は、オルテガが憂いたような大衆社会そのものになっており、多くの国民が「大衆」になってしまっているように感じる。私自身、いつのまにか無意識に「大衆」化してしまっているのではないかと、本テキストを読んだり、「100分で名著」の第2回の放送を視聴したりしながら反省した次第である。

 

 自分のことを棚に上げて言う訳ではないが、私たち日本国民は、現在の政治や政局の情況を単に「保守」対「リベラル」という構図に当てはめて安易に自分の考えや立場を決めないで、オルテガのいう「貴族」たらんとして「保守=リベラル」的な思考を真摯に深めることが今、求められているのではないだろうか。

「生涯学習」の考え方から発展させた新しい時代の学び方について(2)

    前回の記事では、「ワークアズライフ」の生き方や「学び続けること=仕事をすること=生きること」の三位一体論の考え方を一人一人の国民に保障するためには、これからの学校教育の在り方はどうあればよいのかという問いを発したところで締めくくってしまった。そこで今回は、その回答内容を『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』(落合陽一著)の中の重要な主張を参考にしながらまとめてみよう。

 

 著者の落合氏は、これからの学校教育の在り方を示すものとして今の教育界において重要視されている「STEAM教育」を取り上げている。そして、その中でもこれまでの学校教育において不十分であった、主体的な課題解決に取り組みながら学び続けるために必要なツールとなる「4つの要素」の学びの手法について、具体的な実践例を示しながら解説している。

 

   まず、「STEAM教育」について。「STEAM」とは、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)、そしてArt(芸術)の頭文字を合わせたもの。そして、「STEAM教育」は、AIやロボットとともにシステムに組み込まれる「使われる側」の人間になるのではなく、これからの時代に必要とされる教養を身に付け、創造性を生かしながら、新たなシステムを創造し、AIや人的リソースを「使う側」として活躍するための教育であると主張している。もちろん全ての子どもが「使う側」になれるわけはなく、むしろ多くの子どもが「使われる側」になるのが現実である。とすれば、「使われる側」になることも想定した教育が必要になると私は考えるが、それはまた別の問題になるのでいつか論ずることにして、今回は著者の主張に沿って論を進めよう。

 

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    次に、「4つの要素」について。著者が、今までの学校教育で抜け落としがちな「4つの要素」として挙げているは、次のとおりである。

・ 言語(ロジックなど)…言語をロジカルに用いる能力

・ 物理(物の理という意味で)…物理的なものの見方や考え方

・ 数学(統計的分析やプログラミング)…数学を用いた統計的判断や推定力

・ アート(審美眼・文脈・ものづくり)…アートやデザインの鑑賞能力審美眼

この4つの要素がなぜ学校教育に不足しているかというと、「どう学ぶか」という学びの手法について、これまで議論されてこなかったからだと著者は言う。このような議論を背景にしてか、新学習指導要領においても「どう学ぶか」という学び方に踏み込んだ内容が示されたが、この4つの要素は〈教え-教えられる〉という教育関係を基本にした「何を学ぶか」という教科内容の外側で、それぞれの領域を行ったり来たりしながら、主体的に学び問い続けるためのキー・コンセプトなのである。

 

 では、4つの要素の「学びの手法」(知的な世界との向き合い方=ライフスタイルの問題)のポイントをまとめてみよう。

 

 一つ目は、「言語」の学びの手法について。著者は、特にアカデミック・ライティング(相手が理解できる意味の明確な単語を使い、論理的に正しく意味が伝わる文章を書くこと)の重要性を説いている。そして、それを身に付けるためには、子どもの頃から論理構造や主語が明確に書かれた文章を読み、その構造をできるだけ把握するようにすること。また、自分の頭で考えを深め、それを言語化、つまり言葉にして話すようにすることなどが大切であると主張している。

 

 二つ目は、「物理」の学びの手法について。著者は、まず対象をよく観察して、「なぜ」と問い続けることの必要性を説いている。そのためには、子どもに対して大人は「なぜだろうね」「どうしてかな」「僕はこう思うんだけど、君は?」というスタンスで、一緒に考えること。また、そのような対話の中で子どもに科学的な観察眼を身に付けてさせていくことが大切であると主張している。

 

 三つ目は、「数学」の学びの手法について。著者は、実世界の対象を解析的にとらえる習慣やデータサイエンス、いわゆる統計処理や、物事の判断に確率や統計を使う考え方を身に付けることが大事だと説いている。特に解析的に考えるか、分析的に考えるかの違いを理解し、常に両者の領域を行き来しながら思考や判断を深めていくこと。また、そのためには観察を通したデータ収集に心掛け、仮説・検証を繰り返す習慣を身に付けていくことが大事であると主張している。

 

 四つ目は、「アート」の学びの手法について。筆者は、鑑賞したことを自分の中の文脈と照らし合わせて論理的に言語化して、演奏したり、描いたり、造形したりすることを繰り返す教育の大切さを説いている。そのためには、自分なりのアートの鑑賞法を身に付け、自分のコンテクスト(自分なりの観点、世界の見方)を踏まえて自由に意見を述べる習慣を付けることが大事であると主張している。

 

 以上、4つの要素の「学びの手法」のポイントをまとめたが、これらは前述したようにお互いの領域を行き来しながら考えた方がよい。また、できれば小さい頃から文系・理系を分けずに、両方学んでおくと、両者を無理なく行き来できる柔軟な知性を育むことができると著者は強調している。

 

   「STEAM教育」と4つの要素の「学びの手法」、これらが「ワークアズライフ」の生き方や「学び続けること=仕事をすること=生きること」の三位一体論の考え方を一人一人の国民に保障するための、これからの学校教育の在り方を示す指標になる。その成果は、自律的な学びを中核とした「生涯学習」に必ず発展していくであろう。

「生涯学習」の考え方から発展させた新しい時代の学び方について(1)

 近年、「生涯学習」という言葉を見聞きすることが多い。元々は学校期以後の教育全般については「社会教育」という言葉で表現していたが、昭和40年にユネスコのポール・ラングランが初めて提唱した「生涯教育」という言葉によって、「社会教育」という概念を包含するようになってきた。それが、現在のように「生涯学習」という言葉へと転換したきっかけは、昭和62年に発表された臨時教育審議会第4次答申「個性重視、生涯学習、変化への対応」だったと記憶している。そして、平成18年に改正された教育基本法第3条「生涯学習の理念」では、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことができる社会の実現が図られなければならない。」と記され、我が国においても「生涯学習社会の実現」が目指されることになった。

 

 私はこのような我が国における「生涯学習社会の実現」という施策方針については、基本的に大賛成である。ただし、それを公私にわたる様々な教育機関によって提供されているカルチャースクールへ参加することだと表層的に解釈するのなら、それはちょっと違うのではないかと思う。社会人であれ学生であれ、当該のカルチャースクールの講師が用意したプログラムどおりに受動的に何かを習得するだけなら、それは他律的な勉強になり、本来の自律的な学習とは言えないと考えるからである。知識基盤社会と言われる現代社会に生きるためには、一人一人の国民が生涯にわたって自律的に学び続けることは必須の条件になるのである。だとすれば、「生涯学習」の在り方は自分なりの課題意識に支えられた「自律的な学び」を基本にしなければならないのではないだろうか。

 

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 そのような「生涯学習」に対する考え方をもっている私にとって、最近読んだ『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』(落合陽一著)という本の主張は我が意を得たりであった。そこで今回は、本書の主張の中で私が特に共感した内容と自分なりの簡単な所感をまとめてみたい。

 

 著者の落合氏は現在、筑波大学准教授・学長補佐であり、メディアアーティストとして、科学者として、事業家として世界的に注目を集めている弱冠31歳の若者である。私が落合氏を知ったのは、知人から氏の著書『日本再興戦略』を紹介されたことがきっかけである。その後、『超AI時代の生存戦略』『これからの世界をつくる仲間たちへ』『10年後の仕事図鑑』(堀江貴文氏との共著)『魔法の世紀』『デジタルネーチャー』『脱近代宣言』(清水高志氏・上妻世海氏との共著)『日本進化論』等を読み漁り、氏が「現代の魔法使い」と言われる所以やその才能がよく分かった。最近はnews zeroのコメンテーターやNHKの特集番組のMCなどに起用されるようになり、マスメディアに露出する機会が増えている。その彼が人生100年時代において、どうすれば社会に出た後も学ぶ意欲を持ち続ける人間を育てられるのかという課題意識をもちながら、新しい時代の学び方について提案したのが本書なのである。

 

 著者の様々な主張の中で私が特に共感したのは、「生涯を通じて学ぶことを楽しみ、その自分の学びを社会に役立てられるようになれば、学ぶことそのものがライフスタイルとなる。」という内容。そして、その学びのモチベーションを喚起するきっかけになるのは、「好きなこと」「やっても苦にならないこと」であるから、将来仕事になるような、そして自然に続けられる趣味を小さい頃からもっておくことを勧めている。大事なのは、小さい頃から自分は何が好きなのかを常に考え続けること。著者は「ずっと続けられるような好きなことを仕事にし、高いモチベーションを維持しながら働ける人は、他の人にはないオリジナリティを発揮できるため、これからの社会で生き残り続ける。」とも言っている。このように自然体でいられる行動を仕事にする方法を見つけられれば、ストレスなく呼吸をするように働くことができる。つまり、自律的に学び続けることと、楽しく仕事をしながら生きることが等号で結ばれるのである。著者は、これを著者は「ワークアズライフ」と呼んでいる。私は、この考え方を「学び続けること=仕事をすること=生きること」の三位一体論と呼びたいと思う。

 

 では、一人一人の国民に「ワークアズライフ」の生き方や「学び続けること=仕事をすること=生きること」の三位一体論の考え方を保障するためには、これからの学校教育の在り方はどうあればよいのであろうか。この問いに対する回答についても、本書から多くのヒントを得ることができる。では、それはどういう内容なのか。…と論を進めたいところだが、残念ながら今回は私の勝手な都合による時間不足になってしまったので、具体的な回答内容を示すのは次回に繰り越したい。悪しからず…。

ここらで一休み、一休み!…~当ブログの運営方針についての見直し~

    当ブログを開設して約2か月半経過し、記事の投稿数も50を超えた。当初から私は投稿数が50に達したら、それまでの当ブログの運営方針を見直そうと思っていた。

 

 そこで今回は、開設した際におぼろげながら立てたブログ運営方針や、現在までの運営状況等を振り返り、これからの運営方針について見直してみたい。

 

    まず、投稿するぺースについては今回を入れて72日間に54の記事を投稿したので、平均すると今までは約1.3日ごとに記事を投稿したことになる。結構、速いペースである。これには、ある背景がある。というのは、私は教職を定年退職した後、現在の「生涯スポーツ社会の実現を図ることを目的とした事業を行う公益財団法人」に勤務しており、そこでA4サイズ1枚程度の記事を掲載した「もしもし生涯スポーツだより」という通信紙を年間に35~40号ほど発行している。実は今まで投稿した記事は、この約4年間に発行した通信紙の記事を再構成したものが多く含まれている。もともと当ブログを開設しようと思い立ったきっかけは、「もしもし生涯スポーツだより」に掲載した記事を職場の上司や同僚だけではなく、多くの人に読んでもらいたいという願いもあった。私の投稿ペースが速いのは、実はこのような背景があったのである。

 

    次に、このような背景が影響しているのは、記事の内容についても当てはまる。当ブログの記事のカテゴリーは、「健康・スポーツ」「教育・子育て」「人生・生き方」の3つに絞っているが、カテゴリー別の投稿数(重複あり)を見ると、「健康・スポーツ」が46、「教育・子育て」が15、「人生・生き方」が12と、圧倒的に「健康・スポーツ」の記事に偏っている。上述の背景を考えれば、当然と言えば当然の結果なのである。

 

    しかし、本年2月1日(金)と2日(土)に、私が以前に15年間勤務していた地元の国立大学教育学部附属小学校の教育研究大会に参加し、体育科の公開授業を参観して以来、「教育・子育て」に関する記事が増えてきている。この要因は“昔取った杵柄”で、授業研究に対してつい一家言を披露したくなってしまったからである。悪い癖だと自認しつつも、若い頃から授業研究に前向きに取り組んできたという自負もあり、何よりも「子どもたちにとって意味ある学びを保障する授業」を創造することは私にとって大変楽しく、やりがいのある仕事だったからである。それと、私には今日で2歳になる男子の孫が一人いる。長女夫婦は共稼ぎなので、私たち祖父母が孫の世話をする機会が多い。その孫育ての経験から子育て全般について様々な思いを膨らませることがよくある。したがって、これからは、「教育・子育て」に関する記事をもっと投稿していきたいと思っている。ただし、授業研究的な記事を投稿した時のPV数はほとんどないので、教師向けの専門的な内容ではなく、一般市民向けの日常的な内容にする工夫がいると考えている。

 

    さらに、私はもうそろそろ老齢基礎年金(国民年金)を満額受給する年齢になるので、否応なく自覚してしまう「老い」について思索を巡らせることも多くなった。健康寿命を伸ばし豊かなスポーツライフを創造するために「健康・スポーツ」に関する見識をさらに深めたいとは思っているが、それ以上に「老い」をどう生きるかという実存的課題も切実に意識するようになったので、これからは、同年代の方々にも共感してもらえるような「人生・生き方」に関する哲学・倫理学的な記事の投稿数も増やしていきたいと考えている。

 

 最後に、記事の文体や論調について見直してみると、当初はエッセイ風の文章にしたいと思っていたにもかかわらず、結果的には文体自体がやや堅苦しいものになってしまった。また、論調も自分が読んだ本の読後感想文や内容紹介文のようなものになってしまっている。読者の立場になってみると、私の当初の願いであった「茶飲み友達のように付き合ってもらう」にはほど遠く、やや近づきにくい記事の論調になっているのではないかと反省している。そこで、今後は関連する本の内容に触れる場合でも、あくまでも自分の思いや考えを核にしつつ、できるだけ柔らかい感じの論調にしていきたいと構想を練っている。うまく執筆できるかどうかは、保証の限りではないが…。

 

    したがって、以上のような今後の当ブログの運営方針を踏まえると、記事の充実を図るために、その時々の3つのカテゴリーに関連する課題意識に即してじっくり自分の思いや考えを深め、それに関連した本と対話する中で学んだことを記事に生かすことが肝要になる。そして、そのようにすれば、どうしても投稿ペースが落ちていくことになるであろう。奇特な読者の皆様には、次回から投稿する記事をカメのように首を伸ばして少し待っていただくことになると思うが、今後の充実した記事に“乞うご期待”ということでご容赦をお願いしたい。…これって、投稿する記事内容のハードルを少し高くしてしまったかもしれないなあ。ちょっとプレッシャーを感じてきたが、とにかく楽しく記事を書くことをモットーにしてこれからも頑張っていきたい…。

運動習得能力の低い者に対する個に応じた指導について

    ここのところ、障がいのある子や運動の苦手な子に対する指導法の工夫例について書く記事が続いた。その要締は、「個々の子どもの障がいや発達の特性や行う運動の構造的な特性を踏まえて、少し努力すれば達成する課題を設定して解決させながら、ステップ・バイ・ステップで上達させるようにする指導を行うこと」である。その際に問われるのは、そのような指導を行うことができる教師の資質や力量である。

 

 そこで今回は、障がいのある子や運動の苦手な子に対する指導法を工夫することができる教師に求められる資質や力量に関する内容について、以前に読んだ論文『スポーツがうまくできない者の運動感覚世界に入り込む個に応じた指導を考える』(鵜川是著)を参考にして書いてみたい。

 

 著者の鵜川氏は、体育学・スポーツ運動学を専門としている地元の国立大学教育学部保健体育科の元教授である。氏と出会ったのは私が附属小学校勤務をしていた頃なので、かれこれ30年ほど前になる。出会った当時は教養部在籍だったと思うが、その後の学部再編によって教育学部に配置転換になった。私は氏の研究室を時々訪ね、「学校体育のスポーツ指導」に関してそれぞれの思いや考えをとりとめもなく語り合った。その際に、氏がしきりに話題にしていたのが、「学校体育における二極化の要因とその改善策」であった。

 

    私が今回改めて読み返した論文は今から18年ほど前に提出されたものだが、そのような問題意識の下に執筆され、特に「運動習得能力の低い者に対する個に応じた指導」について具体的に記述されている。少し抜粋してみよう。

 

 「…教師は(運動習得能力の)低い者の生の動きを観て、彼の今までの運動経験などを含む能力状態、彼がその技に持っているイメージ、彼の性格などを感じ取り、今の仕方を繰り返し練習してもできるようになれないことや修正する箇所などを見極めて、課題を変更する、『ここをこんな感じでこうしたら』と指示や示範をする必要がある。(動きの大きさや軌跡など目に見える)動きの形について指示を出すには、教師がある程度の運動知識を持っておればできることかも知れない。しかし(力の入れ方、動きの速さ、始動のタイミングなど感じ取る)力動感については、教師が低い者の生の動きを観ながら教師の身体内に彼と同じ段階の課題を彼の身になってしている積もりでの力動感を呼び起こす『運動共感』をし、教師の力動感と彼の力動感とを比べて適切な指示を出す必要がある。」〈( )内の言葉は、読み手が分かりやすいように私が補足した内容〉

 

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    ここで述べている内容は、「一人一人の内側で感じている運動感覚を大切にした指導」、つまり「一人一人の運動感覚世界に入り込む個に応じた指導」を具体的に述べたものである。そして、このような指導を教師ができるようになるためには、「教師がその技を覚え始めた頃の、できれば前述の歩き始めに当たる段階辺りの技の動き方の運動感覚的なことを持っていること」が重要になるのである。さらに、技ができるようになるためには「低い者が身体と対話すること」がどうしても必要になる。その内容については、次のように述べている。

 

 「今どのような動き方(特に力動感)をしたかを筋感覚などで自己観察して、教師の指示や示範と何処がどう違うのかを感じ取ること、今の動き方が心地よかったかどうかを感じ取ること、今、目指している目的意識が自分の今の能力状態に適切かどうかを自問することなどである。」しかし、このような「自分を見つめること」を低い者は出来にくい。そこで、「最初は教師ができるだけ彼らの『身になって』教師自身の身体と対話して、彼らに身体と対話させる必要がある。」そして、「両者が身体と対話したことの『摺り合わせ』をその低い者にさせることが、ここで言う個に応じた指導と学習」なのである。

 

 最後に、今までの学校体育において特に運動習得能力の低い者に対する個に応じた指導が少なかった要因を分析している箇所がある。そこでは、その背景にある「自然科学的な運動研究や心身二元論で人間を捉えていること」の問題点を指摘しており、私は我が意を得たりの心境になった。また、その問題点を克服する道を(その場で問題になっている事柄に関しての納得点を、その場にいる者たちの主観と主観の間で探し出すと考える)「現象学的な考え方」に見出そうとしており、哲学や倫理学に興味をもっている私にとって明るい展望が開けた。今後、フッサールを祖とする「現象学」について学び直し、「運動習得能力の低い者に対する個に応じた指導」の在り方について追究したい。そして、障がいのある子や運動の苦手な子に対する指導法を工夫することができる教師に求められる資質や力量について、実践的な研究を参考にしながら積極的に提言していきたい。