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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

哲学カフェで「学び」の意味について対話をしました!~市井の哲学カフェ初体験記~

 6月も終わろうとしている。今月は2回しか記事をアップしていないが、私にとって心に残る経験を様々にしたので、せめてその中でも特に印象深かった記事をもう1本綴っておきたい。それは、もう2週間ほど前になるが、今月14日(金)の夜、私の職場の隣にあるコムズ4階の創作室を会場にして開催された哲学カフェ(NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場主催で、テーマは「学ぶ」ことの意味)に参加した時のことである。市井の哲学カフェ初体験だったので、その時の様子と感想等についてぜひ綴ってみたい。

 

 そもそも今回参加しようと思ったきっかけは、たまたま昼休みの時間にコムズの1階に設置している各種チラシコーナーをふらっと訪れた時、この哲学カフェのチラシを見つけたこと。また、その主催者が先のNPO法人だったこと。というのは、この団体は私が教職を定年退職した後に勤務した独立行政法人愛媛県スポーツ振興事業団と「森の幼稚園」という事業を共催していたので、私も何度か運営に携わったことがあったから、身近な存在に感じたからである。

 当日の18時半から開始された哲学カフェのファシリテーターは、地元の私立大学の非常勤講師でコミュニティカレッジ講師もしているYさんだった。参加者は、20~30代の男性3名(そのうち2名は主催者側)、20代の娘とその母親、福祉関係の仕事をしている女性、女子高校生2名、50代の主婦、私を含めて60代以上の男性3名(そのうち、1名は外国人)、年齢・性別・職場・国籍等、多様な属性を持った方々、そして主催側責任者のYさん(ファシリテーターの方と同名)を加えると、総勢12名だった。私を含め初参加の方が半数程度を占めていたので、哲学カフェが始まるまでの時間は何となくぎこちない雰囲気に包まれていた。

 

 いよいよ開始時間になった。最初に主催者側のYさんが簡単なあいさつをして、すぐにファシリテーターのYさんの自己紹介。そして、早速テーマに沿った5つの著書の内容を紹介して、参加者が「学び」に関する知識を吸収する時間へと進んでいった。5つの著書は、『読書する人だけがたどり着ける場所』(斎藤孝著/SB新書)、『「助けて」が言えない 子ども編』(松本俊彦編/日本評論社)、『あなたも狂信する 宗教第1世と宗教第2世に迫る共事者研究』(横道誠著/太田出版)、『先生はえらい』(内田樹著/ちくまプリマ―新書)、『生の短さについて』(セネカ著)だった。私も読んだことがある著書が3冊あったので、Yさんがテーマの「学び」についてどのような視点からとらえてみたいかという意図はおおよそ分かった。他の2冊の内容については、自分なりに納得のいく視点だと思った。特に、信教における加害者の救済を「共事者」という概念からとらえ直し、経験の有無によるコミュニケーションの断絶を「学び」によって拓いていく可能性について指摘した点は強く共感した。

 

 次に、初参加の人が多いので、席順に簡単な自己紹介とYさんの問題提起に対する感想を話すことになった。最初の20代の男性が今、哲学にハマっていることや古事記に関連した内容等を結構長めに話したので、それから後の方々も自分なりの「学び」についての考えを実体験に基づいてじっくりと話された。その中で、娘さんとその母親の方の話は私の心にチクっと刺さった。それは、学校の先生は子どもの問いを大切にした「学び」ではなく、教師が指導したい内容を「勉強」させることしか意識していないのではないか指摘されたからである。だからなのか、母親は子育ての中で「勉強しなさい。」と一度も言わなかったと話された。それを受けて、娘さんも「勉強しなさいと言われたことがなかったので、自分で分からないことや疑問に思ったことにこだわって学んできた。」と続いて語った。

 

 私の番が回ってきた時、私の頭の中は上述した親子の話がグルグル回っていたので、自己紹介をごく簡単に済ませ、明治の学制発布以来の日本の学校教育における「知識伝達型の構造」について説明するとともに、1980年代になり日本もそのような構造を脱皮して脱近代における「対話型の学びの構造」へと転換する必要があったことを主張した。そして、「学び」とは「生きる」ことであり、常に人生に起こる問題を自分で解決していく過程こそが「学び」の過程になることも付け加え、自分が教職時代にはそのような問題解決的な授業を創造してきたことについて熱く語ってしまった。

 

 私の次の順番だった女子高校生の一人が「自分は何でも不安になって、ついついいろいろなことを考えてしまい、寝不足になってしまうことがある。」と語った告白的な話や、50代の主婦の方が「自分は興味があることについて自分なりに学んで、知識や技能等を身に付けることができていて満足感があるが、いずれ死んでしまうとそれらは全く意味がなくなると考えると空しくなる。」と語った実存的な問題提起等も、私の心にある種のざわめきを惹き起こした。それは、私にも自分なりにそれらの心理に対して向き合ってきた経験があったからである。

 

 だから、2度目に発言する機会を得た時に、「自由な社会になって自己選択・自己決定する機会が多くなれば、不安を抱くことも増えるのが当然であり、それこそが自由の証であることや、だからこそ、その不安を感じてことを他者と対話しながら、自分なりに解決していく道を見出していくことを生きている証として楽しむ気持ちが大切であること」などを主旨とした話をした。すると、その女子高校生が「その話を聞いて、自分は悩んだり不安なったりして考えることが好きなんだと自覚しました。考え過ぎるという性格をもっとポジティブにとらえたいと思うようになりました。」と反応してくれた。私は、このような応答的な対話ができるのが、哲学カフェのもつ意義なのではないかと思った。

 

 また、定年退職をして人に教えるような立場になったという60代の男性が「自分が獲得した知識や技能等を他者に伝えるという経験をするようになって、死に対する無力感を感じる度合が少なくなったように思う。」と話をされて、それに対して先の主婦の方が「他者に自分の学んだ成果を伝えるという活動にチャレンジしてみようと思いました。」と応答的な発言をしていて、このような対話的な雰囲気が自然に各自の「学び」を誘発しているのだと思った。私は、さらに哲学カフェのもつ意義と可能性について確信を深めることができた。

 

 まだまだ記憶に残っている場面もあるが、記事を綴る気力と体力がやや乏しくなってきたので、ここらで筆を擱きたいと思う。最後に、「世間は狭く、人との出会いは運命的な糸で結ばれている」という実例だと実感したことを付け加えたい。それは、終了時刻になり皆で机や椅子の後片付けをしていた時、ファシリテーターのYさんがさり気なく私に向かって「もしかしたら、以前に私の娘の教育相談を担当してくれた方ではないですか。」と尋ねられたのである。私は、改めてYさんの顔を見直すと、一昨年、市内のある小学校の6年生女児の保護者として対面していた方の顔とダブった。「あの時のお母さん!」と私が答えると、「娘も無事に中学校へ進学し、頑張ってやっています。あの際は、先生から私の子育ては素晴らしいと褒めてもらったことを覚えています。」と言ってくれたのである。

 

 次回は、7月12日(金)の同じ時間帯で〈「老いる」を考える〉というテーマで開催される。私も事前の参加予約をしているので、また哲学カフェの醍醐味を味わう経験ができるのではないかと今からワクワクした気分に浸っている。また、その体験記を当ブログの記事として綴ってみようと考えているので、乞うご期待のほどを!

30年間も意地で維持している古本屋の女店主の魅力とは?~田中美穂著『わたしの小さな古本屋―倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間―』から学ぶ~

 6月も中旬を迎えた頃から、私たち特別支援教育指導員は、次年度に中学校へ就学する特別支援学級に在籍している小学6年生に対する教育相談に追われて、超多忙な日々を過ごしている。そのせいか、私は自宅では気楽な気分で読むことができるエッセイ集を手にすることが多くなった。朝井リョウ村田沙耶香という30~40代の比較的若い作家の作品は、それぞれ独自性のある題材を取り上げ個性豊かな文体で綴られていて、「なるほどなあ。」とか「へーっ、そうなんだ。」とかと呟きながらページを捲ってしまっていた。私はもっとのんびりした気分に浸れそうな作品を求めて、職場の隣にあるコムズの図書コーナーで物色してみた。すると、古書が並んだ書架がぼやっと写った表紙の上部に、縦三~四文字が横3列に並べて書いているロゴ風のタイトルが位置したエッセイ集を見つけた。私は何気なく書棚から取り出し、ページをぺらぺら捲って斜め読みをしてみた。読みやすい!私は『わたしの小さな古本屋―倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間―』(田中美穂著)という本を手にして、1階にある図書貸し出し受付へ急いだ。

 本書に興味をもったのは、単に読みやすそうなエッセイ集だという理由だけではない。私もある時期、いや最近までと言ってよいかもしれないが、古書店の店主に憧れていたので、ある種の親しみを感じたからである。しかし昔から馴染みのあった市内の古書店が近年相次いで廃業に追い込まれている現実を目の当たりにして、私のこの夢は儚くも霧消してしまったが・・・。私の夢の話はこれぐらいにして、早速著者であり「蟲文庫」の店主である田中さんのことやと本書の内容等について触れていこう。

 

 「蟲文庫」という古本屋は、岡山県のJR倉敷駅近くの「美観地区」と呼ばれる景観保存地域の一角にある町屋の中にある。著者の田中さんがかつて通った幼稚園や小学校、自身が産まれた病院までが、徒歩10分圏内にあるらしい。10坪に満たない店内には、文学、社会、思想、心理、宗教、民俗学、古代史、自然科学、美術、プロレス、マンガ、絵本等の雑多な分野の本が並んでいる。最近は、新刊書やCD、オリジナルグッズなども置くようになったとか。でも、仕入れのほとんどがお客さんからの買い取りなので、なんとなく集まってきた古本が並ぶ、いつの間にかそうなったような古本屋さんだそうである。また、猫や亀、ヒラタクワガタ、金魚、メダカなどの構成員もいるらしいから、何とも言えない風情を感じさせる。

 

 現在、そんな場所にありそんな店内風情になっている「蟲文庫」だが、開業したのは今から30年も前で、最初の場所は主要な県道沿いで駅から徒歩5分ほどの川西町にあった軒の低い古い四軒長屋の一つで元事務所だったらしい。しかも、開業時の田中さんの年齢は何と21歳!それまで2年間ほど働いていたアルバイト先を突然辞めることになり、無意識に足の向いた顔馴染みの古本屋さんで「・・・自分で古本屋をやろうと思うんですよ。」と急に口に出して決意したそうである。子どもの頃から要領が悪く、計算が苦手でコミュニケーション能力も低いほうだったから、自分でもお勤めには向かないという自覚があったので、いずれ、自分の店を持てたらいいなという漠然とした気持ちはあったと言う。

 

 でも、なぜ古本屋?それは、本が好きだったことと資金がなかったから・・・。それにしても、私のような何事にも慎重な性格の者から見ると何と無謀な冒険!と驚いてしまうが、田中さんはそれまでの貯金およそ100万円だけを開店資金にして、『町の古本屋入門』(志多三郎著/光文社文庫)を頼りに開店手続きをしていき、自分が所持していた古本を主に並べただけの古本屋としてスタートしてしまうのである。

 

 本書は、そんな開店当時の奮闘の様子や古本やイベントなどを通じた人々との深い縁、そして店番の友である猫や小動物、苔や羊歯類の話題等、「蟲文庫」の何気げない日常がさりげない文章で綴られているエッセイ集である。各エッセイの初出を見ると、そのほとんどは早稲田古書店街連合会が発刊している『早稲田古書村通信』に掲載されたものになっており、その文章は美術作家の故・永井宏氏の言葉を借りると「上手い文章じゃないんだけど、なんかいい」という田中さん独自の自然体で素朴なスタイルなので、私の印象でいうと「のんびりした雰囲気の中に、しみじみとした人間味が溢れている文章なので、肩に力を入れることなく心地よく読むことができる」エッセイ集なのである。そのエッセイ集の中で、私の心に強く残っているのは「あのときの感想文」と「隙間暮らし」の2編。

 

 「あのときの感想文」は、高校時代の恩師とのエピソードが印象的だった。田中さんが高校3年生時に提出した太宰治の『人間失格』の読書感想文はいつものようにたった3行しか書いていなかったが、国語科担任の先生からは「もっと続きが読みたいです。」という言葉が赤ペンで添えられて戻ってきたそう。その恩師が定年退職した後、今度ぜひ一緒に「郷土作家の木山捷平ツアー」をしようと約束していた木山の生家や墓地等、周囲にあるゆかりの地を訪ねて、高校時代の思い出話をして過ごしたらしい。田中さんは、「あの続きではないが、本書をその恩師にお送りしようと思っている」と綴っているのである。何だかほわっとするエッセイでした。

 

 「隙間暮らし」は、田中さんが「蟲文庫」を意地で維持している中で、地方の古本屋の役割を「公民館」に近いものと考えて実践してきたというエピソードが私の心に残っている。ライブにトークショーに展覧会、そのほか諸々。何もない所だが、だからこそかえって何でもできると考え、「公民館」でできないことを「私設公民館」で、という世間の隙間として活動してきたという。以前から行き来のあった仙台の加藤哲夫さんのお店が最終的に自然食レストランみたいな形になり、実質は「私設公民館」だったという話を聞いて、ひどく納得したのですぐ実行に移した田中さん。私も見習いたいような実行力!

 

 本書の中で、自分の性格をかなりネガティブに自己評価しているが、私はこの自分が納得したことはすぐに実行に移すことができる〈実行力〉こそが、彼女の最大のストロングポイントだと思った。また、アルバイトを兼ねてでも意地で維持している「蟲文庫」という古本屋を30年間も続けている、この〈初心貫徹という強い精神性〉も彼女のストロングポイントの一つである。そんな内面をもちながらも、畳敷きの帳場に学習机というスタイルの店番を自然体で続けている田中さんと「蟲文庫」に、一度対面してみたいなあと思った今回の読書体験だった。身体がまだ自由に動かせる元気なうちに、ぜひ倉敷市へ小旅行をしてみたいなあ・・・。

直木賞受賞作『何者』を読む上で参考になることを願って・・・~朝井リョウ著『何者』と『学生時代にやらなくていい20のこと』を読んで~

 私が読者登録しているブログ「対話と人と読書/別府フリースクールうかりゆハウス」の「第九十七回別府鉄輪朝読書ノ会6.30」の予告記事で、今回取り上げる課題図書が『何者』(朝井リョウ著)だということを知った。私もこの機会に読んでみようと、ずっと積読状態にしていた同書を書棚から取り出し、この一週間寝床の友とした。また、数日前に昼休みを利用して職場から近距離にある市立中央図書館へ行った時、本物語の題材の一つ「就活」に関連したエッセイ数篇が所収されている朝井氏の『学生時代にやらなくていい20のこと』(文庫版では『時をかけるゆとり』に改題)という本を見つけたので借り出し、ここ数日間の隙間時間に読んでみた。

 『何者』(以下、本書A)は、2012年11月30日に新潮社より単行本で発刊され、翌年には第148回直木賞を受賞した。また、2016年10月15日には、佐藤健有村架純二階堂ふみ菅田将暉岡田将生等の若手俳優陣が出演した同名の映画作品が公開された。さらに、2017年の秋には初の舞台化も実現している作品である。著者の朝井リョウ氏は、直木賞受賞者の中で戦後最年少の23歳(何と平成生まれ!)であったことでその名があっという間に広まった。作品そのものも、大学生たちの「就活」を題材にしながら「SNS」の裏事情も絡ませて展開する人間模様の中で、人間の負の感情をリアリティ豊かに表現した物語だったので、多くの若者の共感を得て支持された。

 

 『学生時代にやらなくていい20のこと』(以下、本書B)は、著者が本書Aを上梓する前の学生時代に綴った20編のエッセイを集めたもので、著者特有の観察眼を駆使してとらえた上京した頃の日々やバイト事情、実際の就活活動等について面白可笑しく綴っている。特に最後の方に所収している<知りもしないで書いた就活エッセイを添削する>と<自身の就職活動について晒す>という2つのエッセイの内容は、本書Aで取り上げたテーマや内容等の素材が詰め込まれていて、著者の体験が本書Aに生かされているのがよく分かった。私は、執筆時期の時系列を遡行するような形で読んだので、本書Bは本書Aのある種の構想デザインになっているような感じがして、その意味で興味深く読んだ。

 

 そこで今回の記事は、本書Aではなく本書Bに描かれている著者自身の就活の様子や心情等の描写に注目して、私が特に面白く感じた内容を取り上げてみたいと考えている。このことは、きっと本書Aに込めた著者の意図や物語の構成等をより深く知る手掛かりになり、本書Aを読み味わう上で多少の参考になるのではないかと思う。ついつい作品のネタバレをしてしまいそうになる私の悪い癖が出ないための自己呪縛の方法の一つになれば・・・という細やかな配慮のつもりである。

 

 では、<知りもしないで書いた就活エッセイを添削する>というエッセイから。本文「『就職戦線異状なし』(杉本怜一著/1990年講談社刊)を読む」は、2010年10月3月の「小説すばる」の就活特集号に掲載されたもので、下段の欄外には事後に著者の視点からとらえ直した解説的な文章が付け加えられているが、この記述内容が結構面白かった。例えば、「コネ」という項目には「著者の就職活動においてインターネット上に挙がっていたキーワード。コネで集英社に就職した、という噂を著者自身耳にしたことがあるが、全くのデマである。ていうかそんなルートがあったなら就職させてほ~」というように、本音丸出しの主観的なツッコミ解説が記されているのである。

 

 また、「大人だ、と直感的に思った。」という項目には「なんとピュアな私だろうか。とてもかわいい。大学四年生になってもお前は後輩から全く大人に見られないよ、という事実を耳元で囁いてあげたい。」というようなナルシスティクなツッコミ解説も・・・。本文の中では、大学のキャリアセンターで優しく声を掛けてくれた、誰でも知っているような大企業の名前が記されている名札を掛けた学生アドバイザサー(大手から内定を得た四回生)を見て、著者は「この人は大人だ。そう気付いたとき、自分は子どもだ、と思った。」と綴っている。つまり、就活前の著者の意識はこの程度であり、まだ「何者」のかけらにもなっていなかったのである。本書Aのタイトルの意味を示唆するエピソードだと私は思った。

 

 さらに、本文の中の次のような文章にも注目した。「就活とはきっと、形を変えて現代日本に現れた新たな通過儀礼の形なのだ。自分と社会の間にある溝を、ここで飛び越えなければならないのだ。そのために、初めて未熟な自分と真正面から向き合ったり、触れたことのない世界に生きる人と知り合ったり、夢を諦めなければならなかったりするのだろう。」きっと著者は、本書Aでこのような就活の現代日本における通過儀礼的意味を、もう一つの題材である「SNS」に潜む人間の醜悪さも絡ませながら表現したかったに違いない。

 

 次の<自身の就職活動について晒す>というエッセイについて話題を移そう。本エッセイの中身は、就活における説明会参加から内定に至るまでの数々のステージごとの、著者の心に残ったことが面白可笑しく綴られている。その中でも私が特に興味をそそられて読んだ一つ目が【エントリーシート】の箇所である。エントリーシートとは、いわゆるESのことである。「与えられた質問に、簡潔に、わかりやすく、指定された文字数以内で答えなければならない。」著者は小説を書くのは好きだが、ESはそれとは全く違うものである。だからか、ここには友達と一緒に必死に取り組んだ様子が描かれているが、その中で著者が印象に残っているエピソードが面白い。下着メーカーを受けようとしていた女友達のキャッチコピーを考えたときのことである。ついついうまいことを言いたくなり、著者たちは夕飯を平らげながらの会議を続け、苦心の末に生れたのは【魅惑のデリケートゾーン】というわけのわからないキャッチコピーだった。結局その女友達はES選考で落ちたらしい。

 

 もう一つは【集団面接】の箇所。著者は、集団面接について「さきほどまで控室でヨロシクねへへへなんて言い合っていたのに、面接官の前に並んだとたん、どっちがうまいこと言うか選手権の公式ライバルと化すわけである。」というように、俯瞰的な視点からの本音丸出しの表現をする。この中で著者自身が出会ったエピソードが笑わせる。面接官三人、学生も三人で、横並びになっている三人組の間には長机が置いてあり、学生はスーツ姿にスーツ用カバン、きれいな革靴といった具合のはずが・・・。何と著者の隣ののっぺりした男子は、カラフルなスニーカーを履いているではないか!その彼が、「自分の欠点を三つ、お願いします。」という質問に対して、「私の欠点は、おっちょこちょいなところです」と話し出した時、著者は思わずブッと噴き出してしまい、面接官に少々不審がられてしまう。

 

 私はこれらのエピソードを読みながら、子どもから大人へ成長するための現代的通過儀礼になっている「就活」のステージごとに起きた事象をとらえる視点として、著者の子どもっぽいけど瑞々しく鋭い観察眼が生かされていると思った。本書Bはエッセイという性質上、著者の精神性を昇華した表現体である小説=本書Aとは違うが、著者の日常的な意識を知ることができる。今回、本書Bを読んだことで本書Aに対する印象が少し変化したように思う。果たしてそれは本書Aに対する私自身の正味の評価を歪めることになったのだろうか。それはともかく、私は本書Aの続編となる『何様』を早く読みたくなってきた。

金王朝よる専制国家「北朝鮮」への現実的な対応について~内田樹著『コモンの再生』から学ぶ~

 今月27日(月)の22時46分頃、テレビ画面が急に沖縄県を対象として避難を呼び掛けた「全国瞬時警報システム」(いわゆるJアラート)の画面に切り替わった。テレビ朝日の「報道ステーション」を観ていた時だった。私は「また、放送の中断かよ!」と声高に言ってしまっていた。というのは、その2時間ほど前にも、BSテレ東のシネマクラッシュで88歳のクリントイーストウッドが監督と主演の二刀流で制作した『運び屋』という映画を視聴していた時にも、物語終盤のいい場面で大雨による電波障害が原因だと思われる受信不能に見舞われていたのである。しかも、今回のJアラートはまたもや北朝鮮による弾道ミサイルらしきものが発射されたことを受けてのことである。「また」という言葉には、何度も起こす北朝鮮による暴挙への非難と苛立ちも含まれているのである。

 

 今回の飛翔体は北朝鮮の軍事偵察衛星である新型ロケットで、結果的には爆発による失敗に終わったが、我が国の隣国にこのような国連安保理決議違反という暴挙を度々繰り返す専制国家が存在することは、安全保障上の大きなリスクを背負っていることになる。日本政府もその度に強い非難を表明しているものの、北朝鮮はほとんど意に介していないように思える。北朝鮮は我が国に対して拉致問題という非人道的な蛮行を起こしている国でもあり、人権及び平和の無視や国際社会への協調等を軽視するその姿勢に対して日本国民の怒りは募るばかりである。かく言う私も「金王朝を打倒して、民主的な国家を建設する方法はないのか!」などと、絵空事のようなことを口走ってしまうのだが、現実的にどのような対応策があるのだろうか。

 

 そのようなことをつらつら考えていた時に、私は以前に読んだ『コモンの再生』(内田樹著)という本に所収されていた<「北朝鮮というリスク」を軽減する方法>という小論考の内容を思い出したのである。そこで今回は、その内容の中で述べられていた北朝鮮への現実的な対応策について要約した上で、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと思う。

 著者は、1980年に当時の北朝鮮金日成主席が韓国の全斗煥大統領に向けて、「一国二制度による南北統一」という提案をした事実について指摘している。統一国家の国名は「高麗民主連邦共和国」で、南北政府が二制度のまま連邦を形成するという案だったと言う。この時は、「在韓米軍の撤収」という韓国政府にとって簡単に呑めない条件が付いていたために実現しなかったが、北朝鮮はこれに懲りずに2000年にも全生日が南北首脳会談の席で、全大中大統領に対して再度、連邦制の検討を提案している。著者は、南北統一については北の方から「ボールを投げている」という歴史的な事実は見落としてはならないと強調している。

 

 現在の金日恩にとっても、「王朝」の安泰が約束され、「王国」の中で自分たち一族が末永く愉快に暮らせる保障があるなら、一国二制度は悪い話ではない。連邦制になれば、核ミサイルをカードに使った瀬戸際外交を永遠に続けるストレスからは解放される。また、飢えた国民が自暴自棄になって暴動を起こしたり、政治的野心を持った側近がクーデターを起こしたりするといったリスクも軽減される。北朝鮮問題を考える時、北朝鮮と戦争をやって勝つか負けるかというようなレベルの話をしても仕方がなく、3代70年にわたって専制君主が支配してきた2500万人の「王国」をどうやって現代の国際社会にソフトランディングさせるかという統治の問題こそ考えなければならないのである。

 

 著者は続いて、もし金王朝が瓦解した時に起こることが予想される国際的なリスクについても言及している。例えば、数十万単位で我が国に漂流するであろう難民問題、また国家事業として展開してきた「ダーティ・ビジネス」としての大量の兵器や麻薬・偽ドル紙幣等の流出問題等による無秩序状態である。したがって、リビアイラクがそうであったように、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのである。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かっていくプロセスをこまめに支援するというのが、「北朝鮮というリスク」を軽減するさしあたっての一番現実的な解ではないかと著者は述べている。

 

 私は、この著者の考えは観念的な理想主義ではなく、合理的な現実主義の考え方だと思った。著者が自分のことを「リアリスト」と言っているのは、正当な自己評価によるものなのかもしれない。私などは、北朝鮮問題を解決していく道筋についてできるだけ論理的・理性的に考えて結論を得なければならないと頭では考えてはいるものの、実際は拉致問題という蛮行や弾道ミサイルの発射という暴挙等を見聞きしたらすぐに感情的になってしまい、今まではすぐに北朝鮮体制崩壊への展望を視野に入れた道筋を考えてしまっていた。でも、今回、内田樹氏の書いた<「北朝鮮というリスク」を軽減する方法>という小論考の内容に触れて、冷たい水を頭から被ったような気分になり、その論理的・理性的な考え方に共鳴した。私自身、冷徹なリアリストになっていくことが必要だと痛感した。

再び現象学的な視座から「無意識」の本質について考える~竹田青嗣・山竹伸二著『フロイト思想を読む―無意識の哲学―』から学ぶ~

 これまで多くの哲学者は、現象学は「意識に現われているもの」だけしか認めないのだから、「意識に現れないもの=無意識」を対象にすることはできないと主張していた。そのため、現象学精神分析は相容れない考え方だと見なされていた。実は私も、以前はそのようなとらえ方をしていたが、数年前に山竹伸二著『「本当の自分」の現象学』を読んで以来、「無意識」は意識に現われないものではなく、ある意味として意識に現われるものであるから、現象学で考えることも可能であることと認識したのである。そして、その際に学んだ内容について、当ブログの過去の記事(2022年7月16日付け)〈「本当の自分」の本質とは何なのか?〉の中で少し綴ったことがある。

 

 NHKのEテレ「100分de名著」におけるフロイト著『夢判断』のテキスト内容に触れた前回の記事では、「無意識」について綴った結びの部分で私はもう少しフロイトが発見した「無意識」について現象学の視座から意味付けるべく勉強したいと表明したのであるが、改めて振り返ってみると前述の記事の中で現象学的な「無意識」の本質について綴っていたことを思い出した。したがって、今回の記事内容は、最近読んだ『フロイド思想を読む―無意識の哲学―』(竹田青嗣・山竹伸二著)を手掛かりにするとは言え、再度「無意識」の本質について綴ることになると思うので、読者の皆さんにはこの点ご容赦願いたい。ただし、できればフロイトの「無意識論」の可能性や新たな意味付けにも言及した記事にしてみたいと考えている。

 著者の一人である竹田氏は、本書の序章「人間思想としてのフロイト」の中で、フロイトは「無意識」という概念によって「エロス的存在」「欲望存在」としての人間、あるいはまた「身体性」としての人間という新しい人間学の領域を初めて切り開いたとその意義について強調している。そして、フロイト思想の進み行きを大きく「無意識論」「エロス論」「自我論」の領域に区別して章立てし、それぞれの本質的考察についてもう一人の著者である山竹氏が詳述している。第1章「フロイト思想の全体像」第2章「認識対象の本質論」に続いて、第3章「無意識論」では、初期の代表作である『ヒステリー研究』や『夢分析』を中心に分析しながら、夢や失錯行為、ヒステリーなどを取り上げている。第4章「エロス論」では、中期から後期にかけての論文「性欲論三篇」「エディプス・コンプレックスの消滅」などで主張されている幼児性欲や性発達理論、エディプス・コンプレックスなどを取り上げている。第5章「自我論」では、後期の「自我とエス」「制止、症状、不安」などで展開されている自我の防衛機制や自我とエス超自我の葛藤などを取り上げている。どの章の内容も興味深いものであるが、今回は特に第3章「無意識論」の中で、特に私がこれこそ現象学的な視座からとらえた「無意識」の本質だと理解した内容の概要をまとめてみたい。

 

 山竹氏は、「無意識の発見者」と呼ばれるフロイト以前にも無意識は認められていたが、それは単に「意識されていない心の領域」という意味での無意識であり、具体的な内実は何も示されていなかったと指摘し、それに対してフロイトの言う無意識は「抑圧された欲望」という内実を伴っており、多くの人々にとって大きなインパクトを与える力をもっていたと述べている。近代以降に自由な社会が到来して、それまで抑圧されていた本当の欲望を知りたい一般大衆は、フロイトの「無意識」を熱狂的に受け入れたのである。特にフロイトが、無意識という経験の中に見出した2つに分裂した「欲望の葛藤」(例えば、性的欲望と道徳心)を重視した点が大きかった。したがって、フロイトによる「無意識の発見」とは、人間が分裂した欲望の葛藤を抱えた存在であること、この葛藤こそ人間の行為を左右していること、そうした「人間の存在本質の発見」だったのであり、ここにフロイトの「無意識論」の独自性や革新性があったと評価している。

 ところが、フロイトは無意識における欲望の葛藤を実体的なメカニズムとして描いている。このことは彼が無意識の実在性を信じていたことを意味している。でも、そもそも「無意識」は心がそうであるように仮定された対象であり、それを実体的な対象としてとらえることには無理がある。とはいっても、たとえ事実として無意識の存在が証明できないとしても、私たちは誰もが日常において「無意識のうちに行っていた」とか「無意識の欲望があったかもしれない」などという会話をごく自然に行っており、「無意識」を確信するような経験をもっている。山竹氏は、このような経験に共通する意味を、現象学的には「無意識の本質」と呼ぶことができると説明している。

 

 これらのことを踏まえて、山竹氏は続いて実際に「無意識」の現象学的考察を試み、哲学者のフッサールが提唱した「本質観取」という方法によって「無意識の本質」を導き出している。現象学が対象にするのは、無意識の実在性ではなく、意識に現われた「無意識の意味=本質」なのである。ただし、ここで使った「本質」という言葉は、形而上学的な絶対的「真理」を意味するものではなく、直観された意味が認識や他者との共通了解の底板になるという意味である。そして、彼はこのような考察を進める中で、現象学の観点から日常的に「無意識」を確信する経験をとらえ直すと、①習慣化した行為、②自律神経反応、③感情、④イメージ、⑤他者の反応という5つが挙げられると述べている。

 

    次に、このような日常的に経験している「無意識」の確認には、いずれも事後的な「自己了解」が生じているという共通性が潜んでいると指摘している。自己了解とは、自分の欲望や関心、不安等に気付くこと、自己のあり方に気付くことである。それは新たな自己像が意識されることでもあり、それまでの自己像が不十分なものであったこと、間違った自己理解をしていたことに気付かされる経験に他ならない。しかし重要なことは、自己了解された欲望が以前から無意識の中にあった、その欲望が今やっと気付かされたということではなく、「無意識」とは自己了解が生じた後で想定された観念であり、「事後性」(後から想定されること)が「無意識の本質」に属するということなのである。

 

 山竹氏は、こうした無意識の確信=自己了解をもたらす要因についても考察しており、それは「身体現象」「他者関係」「承認欲望」の3つに分類できると指摘し、それぞれ説明を加えている。ここでは、その概要をまとめておく。

〇「身体現象」・・・「習慣化した行為」「自律神経反応」「感情」「イメージ」は、いずれも身体的な現象であり、無意識の確信が身体に深く関わっていることを示している。それと同時に、自己了解による自己像の刷新が生じる。また、身体現象においては、身体に織り込まれた過去の経験が関っていることが多い。意図せざる身体の反応に出合うと、私たちはその身体の意味(意図)を「無意識」として見出すのである。

〇「他者関係」・・・普通、信頼できる相手が指摘する自分の不安や欲望を私たちは「無意識」として受け入れる。もちろん相手の指摘が合理的で説得力があり、それを判断する力と自己理解に対する公平性を持ち合わせていれば、相手が誰であろうとその指摘を「無意識」として受け入れる可能性はある。また、他者の言葉だけではなく、表情や行為、態度によっても、「無意識」の確信や「自己了解」は生じ得る。

〇「承認欲望」・・・他者関係において「無意識」の確信や「自己了解」が生じるのは、私たちが「他者に承認されたい」という欲望(承認欲望)をもっているからである。そして、その根底には、「価値ある人間でありたい」という自己価値への欲望がある。だからこそ、私たちは他者の承認を介して自己価値を吟味し、他者に承認される自分、他者に愛される自分であるために、絶えず内省し続けるのである。

 以上、私が理解した現象学的な視座における「無意識」の本質について、山竹氏の考察内容の概要をまとめてみた。本書の第3章「無意識論」はこれらの考察の後に、精神分析療法の本質を踏まえた「無意識」のとらえ方や、患者と治療者という濃密な二者関係における「自己了解」の特殊性を考慮して名付けた「相互幻想的自己了解」という人間存在の本質について言及した後に、フロイトの「無意識論」の可能性についても述べている。まだまだ考察を深めているのだが、この箇所に関して要約する気力と体力がなくなってきたので、また別の機会に譲って今回の記事はここらで筆を擱きたい。ふーっ、疲れた!やっぱり歳かなあ。トホホホホ・・・

若い頃に教育相談で援用したフロイトの精神分析の理論とは?~「100de名著」におけるフロイト著『夢判断』のテキストを読んで~

 今年のゴールデンウィーク前半は、我が家に泊まりに来ていた二女とその長男(孫M)と楽しく過ごすことができた。また、5月3日~6日の後半は、特に用事がなかったのでのんびりする時間が取れた。だから、前月に放映されたEテレ「100de名著」の4回分の番組録画を一度に視聴しながら、そのテキストを読み進めていくという恒例の自己学習を実践した。4月に取り上げられた名著は、精神分析の礎を築いたジークムント・フロイトが1900年に刊行した『夢判断』。それを丁寧に紐解き、易しく道案内をしてくれた講師は、京都大学教授の立木康介氏。NHKアナウンサーの安倍みちこ氏とタレントの伊集院光氏の司会進行による番組内容に集中しながら、私は若い頃に興味をもって少しかじったフロイト精神分析の理論について思い出していた。

 そこで今回は、精神分析における「メタ心理学」の理論を取り上げていた本番組の第4回放送「無意識の彼岸へ」分のテキスト内容の中で私が特に印象に残ったことを要約し、それに対する自分の経験に基づいた管見を綴ってみようと思う。

 

 『夢判断』は3階建ての構造になっており、その3階に置かれている最終章の第7章「夢事象の心理学」がまさに「本丸」と言うべきものであると、講師の立木氏は強調している。ここでフロイトは、夢とその形成メカニズムにまで遡って検討したことで得られた知識の全体を包み込む、今まで誰も見たことがない新しい「心理学」の構築に乗り出したのである。そして、心を一つの「装置」として捉え、その機能と成り立ちを説明するこの心理学を、「意識の背後へ通じる心理学」という意味で「メタ心理学」と呼んだのである。これは彼が提唱した精神分析の理論で、心の動きを力動的、局所論的、経済論的観点から解明しているものである。若い頃の私は、子ども理解を図るための教育相談に生かそうと、この3つの観点の中でも特に「局所論的」、つまり心を意識・前意識・無意識、後には自我・エス超自我という3つの異なる場で構成されたものとする考え方に興味をもったのである。

 

 さて、第7章に繰り広げられる「心的出来事の二原則」についての一連の仮説は、さらに興味深いものである。テキストの解説を読んで要約してみよう。フロイトは、心的装置に「快原理」(不快を回避し、快を追求する基本的な原理)が支配する一次過程と、「現実原理」(外的事実と折り合いをつけるため、快の自動的な追求を制限し、現実の中で自分が置かれた状況を吟味する原理)にコントロールされる二次過程の二つを仮定している。一次過程では、快や不快の痕跡が表象(記憶像、記憶イメージ)の形で留まり、それをもたらした経験の「代理」を務める力を持つことになる。言い換えれば、過去に経験したのと同じ不快に再び見舞われた時、内部の登録済みの快表象、つまり「満足経験の記憶」を呼び戻し、それを幻覚することで満足感を再現しようとするのである。彼はこのような心の動きこそ「願望」と呼び、それを実現することが「願望充足」であると定式化している。

 

 しかし、いくら過去の満足を表象レベルで再現しても、それはあくまで「記憶」に過ぎない以上、現にその人を苛んでいる不快が解消されることはない。それどころか、そのような幻覚による対処は、やがて不快の増長をもたらすことが避けられず、生存の危機を招くおそれさえある。そうした事態に陥らないために、心的装置には幻覚による満足よりも安定した方法で不快の解消を目指す、より高次の機構が必要になる。そこで、フロイトは「不快の放出を一時停止し、不快に耐えることによってはじめて可能になる過程」という高次の機構を二次過程と呼び、この過程をリードする原理を「現実原理」と名付けたのである。この「現実原理」が「快原理」に取って代わることで、初めて心的生活は現実的な満足を持続的に享受することができるようになるのである。

 

  実はここにこそ、私たちの心的生活に「抑圧」が必要になる理由がある。どういうことかと言うと、二次過程の介入が可能になるためには、快(満足)の追求の一時停止が求められ、この一時停止こそが「抑圧」の起源になるのである。自我が成長していけば、快の再現を至上命題にする一次過程は、社会生活に課せられる諸制約にぶつかり、禁止されたり自ら断念したりする。その時に一次過程を一時停止させる働きをするのが、願望を無意識へと追いやる「抑圧」なのである。そして、そのことがそのまま「無意識」を説明し、根拠づける論になる。つまり、「無意識」とは「抑圧されたもの」の場であり、「無意識」を生み出すのは「抑圧」なのである。

 

 だとすれば、「無意識」とは一次過程および「快原理」が支配する場であり、それに対して二次過程および「現実原理」にコントロールが及ぶのが前意識であり、意識だと言える。したがって、「抑圧」とは前意識―意識とを切り分ける心の働きなのである。そしてフロイトは、いったん抑圧されたものが、無意識から前意識―意識へと再び浮上すると、それは不快として感じられると付け加えている。夢の場合には、意識が眠っているので、抑圧されたものが突破できるのは無意識と前意識の間にある「検閲」だけだが、そうして前意識に入ってきた抑圧されたものは、夢の中に不快や不安の感覚をもたらす。このことが、夢の願望充足に満足感が伴わず、夢がむしろ不満足をもたらしたように感じてしまう理由になるのである。

 

 ただし、フロイトは一次過程と二次過程の関係について満足抑止(快の制限)の反対の面があることも指摘している。つまり、一次過程は二次過程が目指すものを、遠回りに、より確実な方法で実現するプロセスと見なすこともできると言っているのである。このような視点に立てば、快原理と現実原理、無意識と前意識―意識の葛藤が繰り広げられる心的装置の全体は、快の追求という同一の目標に貫かれた、広い意味での「快原理のフィールド」であるということになる。後にフロイトはこの広い意味での「快原理のフィールド」を超え出たところにあるもの、あるいはその背後に隠されているもののことを、「快原理の彼岸」と呼ぶようになる。

 

 心的装置が過剰に流入する刺激を拘束し、受け止め直そうとする時、快原理よりもプリミティブな水準の心的過程を経る。フロイトは、この原始的な心の動きを「快原理の彼岸」と名指すようになる。そして、その際に流入する刺激の源泉は大きく分けて二つあると言っている。一つは「外界の現実」がもたらす刺激であり、もう一つは「欲動」(自己の内部から押し寄せてくるもの)がもたらす刺激である。フロイトは、『夢判断』を刊行した時期から、「自己保存欲動」と「性欲動」という二つの欲動を仮定している。しかし、その後さらなる変遷を経て「生の欲動」(エロース)と「死の欲動」(タナトス)からなる二元論を打ち出し、その理論的関心の中心をとりわけ「死の欲動」へと移していくのである。

 

 そして、フロイトはこの新しい欲動論の展開に伴い、欲動の貯蔵庫である「エス」の概念化に踏み切り、従来の局所論に代えて「自我」「エス」「超自我」を主役とする新たな局所論を前面に押し出していくのである。この新局所論が、死の欲動論と並んで晩年のフロイト理論を大きく変貌させていくことになる。『快原理の彼岸』の出版で幕を開けた1920年代、フロイトの提唱した精神分析は本格的な発展期を迎え、欧米各地で分析家の制度的な育成がスタートする一方で、彼自身も各国から訪れる分析家志望者の訓練分析を手掛け、理論的な仕事にも旺盛に取り組んでいった。しかし、彼の最晩年にあたる1930年代は、ナチズムの嵐が吹き荒れ、ユダヤ人の彼も時代の荒波と無縁ではいられなかった。1938年のアンシュルスナチスドイツによるオーストリア併合)に及んで、ロンドンへ亡命。1939年に83歳でこの世を去ってしまった。

 

 講師の立木氏は、本テキストの最後の部分で次のようなことを綴って締めくくっている。・・・自分が何者であるかを知りたければ、自分が何を求めているかを知らなくてはならない。欲望とは、フロイトの言葉で言えば「願望」です。それを知る最も身近な手がかりは「夢」のなかにある。その「夢」から出発して、自分の願望に辿り着く方法を教えるのが、フロイトの『夢判断』なのです。・・・残念ながら、私は『夢判断』を読んだことがないが、自己のアイデンティティの不確かさに戸惑っていた若い頃に、心理学者の岸田秀氏の著書『フロイドを読む』を読んで以来、フロイト精神分析の理論について自己流で断片的な学びを続けてきた。それは立木氏が言うように自分が何者であるかを知りたかったからである。でも、その学びの過程で、私は西欧的な親子関係の中で父性重視の傾向をもつフロイトの「エディプス・コンプレックス」という概念に違和感をもち、それに対して精神科医古澤平作氏が母性を重視した日本的な親子関係に基づいて提唱し、精神分析家の小此木圭吾氏が流布した「阿闇世(アジャセ)コンプレックス」という概念の方に共感を覚えたことをきっかけにして、師匠のフロイトから袂を分けたユング深層心理学の方へ関心を向けていった。その後は自然の成り行きにしたがって、さらにユング心理学者の河合隼雄氏の諸著作へとのめり込むことになるのである。

 

 私の精神分析や心理学に対する知的関心の成り行きを振り返ってみると、私は決してフロイト精神分析理論のよき学び手ではなかったと思う。しかし、フロイトの新局所論に関する理論を援用して、「無意識」に着目した子ども理解を基にした教育相談を実践していた若い頃の私にとって、彼の精神分析理論が小学校教師の仕事に対する大きなやりがいと手応えをもらしてくれたことは間違いない。その意味では、フロイトが発見したと言われる「無意識」という概念の臨床的な有効性について、自分の教育実践を通して深く認識した一教師であったという自負はある。本テキストに基づいた今回の学びをきっかけにして、私はもう少しフロイト精神分析理論、特に「無意識」について現象学的な視座から意味付けるような勉強をしたくなってきた。近いうちにその成果の一部を当ブログの記事にまとめてみたいと思っているが、さて、どうなることかな。

古希を祝う会を兼ねて高校のクラス会をしました!

   1週間ほど前の4月21日(日)、古希を祝う会を兼ねて「松山商業高校学校第71回(昭和48年3月)卒業3年12組のクラス会」を、「道後温泉ふなや」という老舗旅館を会場にして開催した。前回のクラス会は還暦の年に行ったので、10年振りの開催になった。数年前からそろそろクラス会をやってはどうかという声があったらしいが、その頃はちょうどコロナ禍真っ最中の時期だったので収束するまで待とうということになっていた。そして、昨年5月8日から新型コロナウイルス感染症法上「5類」に位置付けられたが、発起人の一人として私が参加した7月頃の話合いでは、まだ感染の危険性が高いのではないかと心配し、1年後には古希を迎えるのでそのお祝いを兼ねて開催しようということに決まったのである。

 

 私を含めて男女各2名の発起人は、昨年から今年にかけて合計4回の事前打ち合わせを行った。その内の2回は、話合い後に会場の選定や会費、使用する部屋等の確認をするために「ふなや」を訪問した。ただし、私は開催日の約1週間前に最終打ち合わせをした後に訪問しただけである。その理由は、前年に義理の姉夫婦の古希を祝う会を「ふなや」で行っていたので、会場の雰囲気や周りの景観、料理の内容等について熟知していたからである。だから、訪問した際は、当日使用する部屋の広さや座席の配置等だけを確認すればよかったのである。もちろん私は当日の司会進行役を引き受けていたので、そのイメージトレーニングに役立てようという思惑もあったが・・・。

 

 私たち12組は1クラスしかない進学コースだったので、高校の3年間同じメンバーで過ごした。45名在籍していたが、今までに6名の同級生が鬼籍に入っている。したがって、存命している39名に何としても案内したかった。発起人の女性たちがラインや電話で連絡をつけることができるのが21名(私たち発起人も含めて)、私が往復はがきで案内したのが18名。その内で現住所が分かっていたのは12名だったので、他の6名(全て女性)は母校の卒業アルバムに掲載されていた当時の実家の住所宛てに当時の姓のままで送った。参加希望の返信があったのは男性2名ではあったが、最終的には男女各8名の計16名が参加してくれることになった。特に女性の内の3名は、嫁ぎ先の県外(静岡県大阪府岡山県)から参加してくれたので、県内在住者たちはとても喜んだ。

 

 さて、そろそろクラス会当日の様子について筆を進めていこう。当日、私は会場まで市内を走る路面電車を使う予定だったし、あいにく雨模様になったこともあり、自宅を15時頃に出発した。クラス会の開始時刻より2時間ほど前には会場へ到達した。もちろん誰も来ていなかった。幹事役とは言え、なぜそんなに早く会場入りをしたのかと訝しがる方もいると思う。本音のところは当老舗旅館を宿泊や宴会等で利用する人には館内に設置している大浴場に無料で入れる特権があったからである。何といっても世間的には名高い道後温泉の源泉を引いている大浴場である。地元住民であっても、いやそうであるからこそ、普段あまり入ることがない温泉にこの機会に入ってみたかったのである。

 

 本館の1階ロビーから渡り廊下を挟んで設置している大浴場には、泊り客だと思われる方が数人入っているだけだった。私は、室内に2つと露天に1つあった風呂に代わる代わる入浴した。久し振りの温泉の湯は、疲れた身体にはとても優しかった。特に露天風呂では小雨に霞む道後温泉街の風情を覗き見ることができ、僅かに感じる冷気が心地よかった。私は湯船の中に手足を伸ばし、のんびりとした気分に浸りながら、クラス会の流れをイメージしていた。20分ほどの入浴時間だったが、その後は窓ガラスから館外の木々が望めるスペースに置いてあったマッサージチェアでじっくりと身体をほぐすことができた。何だが旅に出掛けたような気分になって、心身共にリラックスできる時間を過ごすことができた。

 

 開会まではまだ1時間ほどあったが、私は会場になる「青磁の間」という部屋の方へ足を進めた。すると、渡り廊下の所で何と男の同級生たち3名と出会った。「よう、久し振り!」と簡単な挨拶を交わし、「もう風呂に入ったよ。いい風呂だったし、まだ時間もあるから入ったら。」と促すと、懐かしい顔ぶれたちは「ありがとう、そうするよ。」と言って大浴場の方へ歩を進めていった。その後、会場前のフロアの所へ行くと、何と幹事役のMさんとYさんがすでに受付机の前に座っていた。私は早速クラス会と二次会の費用を支払い、座席の位置や県外から来てくれた3名の女性たちに手渡すお土産等の確認をした。そして、すでに食事の準備ができているという部屋の様子を見に行った。

 

 そうこうしている間に、次々と参加者たちが受付をしていた。私は近くのソファへ参加者たちを誘いながら、取り留めのない質問をしたり懐かしい思い出話をしたりしていた。その中で、高校時代の「倫理社会」の先生の話になり、その先生に紹介してもらった阿部次郎著『三太郎の日記』を買ったけど読み通せなかったと口にしたことをきっかけにして、何となく哲学談義へ発展していった。私はつい調子に乗り、発刊から約40年経って文庫化された浅田彰著『構造と力』のことや、それに関連して若い頃に関心を深めた現代思想のこと、さらに私が近年ワクワクして読んだ國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』の内容などについてしゃべっていた。同級生の男性陣は感心したように頷きながらも、ややあっけにとられたような表情になっていた。私の顔は少し赤面してしまっていた。

 いよいよ定刻になり、私がクラス会の開会を宣言しようと構えていたら、写真担当のH君が「皆が酔ってしまう前に記念の集合写真を撮りたい。」と言ってきたので、急遽、私からその旨を呼び掛けると、全員が屏風前に男女別に前後2列に並んでくれた。多少緊張気味の表情のまま5~6枚の写真を撮った。自営の写真屋を営んでいるH君が、「現像したら写真の下に正式なクラス会の名称や日付等を記して参加者全員に送るよ。」と言ってくれた。双子の子たちを含め3人の子宝に恵まれたH君は、今でもはにかんだ笑顔が清々しい人である。私たちはほんわかした気持ちになって、自分の席に戻った。

 

 開会に先立って、すでに鬼籍に入っている方々に対して黙祷を捧げる時間を設定した。中には30代という若さで亡くなった同級生もいて、私は黙祷の間に人間のもつ運命の儚さについて考えてしまった。黙祷後は、場の雰囲気を和らげるように気を配りながら、今回のクラス会の開催経緯や主旨等を交えた開会のあいさつを述べた。ついつい長話をしてしまう私だが、できるだけ手短に述べたつもりである。でも、実際は思った以上にしゃべったのかもしれない。その後、私以外の3名の発起人たちに自己紹介してもらい、その中のY君に乾杯の音頭を取ってもらって、会食並びに歓談の時間に入った時には開始から約20分は経過していた。

 

 MさんとYさんが、皆が話しやすいように男性2名と女性2名が交互に並ぶようなクジ引き席にしてくれていたお陰で、会食並びに歓談の時間は最初から和やかな雰囲気に包まれた。自席の前に次々に並ぶ和食料理に舌鼓を打ったり、注文した好みの飲み物を飲んだりしながら、そこここで懐かしい昔話に花が咲いていた。頃合いのよい時に、県外から駆け付けてくれたTさん、Oさん、Iさんにお土産を手渡し、一言スピーチをしてもらった。高校時代にはほとんど声を聞いたことがなかった方までよく話してくれて、会場は盛り上がった。卒業してから半世紀ほど過ぎているが、皆、気分は高校生になったような時間があっと言う間に過ぎていった。

 

 腕時計を見ると、お開きの時刻まで20分ぐらいになっていた。予定では集合写真撮影⇒校歌斉唱という流れを考えていたが、雰囲気的に逆の方がよいと私が勝手に判断して、「皆さん、宴もたけなわだと思いますが、ここで懐かしい母校の校歌を斉唱します。」と働き掛けた。事前に校歌の歌詞を3番まで記しているプリントを配布していたので、続いて「3番の歌詞を知ったのが今回初めての方もいると思いますが、その3番まで歌いたいと思います。前奏に続いてお願いします。」と多少強引に進行した。CDプレイヤーから流れるメロディーに乗って、過去に甲子園球場で何度となく流れた「石鎚の山 伊予の海 金亀城頭 春深く・・・」という歌詞を皆は真剣に歌い始めた。何十年振りに歌う校歌だろう。私は2年生の途中まで硬式野球部に所属していたので、感慨深い思いに浸りながら歌っていた。

 

 その後、再度の集合写真を撮ってもらった。並び方は最初とは逆にして男性が前列、女性が後列になって、それぞれが好きなポーズを取った。それぞれがピースサインをしたり、隣同士で肩を組んだりして、6~7枚ほど撮影しただろうか。こんなことができるのも、青春時代に学生生活を3年間も共にした仲間だからこそである。少しはしゃぎすぎていたら、もうお開きの時刻になっていた。私は、慌てて皆に自席に戻ってもらうよう声掛けをした。すると、結構酔っていたにもかかわらず皆は素早く自席に着いてくれた。私はあえて落ち着いた口調で、事前に依頼していたO君(現職中に母校・松商の校長を務めた経歴がある)に閉会のあいさつをお願いした。

 

 元教員らしくO君の長めのあいさつが終わると、私は「ご丁寧なあいさつ、ありがとうございました。それでは、これをもちまして古希のお祝いを兼ねた松山商業高等学校第71回卒業3年12組のクラス会をお開きにさせていただきます。皆さん、ご協力ありがとうございました。」と急いで締めくくった。続いて、幹事たちによる二次会への案内に促されるように、皆は名残を惜しみながら「青磁の間」を出た。その後、予約していたタクシーに3~4名ずつ乗って、一番町にある「Bar MIYAO」へ直行した。二次会でも、高校時代の様々なエピソードトークや各自の近況報告等でさらに盛り上がったのは言うまでもない。二次会のお開きの際に、「また希望があれば、クラス会の世話をするから!」と私はつい叫んでしまっていた。次回は喜寿のお祝いを兼ねてと考えていたが、きっとそれより早く開催するような予感がした。まあ、その時にまだ健在だったら幹事役をしようと思っている。

平和は「訂正する力」によってつくられる!~東浩紀著『訂正する力』から学ぶ②~

 前回の記事では、『訂正する力』(東浩紀著)の前半内容(第1~2章)の中から私の心に深く刻まれたことをまとめ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみた。そして、次回は後半内容(第3~4章)についても綴ってみたいと書き添えておいたが、今回の記事はそれに応えるものである。ただし、中心は第4章の内容になりそうなので、読者の皆さんにはこの点ご容赦をお願いしたい。

 

 <「喧噪のある国」を取り戻す>というタイトルの第4章は、「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像をアップデートするための考え方や方法等について提案している。つまり、第1~3章までの「時事」と「理論」と「実存」の3つの要素を兼ね備えた応用篇になっているのである。本章の中で私の心に深く刻み込まれたのは、特に平和をつくることと「訂正する力」との関連についてである。そこで今回は、戦後日本の平和主義が抱える課題をどのように「訂正」するのかという視点に立った著者の提案内容を要約しつつ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと思う。

 著者は、戦後日本の平和主義は一種の方便だったと言う。武力の放棄を約束することで国際社会の復帰を果たし、経済成長に集中する。でも、現実はアメリカの核の傘に守られている。そのリアリズムを支えたのは戦争の記憶であったが、1980年代ぐらいから平和と護憲とさえ唱えていればよいという若い世代が現れてくる。その頃から議論が硬直してきて、保守派はそんな左派に対して「自虐史観」と言い出し、それに対してリベラル派もその動きに対して、ますます頑なになっていく。結果的に、今の日本では政治的な議論が異様に抽象的になり、戦争責任にしても左派が日本は絶対悪で永遠に謝るべきだと主張し、右派が日本は悪くないと主張して対立し、生産的な議論ができない状況に陥っているのである。

 

 著者は、今の日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと主張する。その一つの方向性は、戦後日本の平和主義を観光や文化戦略と結びつける。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくるというもの。そもそも日本は文化が売りの国であり、高尚なものからキッチュなものまで、驚くほど分厚い国有の美学をもっているのだから、そのような文化的な豊かさ全体を「平和」に結びつけることができるのではないか。平和とは喧騒があるということであり、その正体は社会が政治に支配されていないことになる。政治とは無関係な話題でも大騒ぎできることにあるのである。このような著者の主張は、私に新たな視座を与えてくれた。

 では、そもそも「平和」とは何であろうか。平和とは戦争の欠如であり、政治の欠如である。政治とは関わらない、友と敵の対立に呑み込まれない活動をたくさん展開できるのが、平和の本質ではないのかと著者は言う。皆が好みを自由に語り、政治と関係なく価値観を表現できるのが、平和な日常なのである。著者は、戦後日本というのはそのような意味での平和的な活動=「脱政治的な活動」の領域がとても豊かな国だったと指摘している。その実例として著者が挙げているのが、「オタク」と呼ばれる人々の出現である。彼らの脱政治的な生き方がかくも広がっていたということ、それこそが逆に日本がいかに平和だったかを示していた。戦後日本は長い間、政治の外側に大変豊かな「喧噪」の世界をつくり続けたのである。

 

 だから、日本は武力を放棄したという理由で平和国家なのではない。そもそもそのような伝統をもっていたからこそ平和国家なのである。著者は、戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと提案している。そして、このような読み替えは世界の中で政治が文化を呑み込み始めている時代だからこそ、今の時代では重要な提言になると強く主張している。平和とは政治の欠如であり、その欠如にこそ価値がある。しかし、それは単なる欠如=無秩序のことではなく、戦争と平和、政治と非政治、作為と自然、現実と幻想といった諸々の対立を超えて「自然を作為する」という第三者の立場に立たないと、本当の平和はつくれない。まさにこれこそが「訂正する力」の働きなのである。

 

 「過去を変えたのに変えたと思わさない力」、「ルールを変えたのに同じゲームが続いていると思わせる力」、「政治が続いているのに消えたと思わせる力」、それらはつまり、「作為があるのに自然のままだと思わせる力」のことであり、平和はこの「訂正する力」によってつくられるのである。このことを著者は本書で言い続けている。私はこのような著者の哲学に震えるような共感を覚えた。もちろん、左右両派からは「ぶれない」思考によって批判の嵐が沸き起こるであろう。とても危うい「脱構築的戦略」のように見えると思う。でも、戦後日本の平和主義に関するまともな対話が成立せずに、不毛とも思える「ぶれない」議論を見せ続けられていて、多くの国民がニヒリズムに陥っている状況から脱していくためには、今こそ著者の提言する「訂正する力」による平和の哲学が求められているのではないだろうか。

今こそ「訂正する力」を蘇らせよう!~東浩紀著『訂正する力』から学ぶ①~

 ずっと気になっていた本だった。それは、以前からその言論活動に注目していた評論家の東浩紀氏が上梓した朝日新書の『訂正する力』というタイトルの本。昨年の11月頃から職場近くのデパート内に入っている紀伊国屋書店に平積みしているのは知っていたが、あの東氏の本なので気後れしてしまい、いざ読んでみようと思い立つことができなかったのである。ところが、先日、市立中央図書館から借りた同氏の『ゆるく考える』というエッセイ集を拾い読みしていて急に現在の思想について知りたくなり、新刊本の一つである本書のことを思い出して入手したという次第である。

 

    本書の「はじめに」の冒頭において、筆者は日本にいま必要なのは「訂正する力」だと主張している。では、「訂正する力」とはどのような力なのか。それについては、「ものごとを前に進めるために、現在と過去をつなぎなおす力」「まちがいを認めて改めるという力」「リセットすることとぶれないことのあいだでバランスを取る力」「成熟する力」などと言い換えている。市井のリベラリストを自認する私は、この時点で「何だ、保守主義的な思想を表明した本なのか!」と早合点して、やや落胆した気分に陥ってしまった。

 

 ところが、気落ちしながらも読み進めていくと、哲学は「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えて、はじめて魅力的になるものであり、本書は第1章が時事篇、第2章が理論篇、第3章が実存篇、最後の第4章がいわば応用篇になっていると示していた。また、本書では「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像をどのようにアップデートすればよいかを提案していると綴っていたので、「待てよ。単なる保守主義的な思想ではなさそうだな。」と気持ちを新たにして、著者が主張している哲学・思想をしっかりと読んでみようと思ったのである。

 

 そこで今回は、本書の前半(第1~2章)の内容の中で私の心に深く刻み込まれたことを、各章の終わりの部分に位置付けている「本章のまとめ」を活用しながらまとめ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと考えている。

 

 まず一つ目は、今の日本で「訂正する力」が機能していない理由とそれを回復するための手立てについて。著者は、リベラル派と保守派の双方にいる「ぶれない」ことをアイデンティティにしている「訂正しない勢力」が、議論を硬直化させ社会の停滞を招いていると指摘している。そして、その背景には今の日本人が対話において信頼関係を築く訓練をしておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を抱えている実態がある。つまり、そのような社会全体を規定している「訂正できない土壌」があると言っている。それに対して、著者は日本には本来「訂正する力」の豊かな伝統があったことや、現在の動画配信などの新たな伝達手段も生まれていることなどによって、余剰の情報を提供することで「訂正する力」を新たに強める可能性を秘めていると希望的なことも述べている。

 

 また、「訂正できる土壌」をつくるために、小学校ぐらいから話合いの時間をつくり「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気付き自分の意見を変えていく、また他人の変化も認め合うという訓練を積み重ねるべきだと主張している。この点に関しては、現職中にこのような主旨を生かした授業改善を積極的に進めてその手応えを実感してきた経験が私にはあるので、この主張に全面的に賛成である。また、退職後もなるべく機会を生かして「哲学対話」の実践を試みようとしているのは、同様の主旨の具現化の営みである。私はこのような実践は、日本の民主主義がよりよく発展していくためのシチズンシップ教育の一環だと考えているので、今後もささやかな取り組みではあるが、続けていくつもりである。

 

 二つ目は、「訂正する力」の核心が「じつは・・・・・・だった」という過去の再発見の感覚にあるということについて。著者は、困難な課題を抱えて危機的な状況を迎えている日本の今後を見据えたとき、未来とつながる形で「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだと提案している。そして、この「じつは・・・・・・だった」という訂正の精神は、本質的には過去との連続性を大切にする保守主義に近いものであることを認めている。その根拠は、過去を全てリセットして新しい社会をつくろうとした今までの試みが歴史的に失敗しているからである。フランス革命然り、ロシア革命然りである。だから、社会は過去の記憶を訂正しながら、だましだまし(脱構築しつつ)改良していくしかない。人間や集団のアイデンティティは、じつは過去と現在をつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しないのである。

 

 このダイナミズムは、過去がリセットされる「反証可能性」の原理に基づく自然科学ではなく、過去が訂正される「訂正可能性」の原理に基づく新文学の役割に深く関係している。特に現代のようにあらゆるコンテンツが生成AIで作成可能になる時代には、「じつは・・・・・・だった」という発見の感覚で生み出され、「訂正する力」で支えられている<作家性>が重要になる。生成AIには<作家性>が欠けるからである。したがって、AI時代にあっても、「訂正する力」について考える人文学の意義は決して色褪せることなく、それどころか文化産業において「訂正する力」や「訂正の経験」そのものが商品化され、新たなビジネスに結びつく可能性も秘めているとも述べている。

 

 今、世界は切実な「分断」の危機が迫ってきている。また、生成AIの急激な進展によって、人類は「人間とは何か」という根源的な問いを突き付けられている。そのような時代だからこそ、人間固有の「生」を肯定的に生きるために、過去と現在をつなげる力、持続する力、聞く力、読み替える力、「正しさ」を変えていく力などとも言い換えることができる「訂正する力」が必要なのである。私は、著者のこのような考えを最初は保守主義的な思想ではないかと短絡的にとらえてしまいそうになったが、本書をじっくりと読み通した後には、それとは「似て非なるもの」だと認識を新たにすることができた。現在、第3章以降を再読しているところだが、その中で私の心に深く刻まれたことをまた、次回の記事で綴ってみたいと思っている。

目を見張った孫たちの成長ぶり!~二人の孫の近況報告を兼ねて~

 3月中旬から4月中旬の週末の休日は、私的な行事や活動等で忙しく、ブログの記事を執筆する心身の余裕がなかった。そのため、ここ3週間ほど近く更新することができず、何となく焦りのような気持ちに襲われていた。そこで今回は、それらの行事や活動等における孫たちの様子を綴りながら、その成長ぶりを少し自慢してみたい。他人の不幸事には興味をもつが、他人の幸福事には見向きをしないのが世間の常のようだが、あえて私は自分が幸せだと実感していることを綴ろうと思う。

 

    さて、最初に取り上げるのは3月16日(土)の土曜日の出来事。私たち夫婦は2月の誕生日で満7歳になった初孫Hと一緒に、約1年ぶりに「えひめこどもの城」へ遊びに行った。目的は、新しく完成した木造の「コシロ・アドベンチャー」をHに体験させたかったのである。Hは初めてのアスレチックコースに、自分からどんどんチャレンジし一つ一つクリアしていった。幼い頃なら怖がっていたと思われる揺れる木橋のようなコースも、難なく渡っていった。そして、ゴール地点にあった鐘を鳴らすと、「もう一度やりたい!」と叫んでいた。二度目のチャレンジ後に昼食を取ったレストランでは、自分から進んで私たちの分までお冷をコップに入れて持ってきてくれた。人のために自分ができることをしようとする優しさが現れていた。小学校1年生になったHは、様々な経験を積み重ねてきたことで、心身共に逞しく、そして優しくなっていると実感した一日になった。

    次は、3月31日の土曜日の出来事。私たち夫婦は長女とその長男(初孫H)を同乗させて、二女の住む新居浜市にある滝ノ宮公園へ車で出かけた。朝7時半頃に松山市の自宅を出発して、約1時間半のドライブだった。現地に到着してすぐに大型遊具群を見付けたHは、早速チャレンジしようと一直線に駆け出していた。最初はロープを編んで上へ登ることができる遊具にチャレンジしたが、高い所で平行移動する箇所に来ると「怖い!」と言って途中で止めてしまった。私は「まだ高い所は苦手なんだなあ。」とちょっと残念な気持ちになったが、その後、トンネル状の滑り台や移動式のブランコなど今までなら苦手意識がある遊具にも挑戦していった。そして、最後の方になって「僕、途中で止めたさっきのロープの所にもう一度挑戦してみる!」と私に宣言して、何と自分だけの力でクリアしたのである。達成感と満足感に満ち溢れた笑顔のHを見て、私の心まで喜びが湧き上がってきた。

 

    しばらくすると、二女とその長男(私たち夫婦にとっての2番目の孫M)や松山市から車でやって来た義理の姉夫婦たちと合流した。皆で花見をしながらお弁当を食べることが目的だった。久し振りに会うHとMはお互いに嬉しそうな表情を浮かべながら、最初はボール遊びを一緒に楽しんだ。2月の誕生日で満3歳になったMは、半年ほど前にはまだボール扱いが上手にできていなかったが、ドリブルがとても上手になっていた。もうすぐ保育園の年少組(ほし組)になる自覚もできてきて、ちょっとお兄ちゃんになったようだった。その後、別の海浜公園へ移動してからも、二人はまるで本当の兄弟のように手を繋いだり、HがMをおんぶしてやったりしていたので、周りの大人たちもつい目尻を下げてしまった。

 また、4月に入って6日の土曜日には、二人の孫にとっての曾祖母(母方/私の妻の実母)の一周忌法要があり、HとMも参加した。Mは以前とは違い、お寺の本堂へ入ってからも自分の思いのままに動き回っていた。元々はやや臆病な性格だったが、満3歳になったからか住職や親戚の方々に対しても臆することなく接する様子を見せた。Mが少し逞しくなったように感じた。それに対して、4月から小学校2年生になったHは、自分の席にじっと座って神妙な表情で法要に参加し、大人の真似をするようにお経を唱えていた。時や場面の状況を考えて適切な行動を取ることができていて、少しずつ社会の一員となっていくHを見ながら私は感慨深い思いに浸っていた。

 

 懐石料理を中心とした和食レストラン「梅の花」で、故人を偲びながら一周忌法要に参列した親戚の方々と共に孫たちも昼食を取った。孫たちはボリュームのある「お子様ランチ」だったが、二人ともよく食べた。特にまだ小柄なMだが、食欲はHよりもあり配膳された料理のほとんどを食べてしまった。「Mちゃんのお腹、パンパンになったね。」と皆で笑い合うほどの大食漢ぶりを発揮していた。きっと長身の父親ぐらいに成長してくれるのではないかと、私も将来のMの姿を想像して、頬が緩んでしまっていた。

 

 昼食後、長女とHは用事があるとかで帰宅してしまったので、私たち夫婦は二女とMを連れていろいろな滑り台がある三津浜中須賀公園へ行った。まだ急な滑り台が苦手なMに少しでも経験させる機会を増やそうという思いがあったが、Mは滑り台よりも「ストライダー」に乗る遊びの方を好み、公園内に植えている木の根っこが盛り上がっている所を乗り越えることに夢中になった。そこで、私たちはストライダー専用の公式コースがある「マテラの森」へ行くことにした。今までに数回しかストライダーに乗ったことがないMは、でこぼこや急カーブのある走路を、最初はサドルにお尻を乗せないような格好でこわごわと歩いていた。しかし、周りでかなりのスピードで走る年上の子たちに刺激を受けてか、徐々にスピードを増して走るような感じになってきた。嬉しそうな表情でストライダーに乗るMの姿を見て、私は「やっぱり習うより慣れろだなあ。」と一人嬉しそうに呟いていた。

 

 次の日の7日の日曜日は、まだ伊予鉄道の市内バスに乗ったことがないMに初体験させようと、義理の姉夫婦が住んでいる妻の実家までバスに乗って行くことにした。私の自宅近くにバスの車庫があり、Mが乳児期から抱っこして何回も見せに行っていたので、Mはバスの色や大きさ、形等に興味を示すようになり、「バスに乗ってみたい。」と言っていたのである。松山市駅前から出発する路線バスに乗って、私たち4人は20分ほどのバス旅行を楽しんだ。初めてバスに乗ったMは、最初は緊張した表情をしていたが、すぐに慣れてきたのか次のバス停名を案内する車内アナウンスが流れる度に、大きな声でそれを復唱し始めた。幸い同乗する客が一人だったので、私たちもあまり周りの迷惑にならないだろうと判断して認めた。まだ3歳になったばかりのMだが、はっきりとした発音で復唱するので、私たち夫婦は「Mちゃんはバス停名がよく言えるねえ。」と交互に褒めると、Mは得意満面の表情になっていた。スマホで必死にMの写真を撮りながら、Mの知的な発達の速さについつい期待を膨らませる「ジジばか」の私がいた。

 この1か月ほどの週末の休日は、二人の孫たちの成長ぶりを実感する機会が多かった。でも、まだまだその機会は続く。今週末の20日の土曜日は、今年度初のHの参観日があり、私たちジジババも出掛ける予定ある。2年生になったHの授業中の様子を参観するのは、少し心配する面もあるもののやはり楽しみの方が大きい。また、今月末の3連休には、二女とMが泊まりにやってくる。今から今度はどこに連れて行ってやろうかと、楽しみながらいろいろと思案している。孫たちの目を見張る成長ぶりを見ることができる私は、本当に幸せである。少年期には家庭的に何かと苦労が多かった私だが、老年期になってこんな幸せな家族的な境遇を迎えることができて、有難いことだなあとしみじみ感じる日々である。