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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容とは…(2)~地元の国立大学教育学部附属小学校の研究開発内容の概要~

   前回は、私が現職の時、地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃のことを記事にした。今から約20年前、文部省(当時)から研究開発学校を委嘱されて取り組んだ「小学校教育の大改革!」とも言うべき研究内容の概要の一部を紹介したのである。

 

 そこで今回は、前回紹介した8つの「学習領域」の各「活動単元」の学習において、子どもたちの活動をどのように評価し、通信簿はどのような内容や形式等にしたのかを報告したい。

 

 まず、「活動単元」の学習において私たちが大切にしたのは、子どもたち自身の「自己評価力」をいかに高めるか、そのために教師はどのような支援をしたらよいかという研究視点であった。子どもたちが課題意識をもって主体的・能動的に「自己活動」している時、その内面では自然に「自己評価」をしているものである。そして、「自己活動」の内質がより高まるためには、「自己評価」が自己中心的な思いや考えにとらわれず「他者評価」を受け入れることで「自己評価」を相対化して適切に機能させる必要がある。そこで、教師は子どもの「自己活動」をよりよい方向へ導くために、有効な「他者評価」、例えば承認や激励等の言葉掛けを行ったり、環境や他者への豊かなかかわり合い方を示唆したりすることが求められるのである。この際、私たちが気を付けたのは、教師があらかじめ子どもたちの「自己活動」の様態を固定的にとらえ、その望ましい姿を強制的に実現しようとしないこと。言い換えれば、「今、ここ」における子どもたちの「自己活動」の様態をあるがままとらえつつ、その時その場の情況に応じた有効な「他者評価」を行い、それに基づいて子どもたちへ適切に働き掛けることである。言わば、現象学的なアプローチによる教師支援の具体化であった。実際には大変難しい教師支援の在り方である。しかし、私たちは子どもたちに「よりよい自分を形成し、ともに生きようとする力」を真に育むために、労を惜しまずに取り組んだ。その結果、私たちの願いが少しずつ子どもたちの姿に反映して実現化していった。今でも、あの頃の充実感や成就感に満たされた気分が蘇ってきて、胸が熱くなる。

 

 次に、研究開発における評価研究のもう一つの柱は、通信簿「あゆみ」の改善であったので、その内容について書いてみたい。ほとんどの学校は通信簿もしくは通知表を活用して、子どもの学校での生活や学習の様子を家庭にお知らせしていると思う。しかし、現在でこそ絶対評価を重視しているが、当時の学校においては特に「学習の記録」に関して相対評価に偏り過ぎていたために序列化とラベリングを生み出す恐れがあった。また、学校から家庭への一方的な評価情報の伝達にとどまり、教師と保護者との相互作用が不十分であった。そこで、通信簿の意義と機能に関して次のように規定した。「通信簿は、児童の自律的な人間形成に資するために学校が独自に作成する、学校と家庭の相互作用の機能とともに、児童の〈自己評価〉とその相対的視座になる〈他者評価〉の機能を有する連絡及び記録文書である。」こ の規定に基づき、改善を重ねて研究開発期間の3年間で最終的に作成した内容は、やはり「小学校教育の大改革!」と呼ぶのに相応しいものになった。

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 上表は、当時の通信簿「あゆみ」の一部である。一般に現在の通信簿に位置付けている「学習の記録」は、各教科の観点別評価項目ごとに到達したかどうかの符合が付けられているが、「あゆみ」は「活動の様子」として「学習領域」を明示した「活動単元」名ごとに「活動を振り返って」という欄があり、それぞれに子どもが「よくがんばった」「がんばった」「もう少し」という3段階評価を付け、その右欄に記述式の「自己評価」を書くようになっている。また、「○学期を振り返って」という欄には、○学期における8つの「学習領域」の中で特筆すべき活動の様子について教師が記述する「他者評価」を書くようになっている。さらに、「家庭から」という欄には、保護者からの返信内容を書くようになっている。今思えば、教師にとっては手間暇のかかる通信簿だったと思う。しかし、当時は本研究開発の趣旨を生かしたよりよい評価の在り方だと認識して取り組んでいたので、私たちはストレスとして感じることは少なかったと記憶している。やはり教育的な意味や価値を見出している教育活動は、量的に多少負荷がかかる業務であっても教師は楽しく仕事ができるものなのである。昨今の教員の「働き方改革」の内容を見ると、単に教員の勤務時間や業務量にばかり目が奪われているようだから、現在だったら「あゆみ」のような通信簿は採用されないのではないだろうか。しかし、私としてはもっと教師の「生きがい」や「やりがい」という自己実現的な視点にも目を向けてほしいと思う。

 

 まだまだ書き加えたい研究内容はあるが、読み手の立場を考えれば、そろそろ筆を擱くのが妥当な分量になった。ただ、どうしても最後に付け加えたいことであるので、それを記して終わりにしたい。それは、私が本研究開発の責任者として文部省(当時)へ出向いて、研究開発内容のプレゼンをして終わった後にある教科調査官が労いの言葉を掛けてくださり、最後にさりげなく言われたことである。

 

 「この研究開発内容は、時間的に少し早すぎたかも知れません。20年後には、多くの方から高い評価を受けるのではないでしょうか…。」その約20年後に、苫野一徳氏が著した『「学校」をつくり直す』が刊行されたのは、何か運命的な巡り合わせのような気がしている。

約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容とは…(1)~地元の国立大学教育学部附属小学校の研究開発内容の概要~

   前回と前々回の記事で、苫野一徳氏が最近著した『「学校」をつくり直す』から学んだことをまとめた。その提案内容の概要についてはそれらの記事に目を通してほしいが、敢えて思い切って要約すれば、次のようなことになる。

 

 今までの学校教育のシステムは限界になっているので、これからの学校教育は「探究」(「学びのプロジェクト化」)を核としたカリキュラムを編成し、基礎学力を身に付ける学びについては「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びを保障するようなシステムに転換していくべきである。

 

 私は著者のこのような提案内容に対して基本的に賛同する立場から、学校現場の改革に期待を寄せる記事を書いた。それと言うのも、今から約20年前に私が地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた時に、文部省(当時)から研究開発学校を委嘱されて取り組んだ研究の根底を支えた教育観や学習観等の基本的な考え方は、著者の提案内容と同様な視点に立っていたからである。当時、私は研究開発推進の責任者であり、その基本構想や研究方針等を提案する立場だったという経験があるので、本書を共感的に読み進めることができたのである。

 

 そこで今回は、今から約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容概要を紹介したい。当時(平成9年3月)、文部省に提出した「研究開発実施報告書」等の内容は膨大なものなので、当ブログではその骨子について今回を含めて2回に分けて綴ってみたいと考えている。

 

 まず、私たちが育てたい学力と規定したのは、「よりよい自分を形成し、ともに生きようとする力」であり、それは「(環境や他者と)かかわり合う力」を中核とした「問題解決力」と「自己評価力」という下位学力が支えると構想した。そして、そのような学力を育てるためには、「ともに生きる〈場〉」を保障する柔軟で弾力的なカリキュラムを開発する必要があると考えた。「ともに生きる〈場〉」というのは、「子どもが環境や他者とかかわり合いながら、対自的・相対的な〈自己活動=自己評価〉をして、よりよい方向で経験や認識を再構造化するような情況」という一般的にはやや馴染みにくい表現をして定義付けをした。というのは、「ともに生きる〈場〉」の概念が本研究開発のキーコンセプトになるので、明確な概念規定をしておく必要があったからである。

 

 次に、私たちが大切にしようとした学びの経験は、子どもたちの関心・意欲に基づく活動や問題解決的な活動等を中核として、環境や他者とのかかわり合いを構想した単元(これを「活動単元」という)による学習、つまり子どもが課題意識をもって主体的・能動的に活動する授業の学びである。これは、知識や技能等の基礎的基本的な内容を到達目標として設定し、それを段階的に指導する過程を構成する単元(これを「内容単元」という)による勉強、つまりそれまでの学校教育における子どもが受け身で受ける授業の学びではない。そして、本研究開発において重点的に取り組んだ「活動単元」による学習は、基本的に子どもの現実的な課題意識に基づいた「総合的な学習」として構想したものであり、各教科等の学習内容を総合的・関連的に取り扱うプロジェクト型の学びだったのである。この点、苫野氏が提案している「探究型の学び」(学びのプロジェクト化)とほぼ同義なのである。

 

 したがって、当初は教科等の枠組みを一端取っ払って、全ての「内容単元」を「活動単元」に構想し直す研究作業を行った。もちろん今までの「総合的な学習」の実践成果を踏まえて、あくまで仮説としての「活動単元」を創造していったのである。そして、実際の週の時間割は教科等名で表示するのではなく、現在進行中で実践している「活動単元名」で表示していた。しかし、やはりカリキュラムを構成する緩やかな枠組みは必要なので、領域名としては従来の「教科等」ではなく、新しい枠組みとしての「学習領域」を作った。因みに、その名称は「たんけん・冒険の学習」「しらべ、調査・研究」「育ての学習」「創造の学習」「習いの学習」「運動の学習」「交流の学習」「働く学習」の8つであった。また、これら以外の主に学校行事に関連する活動は「みんなの時間」と称して、カリキュラムに位置付けた。一般の方々にはちょっと想像しにくいことかもしれないが、教育関係者であればこのチャレンジは「小学校教育の大改革!」と言っても言い過ぎではない取組だったのである。

 

 次回は、上述の「活動単元」による学習に対する評価をどのようにしたのか、通信簿はどのような内容や形式等にしたのかなどについて、少し詳しく報告してみたいと考えている。

小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋とは…(2)~苫野一徳著『「学校』をつくり直す』から学ぶ~

 「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に学ばせる」という今日の学校教育のシステム的な問題を解決する一つの方向性が、「探究」をカリキュラムの核にすること、つまり「学びのプロジェクト化」である。これが、前回の「小学校をもっともっと幸せな環境にする」道筋の前半で要約した概要である。

 

 そこで今回は、その後半として「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びの視点から著者の提案をまとめながら、私なりの簡単な所感を加えてみたい。

 

 著者の提案に対する現場の教師からの心配や批判の一つに、「基礎学力と言われる読み書き算の学習内容は、探究では十分身に付かない。また、基礎学力の格差が大きくなってしまう。」という声が必ず起こると思われる。それに対して、著者はおおよそ次のようなことを述べている。

 

 でも、一斉に「黙って座って先生の話を聞く」スタイルで子どもに勉強させる必要はない。つまらない授業や、時間のムダに思われる授業、またついていけない授業などを、ただおとなしく聞いているだけなんて、子どもたちにとって拷問みたいなものである。だから、これを「個別化」していこうと言い続けている。つまり、子どもたちがもっと自分のペースで、自分に合ったやり方で、また自分に合った教材で学ぶようにする。例えば「出来合いの問いと答え」の内容であっても、このように学びを「個別化」すれば、子どもたちの学習意欲は大いに高まり、その到達はより十分に保障されるはずである。ただし、この「個別化」には必ず「協同化」をセットにする必要がある。つまり、先生や友達の支えがやはり必要なのである。分からないことがあれば、気がねなく先生や友達に助けを求められること。困っている友達がいれば、さりげなく助けに行けること。このような「協同性」は「相互承認」の感度を育む意味でもとても重要なことである。また、今までの日本国内外の先進的実践の成果を検証すると、学びの「個別化」と「協同化」の融合が、学校でのムダな時間を圧倒的になくすことができるのは間違いない。

 

   このような内容に対して、またしても現場の教師からは「学習指導要領は、第何学年で何を学ばなければならないかということが規定されているので、現実的には無理ではないか。」という反論をされると思う。それに対しては、著者は次のように述べている。

 

 2016年から始まった、いわゆる小中一貫校の一つである「義務教育学校」においては、この規定がすでに緩和されている。例えば、「義務教育学校」では九九は2年生で、ひし形や台形は5年生で、といった縛りがない。学習指導要領の内容は、義務教育9年間を通して学びとればいいとされているのである。また、地方の小規模校には、異学年の複式学級がすでにたくさん存在しており、学びの「個別化」と学年を超えた「協同」を可能にする条件が整っている。小規模校でこそ、ぜひ、学びの「個別化」と「協同化」の融合にチャレンジしてほしい。

 

 私は上述した著者の提案内容について、最初は半信半疑であった。しかし、現職の時に勤務した地元の国立大学教育学部附属小学校や、山間部・島しょ部のへき地小規模校等の実態を振り返ってみると、かなり現実性のある提案ではないかと思うようになった。ただ、実践する場合の教師の役割はどうなるのかと疑問をもった。その疑問に対しても、著者はおおよそ次のように考えている。

 

 「探究型の学び」の場合、教師は子どもたちの「探究」をサポート、ガイドする「協同探究者」「探究支援者」になる必要がある。教師は「答え」を持っている人である以上に、子どもたち自身が仲間や先生の力を借りて立てた“問うに値する問い”に答え抜く際の、頼れる探究支援のプロである必要がある。また、学びの「個別化」と「協同化」の融合の場合は、時と場合に応じて、人の力を借りたり、人に力を貸したりできる学びの環境を整える。そんな学びのダイナミックな学び合いの力を、最大限発揮できるように教師は学びの環境をデザインするのである。

 

   私はこのような教師の役割は、実際は大変高度な力量が必要だと思う。子どもたちの「探究的な学び」や「個別的で協同的な学び」を支援するというのは、一見すると楽なようにとらえられるが実はそうではない。かなり広範で高度な知識を有し、しかも一人一人の学びの内質を的確に把握した上で、適切な支援を行わなければならないのである。とすれば、著者の提案している内容を学校教育で実践するためには、教師自身がそれを可能にするための資質・能力を高める研修を積むことが不可欠である。また、今までの教員養成の在り方についても抜本的に改善していく必要があるであろう。でも、それらの困難な課題を抱えているとは言え、「小学校をもっともっと幸せな環境にする」ために、著者の提案している内容の実現化へ向けて学校現場が一歩一歩着実に進んでいってほしいと、私は強く願っている。

小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋とは…(1)~苫野一徳著『「学校』をつくり直す』から学ぶ~

 以前に私が高い教育的な関心をもって読んでいた『どのような教育が「よい」教育なのか』と『教育の力』の著者・苫野一徳氏が、最近『「学校』をつくり直す』という新書を発刊した。本書は、システムとしての学校教育の在り方を問い直し、「小学校を、本気で、もっともっと幸せな環境にする」道筋を明らかにする目的で書かれた本である。長年、小学校に勤務してきた私としては大変気になる本だったので、早速購入して読んでみた。私が常々、今までの学校教育のシステム上の課題だと思っていたことの解決策について具体的かつ要領よくまとめている上に、その根拠になる新たな教育学的な知見や先進的な取組事例等も紹介されており、私にとって学ぶべき点が大変多かった。

 

 そこで今回は、本書から学んだことのエッセンスをまとめながら、著者の考えている小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋の前半を私なりの所感も交えながら明らかにしていきたい。

 

 まず、著者は今、学校が抱えている問題の本質について、次のような指摘をしている。

 

 公教育が始まって約150年、学校教育は「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムで運営されてきた。しかし、そのシステムが今、限界を迎えている。例えば、「落ちこぼれ」・「吹きこぼれ」、「小1プロブレム」、「体罰」、「いじめ」などの問題は、主に今までの学校教育のシステムが起因になっている。

 

 次に、そのシステムを転換するために求められる公教育の本質と、それを踏まえた上で問うべき実践的な課題を、次のように提起している。

 

 公教育の本質は、全ての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、全ての子どもが「自由」に生きられるための“力”を育むことである。そして、私たちが問うべきは、学校はどうすれば「自由」と「相互承認」を実質化できるかという問いであり、これをより具体化すると、① 現代において「自由」に生きるための“力”は何か? ② その“力”はどうすれば育めるのか? ③ 「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?の三つの問いになる。

 

 上述の公教育の本質については、前回の道徳教育に関連した記事においても触れた内容であり、これからの公教育を支える根本的な学力観とも言える。また、三つの実践的課題については、教育実践を進めるに当たって当然問われるべきものであり、これからの学校教育の具体的方略に当たるものなのである。

 

 では、特にこの三つの実践的課題の中の①と②への対応策について著者が提案している内容を、私なりに思い切って要約してみよう。

 

 一つ目の問いについては、一言で言えば「探究する力」である。次に、二つ目の問いについては、「探究する力」を育むために学校教育においては今までの学びから「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換が必要になる。特に、カリキュラムの中核を「プロジェクト」あるいは「探究」へと転換すること。言い換えれば、出来合いの問いと答えばかり学ぶ学びではなく、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」という「探究型の学び」への転換であり、それを実現するためには、学校教育における学びを「プロジェクト化」していく必要がある。具体的には、「探究」を中核にした時間を小学校でも全体の時間数の4~6割くらいの時間は確保してほしい。

 

 かなり大胆な提案である。現場の教師からは当然、様々な問題点が指摘されて実施の不可能性を主張するであろう。著者はその様々な問題点を想定して、解決していく基本的な考え方や方策等について丁寧に説明しており、私としてはかなり納得する部分が多かった。特に現行の学習指導要領における様々な教科を横断した「合科的・関連的指導」の趣旨や、新学習指導要領の目玉の一つである「カリキュラム・マネジメント」の趣旨を生かせば、「探究」を中核にした時間を4割くらい確保することが可能であることを論証している部分はとても説得力がある。今後、各学校で前向きに取り組んでくれることを私は心より期待したい。

 

 なお、次回は今回に引き続き、著者が考えている小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋の後半を、「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びの視点からまとめてみたいと考えている。

「特別の教科 道徳」の実践的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(2)~

     前回の「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容に引き続き、今回は実践的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 まず、竹田氏は「道徳は学べるか、教えられるか」という質問に対して、おおよそ次のようなことを答えている。

 

 共同体的な同情や憐憫、共感などという道徳的感受性や道徳感情は、知識として教えることはできない。それを育てるのはまず家庭、次によい友達関係である。ただし、「相互承認」が我々の社会の基本であること、他人の自由を侵害しないという意志において、実は自分の自由が守られているということ、その共通の意志で社会の営みが支えられていることは教えられる。また、このことの理解を深めるのは単なる知識ではなくて、我々が教養と呼ぶものである。つまり、様々な人間がどのようにしてその生き方を模索したかを知っていくのが教養であり、近代における教養の源泉は哲学と文学と芸術(表現的文化)。だから、道徳的な教育の中心は教養教育としての教育の中心に入っているのでないといけない。近代の教養教育の大事な本質は、家庭的な環境という初期条件の大きなハンディを自分で考え直し、この条件をリセットできる可能性を誰にでも与えることである。したがって、道徳を教えるという考えはやめて、教養を育てることが大事なことである。

 

 それを受けて、苫野氏はおおよそ次のようなことを述べている。

 

 教育は「承認の最後の砦」であるべきである。「相互承認」には三つの契機があり、まずは「自分を承認できること」、次に「他者を承認できること」、そして「他者から承認されること」。その中で一番重要なのは、「自己承認」。したがって、立てるべき問いは、「ではどうやって、しっかりと自己承認の土台となり、相互承認の感度が育めるような教育環境が整えられるか」になる。だから、道徳教育というやり方で、相互承認の感度を育むみたいな話はちょっと無理がある。だだ、それでもなお、何か道徳教育ということをやるのならば―市民教育(シティズンシップ教育)と言いたいが―、その中身は教養である。その一つの根本は、近代社会とは「自由の相互承認」から成り立つ社会であること、そのために異なる価値観やモラルをもった人たちが互いに承認し合い共存するために、「ルール」を作り合う経験が必要になるということである。

 

 また、それを受けて、竹田氏は次のような持論を展開している。

 

 根本的には、モラル教育ではなく、ルールの本質を少しずつ教えていくことが大事である。ルールというものは、初めは親のルールを受け入れ、次に学校のルールを受け入れる。つまり、子どもは初め上から与えられたルールを守る能力を身に付けていくけれど、大事なのは、複数のルールを経験する中で、子が徐々にルールの本質というものを理解するようになること。また、そうなるような仕方でルールを与えないといけない。そのことで徐々に自分たちでルールを作れるようになってくるからである。ルールは、根本は人間同士の相互承認に根にもつという感覚がだんだん理解できる仕方でルールを与えることが大事なのである。ただし、その時の原則は、いきなり子どもの「自由」をすべて認めてはいけない。子どもが少しずつ他人の自由を認め、もし侵害した時にはその責任を取るという自覚と能力が身に付いてくる度合いに応じて、子どもにより大きな自由を与えていく。つまり、他者の自由を承認できる感度と意思の形成に応じて、より「自由」を認めていくという原則である。

 

 さらに、それを踏まえて、苫野氏は次のような公教育批判を行っている。

 

 学習指導要領では、ルールを共に作るというような契機がほとんどない。ルールを守るとか、法を遵守するとしか書かれていない。これは大きな問題である。日本人の多くは、ルールの本質を分かっていなくて、ルールは与えられるもの、意味はよく分からないけど、従わなくてはならないものという発想が強い。また、ルールは自由を束縛するものというイメージも強い。これらの実態を生んだのは、教育の責任が大きいと思う。本来、ルールというのは自由を束縛するものではなく、みんなが自由になるためのものである。この発想がない一つの理由は、やはりルールを共に作る経験が圧倒的に不足しているからである。また、そもそも今あるルールの問い直しさえもほとんど行われず続いている。だから、公教育は、ルール共創教育とでも言うか、ルールを共に作り合う経験をたっぷり保障する必要があると思う。

 

 私はお二人が応答しているほとんどの内容についてほぼ賛同する。私が現職の時には、低学年であれば「体育科」のゲーム領域の学習において、まずは基本のルールに従ってゲームをして楽しみ、徐々に個人技能や集団技能が高まって基本のルールでは物足りない事態になったら、より複雑にルールを変更してゲームを楽しむという学習過程を保障していた。また、中・高学年であれば「学級活動」において、年度当初に学級で決めたルールが様々な事情で適用しにくい状態になったら、よりよく改善するための話合い活動を行い、改善されたルールを基に実践するという活動過程を保障していた。そのような実践は今までの学習指導要領に基づく教育実践でも可能だったのであり、私は積極的に「ルール共創教育」に取り組んできたつもりである。しかし、「道徳の時間」の実践では十分な取組ができなかった。

 

    だから、本対談においては現場の教師たちが求めている「特別の教科 道徳」のより実践的な内容、つまり日々の道徳の授業にどのように取り組むかという課題に対する具体的な内容に触れられていないのが不満である。道徳教育の理念や実践への構えについては、「自由の相互承認」の感度を育むことに尽きるが、ではそのための道徳教育の具体的な目標やそれを実現するための授業をどう構想していくのかという実践方略上の課題は残されたままである。この課題に対する回答内容については、いずれ私なりに思っていることや考えていることを記事にしたいと考えている。

 

 次回は、その課題解決の前提になるシステムとしての学校教育のよりよい在り方を探るために、苫野氏の近著『「学校」をつくり直す』から学んだことをまとめてみたいと考えている。

「特別の教科 道徳」の理念的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(1)~

     新元号が「令和」と決まり、各種のマスメディアには新しい時代の到来に向けた夢や希望を語っている国民の声が取り上げられている。一方、そのような祝賀ムードに溢れた雰囲気の中、各地から満開の桜の下で「お花見」を楽しむ庶民の姿が、テレビ画面に映し出されている。私の自宅近くの河川土手の「お花見」会場では、陽が落ちた後も肌寒さが残る中で「夜桜」見物を楽しむ酔客が多い。その騒々しい声は自宅にいる私の耳にまでかすかに届いてくる。昨夜は「華やいだ音が風に乗って運ばれる季節になってきたなあ。」と呟きながら眠りに就いた。

 

   いよいよ今年も爽やかな春風がそよぐ季節を迎え、各学校はもうすぐ入学式や始業式を迎える。長く教職に身を置いていた私の心には、定年退職後4年も経た今でも「いよいよ本年度が始まる!」という気持ちが自然に湧き上がってくる。長年の生活習慣の中で肌身に沁みついた時間感覚は、簡単には消えないものなのだ。

 

 ところで、小学校では来年度から新学習指導要領が全面実施になるので、本年度はその移行措置の最終年度になる。既に昨年度から年間を通して「外国語活動」は中学年で15時間、「外国語科(英語科)」は高学年で50時間、「特別の教科 道徳」は全学年で35(1年は34)時間、先行実施されている。各小学校では全面実施に備えて、それらの教科等や新しく導入されるプログラミング教育等の学習指導の在り方を研究する校内研修会に鋭意取り組んでいると思われる。

 

 そこで今回は、私が一番気がかりな「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 苫野氏の「そもそも道徳とは何か。」という質問に答えるという形で、竹田氏が哲学的な観点から回答したことは、おおよそ次のような内容である。

 

    近代哲学の中で特に有名なのは、カントの道徳哲学である。カントは道徳の本質を「聖なるもの」から考えることを全てやめて、人間なら誰でももっている「理性」に道徳の基礎をおいた。まず「人間は何が善であるかを必ず理性で判断できる」という基本命題を立てた。次に、「これが善である」という理性の判断に基づいて、自分の感性(欲望)を抑えてこの判断に従って行動すれば、その行為は必ず道徳的行為(善)と言える。これがカントの道徳原理である。

 

   ところが、このカントの「道徳」の考えは中世までの宗教的道徳に比べると大変よいが、近代社会ではこの考えは本質的に成り立たないと痛烈に批判した哲学者がいる。それは、ヘーゲルである。ヘーゲルは、近代社会では生活様式がますます多様になり、価値観もそれに応じて多様になる必然がある。このために何が善か、また何が幸福かは決して一律に決められず、むしろ各人が自分なりの「善」や「幸福」の在り方を追求することを、他人の自由を侵害しない限りで、互いが相互承認するのが大原則だと主張したのである。そして、「善」は多様な理念として信念対立となることが必然だけど、自分の信念に固執せず、それが本当に普遍的な「善」かどうかを絶えず検証しようとする心意が必要になる。この「善」の心意をヘーゲルは「良心」と呼んだ。近代人は「道徳的」心意をもつだけではなく、「良心」という心意にまで進まないといけない。「良心」という在り方が近代人の倫理の本質であると、ヘーゲルは言っている。この批判は大変本質的かつ強力なのである。

 

 以上のような竹田氏の回答内容を受けて、苫野氏は次のような重要なことを述べている。

 

 「相互承認」。これが一番のキーワードである。共同体の慣習的なモラルを教育する道徳教育は、公教育においてはナンセンスだと考えている。「相互承認の感度」、こちらの方に道徳教育はシフトしていかなくてはいけないと思う。つまり、「これこそがモラルである、善である」と強弁したり教育したりするのではなく、お互いの価値観やモラルを、絶えず「相互承認」へと投げかけ吟味し合う経験や教育こそが大事なのだ。しかし今の道徳教育は、劣化版カント主義とでもいうか…。絶対に従わなければならないとまでは言わずとも、多くの場合、結構その構えが強いのである。

 

 私はこの苫野氏の発言内容に対して、概ねのところは賛同する。私が現職の時に見聞した今までの「道徳の時間」の指導の在り方は、様々な指導方法を創意工夫しているものの基本的には、その時間のねらいを「徳目」として自覚させ、身に付けさせようとする授業構造になっていたと思う。つまり、知らず知らずの内に劣化版カント主義に陥っていたのである。確かに、授業の中で価値葛藤の場面について話合いをする場を設定はしていたが、それはあくまでねらいを達成するための手段的な指導方法である。「話合い」が、お互いの価値観やモラルを「相互承認」へと投げかけ吟味し合う場になっていなかったのではないか。私は、新学習指導要領で新設された「特別な教科 道徳」の授業構造を、「相互承認」を大切にするヘーゲル的な道徳教育の在り方へと転換してほしいと期待している。

 

   なお、次回は今回に引き続き、竹田氏と苫野氏が実践的な道徳教育の在り方として「道徳は学べるのか、教えられるのか」を語り合った対談内容について触れてみたいと思っている。

「parkrun」(パークラン)という運動イベントのこと、知っていますか?

 4月6日(土)の午前中、東京の二子玉川で日本初の「parkrun」(パークラン)が開催されるらしい。また、それ以降に開催する予定で準備が進んでいる地域が、神奈川・湘南、千葉・柏の葉、大阪・深北緑地、そして私の住んでいる愛媛・松山の4か所となっている。では、「parkrun」とはどのような運動イベントのことなのだろうか。

 

 そこで今回は、この「parkrun」について少し解説してみたい。

 

  「parkrun」は、そもそも2004年に英国でPaulという男性が親しい友人と公園に集まり、5㎞のランニングを土曜日の朝に習慣的に行ったことから始まったそうである。それが今では世界各国に広がり、毎週土曜日の定時に行われる参加費無料の5㎞のウォーキング、ジョギング、ランニングなどを行う運動イベントとして認知されてきたのである。「parkrun」は、大人から子どもまで、誰でも気軽に参加することができる運動イベントであり、習慣的に集い楽しみながら運動する場となることで、人々の健康増進に寄与する取組になっている。現在、世界20か国、毎週1,700か所以上で開催されており、ウォーキング、ジョギング、ランニングなどを行う人々、そしてそれを支える運営ボランティアとして毎週30万人以上の人々が参加している。また、2004年に発祥して以来、全ての地域で熱心なボランティアたちによって運営され、現在までに合計350万人の会員が4,500万回の「parkrun」に参加したそうである。

 

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 ところで、本年の3月6日、住友生命保険相互会社は英国の非営利団体parkrun Globalとパートナーシップ契約を結び、この「parkrun」を日本国内で展開することにした。それに合わせて、parkrun Globalは一般社団法人parkrun Japanを設立し、parkrun Japanが日本国内の「parkrun」運営を行うことになった。そして、今のところ最初に取り組む地域が上述した5か所なのである。

 

 さて、我が郷土である愛媛・松山での開催に向けての準備状況はどうなっているであろうか。現在の時点で私が知り得ている情報をまとめると、次のようになる。

 

○ コンセプトは、「健康増進」と「コミュニティの醸成」。

○ 主催は、一般社団法人parkrun Japan。

○ 第1回の開催期日は、5月の大型連休後の最初の土曜日。(以後、毎週土曜日)

○ 開催時刻は、午前8時スタートに間に合うように集 合。時間になったら、号令に合わせてスタートし、ゴー ル後は自由解散。

○ 開催場所は、城山公園堀之内地区(園内に定めた5㎞のコースで実施)。

○ 参加者資格は、あくまで個人の意思で事前にparkrun  Japanに「パークランナー」として登録した者で、誰で自由に参加可能。

○ 運営については、「パークランナー」として登録した者のうち、自分が責任者となって開催したいと希望する人が、開催コースなどを設定してparkrun Japanに申請し、認められれば「イベントディレクター」(1名or最大2名)として運営。

○ 「イベントディレクター」は、登録した「パークランナー」の中から「ランディレクター」及び「ボランティアスタッフ」(両者は兼任可)を最低20名確保。

○ 大会当日のスタッフは最低5名必要であり、週ごとに交代で対応することも可能。「ランディレクター」の出席は必須。

 

 果たして愛媛・松山での開催が上手くスタートするかどうかは、まだ見極めにくいところがある。ただ、私も「ランディレクター」の役割を担うつもりである。松山市及びその周辺市町の方々は、この「parkrun」という運動イベントに気楽に参加し、一緒に盛り上げていきませんか。まずは、parkrun Japanの公式サイトから「パークランナー」として登録しましょう。