私が勤務している市立N中学校の図書室で、文庫版の『少年と犬』(馳星周著)を見つけた。本書は、2020年に第163回直木賞を受賞した作品であり、人と犬の種を超えた深い絆を描く感動作だと言われている。本書が直木賞を受賞した際、私はタイトルがややベタな感じの印象を受け、勝手に自分の想像の範囲でありきたりのストーリーを描いてしまい、あまり読む気が起きなかった。ところが、2月19日放送のBSテレ東の「あの本、読みました?」で〈動物が登場する小説〉を特集した時に内容の概要を知り、また物語の背景に15年前の3月11日に起きた東日本大震災を取り上げていることを耳にしたこともあってか、本書が図書室の書棚から私に呼び掛けているように感じた。私は数ページ斜め読みして取っ付きやすい文体だったので、借りることにした。そして、奇遇にもその日から約一週間経った3月11日の追悼日に読了した。しかし、その後なかなかパソコンに向かってキーボードを叩く時間が取れず、さらに1週間が過ぎてしまったが、やっと記事を綴る時間が取れた。

そこで今回は、物語の内容がまだ記憶に留まっている内に本書の内容概要と読後所感をまとめた上で、私の今までの人生で唯一犬を飼ったことがある経験の思い出の一端を綴ってみようと思う。
本書は、「多聞」というシェパードが入ったミックスの犬を中心にした連作短編集だが、7つの物語にはそれぞれにほとんど関係ない人生の重要な一断面が描かれている。いつも空腹で、満身創痍の状態で現れる「多聞」は、その都度出会った人物に助けられるが、その後は助けた人物の癒しになっていく。そして、その過程で助けた人物は今までとは違う自分に気づき、生き直そうとしたり、絶望の中で光を見つけたり、或いは終わりを自覚したりするなど、新たな人生を見出そうとする。しかし、その都度「多聞」は消えてしまうのである。
「多聞」が様々な人生に関わる中で、いつしか「多聞」と書かれた首輪がなくなり、それぞれの出会った人物がつけてくれた名前で呼ばれるようになる。それが夫婦であっても、個々の置かれた情況に応じて別の名前を付けられるのである。この関係性に対応して名前が変わることは、一人一人の人物との関係性に応じて「多聞」の役割が違っていることを表しており、飼い犬のもつ役割や存在意義は飼う人との関係性で変わるものだと私は改めて納得した。
6つの物語全てにおいて、「多聞」は人間とのコミュニケーションや生活の約束事を心得た犬として振舞っており、なぜか物思いに耽るように南や南西の方角に顔を向けている。そして、最後の一篇でその理由が「多聞」という犬の生涯と繋がることによって明らかになる。「多聞」の5年間の長い旅が私の胸に迫ってくる。「忠犬ハチ公」の話ではないが、人間にとって犬という種は人間との長い共生生活の中で無くてはならない存在になっており、単に可愛がるだけのペットという存在を超えている。犬は飼い主の気持ちや考えを察することができる相棒のような不可欠の存在だったんだと再認識した。
私も小学生から中学生の頃に二匹の犬を飼っていた。一匹は「いち」という名のオスの柴犬で、私が小学校から帰ってくると通学路まで出迎えてしっぽを振ってくれる犬だった。屋外で飼っていたのでいつも一緒にいることはなかったが、私にはよく懐いていた。もう一匹は、私が小学校高学年から中学校頃まで室内で飼っていた「メリー」という名のメスのスピッツ犬。母子家庭で一人っ子だった私にとって、常に寄り添ってくれる恋人のような存在だった。昼間は私の遊び相手で、よくプロレスごっこの相手になってくれ、夜は私の布団の中で添い寝をしてくれていた。その時期の私にとっては、家族同様の親密なコミュニケーションができていた。私が落ち込んだり寂しかったりした時、私の愚痴の聞き役になったり、凍り付くような心をケアしてくれたりしていた。
そんな存在の「メリー」がある朝、起きようとして寝床で座り込んでいた中学生だった私の目をじっと見つめていた。そして、しばらくして小さな裏庭に出て行った。私は「おしっこでもするのかな。」と呟きながら、学生服に着替えていた時に何か不吉な予感が襲ってきた。私は急いで裏庭に面した廊下に出て「メリー」を探すと、静かに横たわっている姿が見えた。「メリー!メリー!!」と私は狂わんばかりの大声を張り上げて「メリー」を持ち上げたが、ぐったりとしたままだった。私は、親しい家族を失ったような喪失感を味わい、頬を伝う涙が止まらなかった。
私にとって初めて味わう“対象喪失”だった。しばらく私は何も考えることができず、白紙のような毎日を過ごすことになった。飼い主の私を励まし勇気付けてくれた飼い犬の存在は、あまりに大きなものだった。しかし、生命はいつか必ず“死”を迎えること、親しい相手との関係性が絶たれたら新たな自己に更新しなくてはならないことなど、そんな当たり前のことを中学生の私に実感として教えてくれたのである。「メリー」の存在と“死は、私が人を実存的・関係的・生成的存在として意識する契機になったと思う。












