前回の記事を綴ってからもう3週間近く経ったが、その間に12日(金)には松山市男女共同参画推進センター(通称コムズ)を会場にして「快と不快」というテーマで開催された「哲学カフェ」へ、13日(土)には愛媛大学教育学部3号館を会場にして開催された「生活科の実践交流会(愛教研生活科夏季研究会に向けての事前研修会)」へ参加するなど、心に深く刻まれた出来事が何回かあった。それぞれに他の参加者との豊かな交流があり、自分の認識を再構築する経験をしたが、それらを当ブログの記事として綴る時間を取ることができなかった。ただし、職場での休憩時間や家庭での隙間時間等を活用して、何冊かの小説やエッセイを読むことはできていた。
私が勤務する市立N中学校の図書室で借り出した『展望塔のラプンツェル』(宇佐美まこと著)、哲学カフェが開催されたコムズの図書コーナーで借り出した『月の光が届く距離』と『愚者の毒』(共に宇佐美まこと著)、孫Hをサッカーの試合会場へ送っていったついでに立ち寄った市立三津浜図書館で借り出した『父のしたこと』(青山文平著)という時代小説や『老人流』(村松友視著)というエッセイなどである。このように列挙してみれば歴然としているが、宇佐美まこと氏の作品が3冊も入っている。そうなのだ、私には今ちょっと「宇佐美まことブーム」が来ているのである。
そこで今回は、その中から『展望塔のラプンツェル』と『月の光が届く距離』の2冊を取り上げ、著者が児童福祉の視点からとらえた「家族のカタチ」を提示していることを受けて、それに対する私なりの考えを思いつくまま綴ってみようと思う。どこまでまとまりのある文章として示すことができるか甚だ心許ない限りだが、「考えてから書く」というより「考えながら書く」という手法で綴ってみたい。
まず、それぞれの小説の概要を紹介しておこう。『展望塔のラプンツェル』の「ラプンツェル」とは、グリム童話の少女ではなく、荒廃した街・多摩川市にそびえ立つ給水塔に閉じ込められ、児童虐待(ネグレクトも含む)の危機に晒されて育った子どもたちの隠喩である。本書では三つの物語が語られるが、その一つは中学校時代の同級生で17歳の「海」と「那希沙」の物語である。二人とも「海」の母親「ライザ」以外の大人を信じておらず、学校にも行っていない。そして、「海」が「晴」と名付けた児童虐待を受けている無口な5・6歳の男の子と一緒に、貧困と暴力の街で凄まじい日々を生きている姿がリアルに描かれている。二つ目の物語は、児童相談所の「松本悠一」とこども家庭支援センターの「前園志穂」が、息も抜けないほど多忙な日々を送る姿が描かれている。そして、三つ目の物語は、先の二つの物語の合間に挿入される形で、不妊治療専門外来に通う「落合郁美」が何としても子どもが欲しいのにもかかわらず、なかなか得られないという悶々とした姿が描かれている。
この三つの物語が最初はパラレルに展開していくのだが、ラストの部分ではクロスしていき、驚きの結末を迎える顛末はスリリングで読みどころ満載になっている。本書は、「どんなに暗く辛い境遇にあっても、未来は決して捨てたものではないよ」という著者の温かいメッセージを、読者一人一人の胸の奥にそっと届けるような小説である。
一方、『月の光の届く距離』は、予期せぬ妊娠をした17歳の女子高生「美優」が、福祉の力を借りて奥多摩にあるゲストハウス「グリーンゲイブルズ」に身を寄せて、様々な事情を抱える「未来」「太一」「久登」という子どもたちや、その里親になっている「明良」「華南子」という兄妹、そして高齢の母「類子」との生活を通して、命の選択や「家族のあり方」を見つめ直すという感動の長編小説になっている。
本書は、主人公の「美優」を中心にしながらも、「明良」「華南子」「類子」の人生行路における複雑な情況を細かく描くことで、それぞれのキャラクターの陰影を見事に表現していて、物語に奥行きを持たせている。また、「第一章 夜の踊り場」「第二章 夜叉を背負って」「第三章 たった一つの恋」「第四章 月の光の届く距離」という巧みな構成によって、物語をより完成度の高いものに仕上げており、ともすると常識的な家族観に囚われがちな読者に新たな「家族のカタチ」の価値を示しているような小説である。その意味では、本書は『展望塔のラプンツェル』の続編といってもよいのではないだろうか。
ここで言う常識的な家族とは、いわゆる「血のつながった家族」のことである。しかし、この2作品で描かれる「家族のカタチ」は、児童虐待(ネグレクトも含む)を受けているために誰かの保護が必要になったり、予期せぬ妊娠によって特別養子縁組をしなければならないような子どもたちが、ある時は同じような境遇にいる子どもたち同士が生活を共にしたり、ある時は実の親元を離れて里親の下で暮らしたりするような「血のつながらない家族」である。私も複雑な出生事情のために「血のつながらない家族」の中で育った当事者なので、この「家族のカタチ」を実感としてとらえることができるが、それは常識的な家族と同様、いやそれ以上の深い愛情によって結ばれている関係である。
著者が児童福祉の視点から提示している「家族のカタチ」は、常識的な家族において愛情に欠ける扱いを受けて辛い体験をした者同士が形作っているので、お互いの事情や情況を察したり理解したりした上で相手の気持ちを尊重した接し方ができており、深い愛情で結ばれている。私は、常識的な家族でも息苦しく生きづらい関係性になっている場合もあると思うので、著者の提示する「家族のカタチ」はやや理想的すぎるかもしれないが、望ましい家族の関係性のモデルになっている。このような関係性の中で育つ中で、深く傷ついた体験をしてきた子どもたちが心身共に健全に成長していくよう、児童福祉制度が有効に機能していってほしいと願う。
私はそのような考えをもちつつも、27日(土)の午前中に近くの神社で行った長女の第二子H子のお宮参りや記念撮影の場では、この上ない喜びを味わった。また、今日28日(日)の午前中も長女の第一子Hのサッカーの試合があり、その応援のためにいそいそと出掛けて孫の活躍を一心に願いながら観戦した。さらに、新居浜市に住んでいる二女の第一子Mが発熱しているとLINEで連絡を受けると、居ても立ってもいられないほど心配してしまう。つまり、「血のつながり」を基盤にした親密な関係性を大切にして生きているのである。
私は、生物的なつながりより社会的なつながりを重視したいと考えるものの、可能であれば生物的なつながりに基づいた社会的なつながり、言い換えれば「血のつながり」のある関係性を豊かな愛情で包まれたものにしたいという思いが強いのだと思う。したがって、結論としてはあまりに常識的な考えに落ち着くが、生物的なつながりか、社会的なつながりかという二者選択ではなく、「生物的つながりも社会的なつながりも」という一体的な「家族や親戚関係のあり方」を求めたいのである。









