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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「部活動」指導に係わる教員の「働き方改革」の現状及び今後の行方とは…~内田良著『ブラック部活動―子どもと先生の苦しみに向き合う―』から学ぶ~

   前回の記事は、「給特法」の下での公立学校の教員の「働き方改革」について綴った。その中で、2016年度に実施された文部科学省による「教員勤務実態調査」の結果に触れ、小中学校の1週間における時間外勤務の合計は平均約20時間にもなり、多くの教員が「給特法」制定当時に比べると約10倍の時間外勤務を強いられている、「過労死ライン」を越える違法な勤務が常態化していることを記した。では一体、教員はどのような業務内容に追われているのだろうか。実は、ここ10年間で小中学校の各種業務内容の中で特に突出して増加したものがある。それは、中学校の休日における「部活動」の指導である。したがって、教員の「働き方改革」において最優先事項になっているのは、この「部活動」指導に係わる勤務時間を縮減することなのである。

 

 そこで今回は、「部活動」指導に係わる教員の「働き方改革」の現状及び今後の行方について、『ブラック部活動―子どもと先生の苦しみに向き合う―』(内田良著)から学んだことを基にまとめるとともに、私なりの思いや考えを綴ってみたいと思う。

 

 まず、「部活動」の教育課程上の位置付けについて。改訂された中学校学習指導要領では「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化、科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるように留意すること。」と示されている。つまり、「部活動」は教育課程外における生徒の自主的、自発的な活動でありながらも、学校教育と密接な関係を有しながら行われる教育活動なのである。このことは、「部活動」が学校内で学校の教員という人材を使って提供されるグレーゾーンであることを表している。このような現状に対して、著者が問題視するのは、グレーゾーンであることがうやむやにされていることなのである。すなわち、グレーゾーンだからこそ、学校教育の一環であることを理由にして、生徒にも教員にも「強制」がはたらき、活動に対する管理が行き届かずに「過熱」が止まらない点が問題なのである。

 

 次に、その「部活動」指導に係わる教員の勤務実態について。2016年度のスポーツ庁による全国調査によると、中学校の実に87.5%が教員全員による指導体制がとられており、教員に「部活動」指導をするかしないかの選択の余地はほとんどないというのが実情である。(本県の中学校の実態もほぼ全国平均並み)そして、実質的に「部活動」の指導をするのは、その大部分が勤務時間を超えて行われている。公立学校の教員の時間外勤務は原則的にできないという法的根拠については、前回の記事において記したのでここでは省くが、要するに時間外勤務として行う「部活動」指導を校長が所属教員に強制すること、換言すれば職務として命令はできないものなのである。しかし、現実的には非常に多くの中学校教員は「部活動」の顧問となり、「過労死ライン」と言われるほどの長時間の時間外勤務を半ば強いられているのである。

 

 実はかく言う私も市内のある中学校の校長であった時、多くの所属教員に運動部及び文化部の顧問を引き受けるようにお願いしていた。それは、当該中学校は以前から生徒指導上の「教育困難校」であったこともあり、全ての教職員が「部活動」の非行防止効果という認識を共有していたこと。また、「部活動」の実績が生徒の進路指導上における評価対象になっていたことについて教育的意義を見出していたことなどによって、「部活動」顧問を引き受けることについては特に拒否的な態度を取る教員はほとんどいなかったからである。しかし、今思えば、そのことは多くの所属教員の長時間の時間外勤務を黙認するという、校長としては職務怠慢的な対応であったと懺悔する。「退職後にこのようなことを書くのは無責任だ!」との誹りは免れないが、本書を精読して認識をより深めた現在の正直な反省なのである。

 

 では、「部活動」指導に係わる教員の「働き方改革」の現状及び今後の行方は、どうなっているのであろうか。

 

 平成29年(2017年)12月26日に文部科学省より「学校における働き方改革に関する緊急対策」がまとめられ、「部活動」は学校の業務ではあるが、必ずしも教員が担う必要がないものに位置付けられた。また、その翌年3月19日にはスポーツ庁より「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」が策定され、運動部活動の在り方について抜本的な改革の必要性が明らかになった。さらに、それらを受けて同年6月には本県において「本県の運動部活動の在り方に関する方針」、7月には本市においても「本市立中学校の部活動の方針」が策定された。ここでは、「本市立中学校の部活動の方針」の中における教員の「働き方改革」に関する項目「適切な休養日等の設定」の記述内容を紹介しておく。

○ 学期中は、部活動ごとに週当たり2日以上の休養日を設けること。そのうち、平日は少なくとも1日、土曜日及び日曜日(以下、「週末」という。)は少なくとも1日以上を休養日とすること。

○ 週末に練習試合や大会参加等で休養日に活動した場合は、休養日を他の日に振り替えること。

○ 長期休業中の休養日の設定は、学期中に準じること。また、生徒が十分な休養日を取ることができるとともに、部活動意外にも多様な活動を行うことができるよう、ある程度長期の休養期間(オフシーズン)を設けること。

○ 定時退勤日及び夏季休業中の学校閉庁日には部活動を実施しないこと。

○ 1日の活動時間は、長くとも平日では2時間程度、学校の休業日(学期中の週末を含む)は3時間程度とし、できるだけ短時間に、合理的でかつ効率的・効果的な活動を行うこと。

○ 早朝練習は行わないこと。ただし、学校としての取組として体力つくり等を目的とした場合については、校長の承認の下で実施すること。

○ 中学校体育連盟が主催する大会(総合体育大会・新人体育大会)、または文化部の連盟等が主催するコンクールや大会前に上記の時間等を延長して活動する場合は、早くても1か月前からとし、校長の承認の下、生徒や顧問教員にとって過度な負担とならないよう配慮すること。なお、延長した活動分については、休養日に振り替え、十分な休養が確保できるように留意すること。

 

 これら以外にも、部活動指導員や外部指導者の各校への配置も次第に増えてきているので、従前に比べたら「部活動」指導に係わる教員の「働き方改革」は進んでいると思う。もちろん著者の描く未来展望図、例えば「居場所」の論理に基づく部活動改革や「部活動」の総量規制等の構想にはまだまだ及ばないものである。また、将来的には私が前々から主張している「部活動」指導のアウトソーシング、例えば「部活動」指導の主体を「総合型地域スポーツクラブ」をはじめとする「地域スポーツクラブ」に移譲することをより具現化すべきである。しかし、ともかくも「部活動」指導に係わる教員の長時間の時間外勤務が少しでも縮減する方向で、具体的な「働き方改革」が進み始めたことには大きな意義がある。今後も学校現場における改革内容が充実するとともに、行政的な施策が拡充することを心から念願し、今回はここらで筆を擱きたい。

「給特法」の下での公立学校の教員の「働き方改革」の中身とは…~内田良・苫野一徳著『みらいの教育―学校現場をブラックからワクワクへ変える―』を参考にして~

   長時間労働による過労死等を防止し、労働環境を改善するために、今「働き方改革」が推進されている。そのような中、民間の大企業では本年4月から労働基準法に則って罰則付きの時間外労働の上限規則が適用され、私の勤務する公益財団法人の事業団にも同様の規制が適用されている。また、中小企業においては来年4月から適用されることになっている。しかし、公立学校はそこには含まれていない。それは、公立学校の教員の時間外勤務が原則、勤務として認められていない「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(略して、「給特法」)の存在があるからである。では、この「給特法」とはどのような法律であり、その下で現在行われている公立学校の教員の「働き方改革」の中身とは一体どのようなものなのだろうか?

 

 そこで今回は、『みらいの教育―学校現場をブラックからワクワクへ変える―』(内田良・苫野一徳著)を参考にして、「給特法」の規定内容やその下での公立学校の教員の「働き方改革」の中身について、私なりに調べたり考えたりしたことをまとめてみたい。

 

 まず、公立学校の教員の時間外勤務に関する事項を規定している「給特法」とは、どのような法律なのかについて簡単にまとめておく。

 

   「給特法」は、「公立の義務教育諸学校等(学校教育法に規定する公立の小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校または幼稚園)の教育職員の職務と勤務様態の特殊性に基づき、その給与その他の勤務条件について特例を定める」(第1条)ために、1971年5月に制定された。そしてその第3条では、「給料月額の百分の四に相当する額を基準として、条例で定めるところにより、教職調整額を支給しなければならない」(第1項)と定められている。他方で、4%の教職調整額を支給する代わりに、「時間外勤務手当及び休日勤務手当は、支給しない」(第2項)ことが明記されている。つまり、残業代は支給しないけれども、給料月額の4%をあらかじめ支給するという規定である。ただし、例外的な時間外勤務に関して、「校外学習その他生徒の実習に関する業務」「修学旅行その他の学校の行事に関する業務」「職員会議に関する業務」「非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合その他やむを得ない場合に必要な業務」の4項目(「超勤4項目」あるいは「限定4項目」という。)を政令で定めている。

 

 なお、「教職調整額」における給料月額の4%分というのは、1966年度に文部省(現文部科学省)が実施した「教員勤務状況調査」において1週間における時間外勤務の合計が、小中学校で平均1時間48分であったことから算出されたものであり、教職という仕事の特殊性に沿った合理的な仕組みであった。ところが、2016年度に実施された文部科学省の「教員勤務実態調査」の結果を見ると、小中学校の1週間における時間外勤務の合計は平均約20時間にもなり、多くの教員が「給特法」制定当時に比べると約10倍の時間外勤務を強いられている、「過労死ライン」を越える違法な勤務が常態化しているのである。このような実態そのものが大問題だが、その上に「教職調整額」はその対価としては全く不十分である点について一般国民の多くは知らないのではないだろうか。

 

 以上のような現状を踏まえて、文部科学大臣中央教育審議会に対して「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」諮問した。そして、中央教育審議会は審議を重ね、その成果を整理しまとめた答申を平成31年1月25日に文部科学大臣へ提出した。

 

 本答申の「第6章 教師の勤務の在り方を踏まえた勤務時間制度の改革」において、「給特法の今後の在り方」について言及している。その概要は、次の通りである。

○ 勤務時間の上限ガイドラインにおいて、「超勤4項目」以外の業務のための時間についても勤務時間管理の対象とし、その縮減を図ることが必要。

○ 専門職としての専門性とも言える教師の職務の特徴を踏まえた検討が必要。

○ 「給特法」を見直して「労基法」を原則とすべきという意見に対して、教育の成果は必ずしも勤務時間の長さのみに基づくものではなく、「人確法」も含めた教師の給与制度も考慮した場合、必ずしも教師の処遇改善にはつながらないと懸念。

○ 「超勤4項目」の廃止や「36協定」(時間外労働に関する労使協定。労働基準法36条に基づき、会社は法定労働時間〈主な場合、1日8時間、週40時間〉を超える時間外労働を命じる場合、労組などと書面による協定を結び、労働基準監督署に届け出ることが義務づけられている。違反すれば6カ月以下の懲役または30万円以下の罰金。)を要することは、現状を追認する結果になり、働き方の改善につながらない、また、学校において現実的に対応可能ではない。

◎ したがって、「給特法」の基本的な枠組みを前提に、「働き方改革」を確実に実施する仕組みを確立し成果を出すことが求められる。

※ なお、教職調整額が4%とされていることについては、在校等時間縮減のための施策を総合的に実施することを優先すべきであり、必要に応じ中長期的な課題として検討すべき。

 

 次に、具体的に現在行われている公立学校の教員の「働き方改革」の中身についてまとめておきたい。本答申の「第3章」~「第5章」においてその施策内容が示されているので、次に幾つか挙げておこう。

○ 校長がICTやタイムカードなどにより教員の勤務時間を客観的に把握し、その管理を徹底すること。

○ 「労働安全衛生法」に義務付けられた労働安全衛生管理体制を整備すること。

○ 教職員一人一人の働き方に関する意識を改革すること。

○ 学校及び教師が担う業務の明確化・適性化を図ること。特に学校において、教職員間で削減する業務を洗い出し、校長が自ら権限と責任で必ずしも適切とはいえない又は本来は家庭や地域社会が担うべき業務を大胆に削減すること。

○ 学校が組織として効果的に運営されるような体制づくりをすること。

 

 最後に、私なりの考えを簡潔にまとめてみたい。上述したように、公立学校の教員の時間外勤務について給料月額の4%に当たる「教職調整額」を支給するだけの、言い換えれば「定額働かせ放題」を容認している「給特法」の改正を見送って、教員の「働き方改革」の中身を各都道府県及び市町の教育委員会や各学校現場へ丸投げしているような文部科学省の施策は、本当に「過労死ライン」を超えて働いている教員を何とか救いたいという強いメッセージ性をもつものではないと考える。もちろん学校現場において時間外勤務を縮減するための具体的な手立てや取組等を実行することは必要である。しかし、実際には新学習指導要領の全面実施を目前にしている小学校教員の場合、新たに導入される「外国語(英語)科」「特別の教科 道徳」「プログラミング教育」等に取り組むための準備事務や研修等という業務が増えており、教員の業務量削減という「働き方改革」は“絵に描いた餅”になるおそれが十分に推察される。そこで、私は今の教育予算の枠を超えた多くの教員を学校現場に配置したり、学校が抱えている業務内容の中で可能なものをアウトソーシングしたりするように、その予算をもっと増額すべきだと考える。せめて先進諸国のGDPに対する教育予算比率並みに増やしてほしいものである。そうすれば、結果的に一人一人の教員の業務量が削減されることになるであろう。

 

    教員の「働き方改革」の成果は、必ず子どもたちの教育の質の向上に繋がる。「教育は国家百年の大計」という言葉に相応しい「給特法」の改正とそれに即応した教育行政を!!

身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソード(2)~福田ますみ著『モンスターマザー―長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い―』を読んで回想する~

 前回の記事では、私が市内のある中学校に校長として在任していた当時の、身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソードについて回想したことを綴った。そして、最後の一文には「もう二度とあのような経験はしたくないというのが本音である。」と記した。ところが、実際はその後「もう一度」似たような事件に出会ってしまったのである。それは、教職生活最後の勤務校となった市内のある小学校で遭遇した出来事である。

 

 そこで今回も、本当は思い出したくもない回想ではあるが、読者の皆様に何らかの参考になるかもしれないと思い、身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソード(2)として、守秘義務違反にならない範囲でその出来事の概要を述べつつ当時の私の胸中を少しだけ明かしてみたい。

 

 事件の発端は、小学5年生のある女児の母親が対外的な業務を担当するPTA役員になり、その業務を円滑に遂行することができないような情況になったために、PTA役員を解任されるという事態に至ったことからである。役員を解任された母親は、その恨みからか他のPTA役員の自宅に様々なクレームの電話を掛け、時には相手の子どもの安否を気遣うようなことを仄めかしながら恫喝するようなことまでしたらしい。さらに、その矛先を学校のPTA事務担当者や教頭、そして校長の私にまで向け始め、電話口であることないことを論い悪口雑言の限りを尽くすようになったのである。ある時には職員室において興奮のあまり暴れるという事態になったこともあった。

 

 その後、この事態はさらに悪化を辿った。5年生の女児を学校に登校させないで、「娘は学校でいじめにあったので、不登校になった。学校はいじめ問題があることを隠蔽しようとしているのか。早急に解決しろ。」という無理難題を、学校へ突き付けてきたのである。私はそのクレームが最初に来た時に、教頭に対して娘が不登校に至った経緯及びその際に学校側として対応した内容等、事実関係を正確に把握して報告するように指示した。その結果、いじめと認定されるような事実はないこと、娘が不登校傾向になった際に学級担任や学年主任から再三、家庭訪問を要請したにもかかわらず母親から拒否され、電話か郵便での連絡を希望されていたことなど、明らかに母親の都合によって娘を登校させないようにしている事実をはっきりと掴んだ。そこで、私は父親の方へ面談したい旨の連絡を取った。そして、実現した面談時には今までの経緯及び現状について父親と共通理解を図り、今後の母親と娘への対応策についても相談することができた。その面談中に、父親は家庭環境や親戚等との関係等の実情についても正直に話してくれたので、私と父親との信頼関係は深くなった。この点、暗闇の中に一点の光明を見出した思いだった。しかし、その後の展開も決して一筋縄では上手く行かず右往左往の連続だったが、何とか年度末には事態が収束する方向性が見えてきた。5年生の娘は6年生に進級したら必ず登校すると約束してくれ、母親からは私へ和解の意志を示すような対応があったのである。私はその年度末で定年退職することになっていたので、その後の対応については教頭を介して次に着任する校長にお願いすることになった。

 

 年度が改まり、私は現在の職場に就職することになった。ただ、この事件に関するその後の推移については気がかりだったので、5月下旬になってから他の所用も兼ねて同小学校の校長室を訪問した。その際、後任の校長から「娘さんは6年生に進級して、何事もなかったように登校していますよ。新しい学級にもすぐに慣れて学習に対して前向きに取り組んでいるし、友達とも仲良く交流している様子です。修学旅行も楽しく行ってきました。また、母親からも今のところクレームらしいクレームは言ってきていません。」という話を聞いて、私は胸の中に引っ掛かっていた塊が氷解する思いだった。娘はやや自己本位的な言動が見られる傾向はあったが、もともと大変明るい性格だったので、本来の姿を示し始めたのであろう。私は、「やはりあの時は母親の手前、学校を休まざるを得なかったのだろう。」と、妙に納得することができた。

 

 1990年代後半頃から「モンスターペアレント」という用語が流布されるぐらい、学校に対して自己中心的で理不尽な要求をする親が増える事例が多くなった。学校はそれに対して自己防衛的な対応をせざるを得ないことになり、正常な教育活動の妨げになることが起きるようになった。中には、そのクレーム対応に追われて、精神的な疾患に罹る教員まで出るようになった。たった一人でもそのような親が出現すると、本当に学校の機能がマヒしそうになるのである。また、この事態は校長にとって学校経営や教員組織等のマネジメント上、看過できない大きな課題になり、そのよりよい解決を図るための具体的な手立てや態勢づくりに奔走することで過度のストレスを受けることになる。ただし、私の場合は学校管理者としての使命感や矜持を見失わなかったこと、また信頼できる方々や人生・生き方の糧になる良書等から多くの教訓を学んだことによって、何とかそのような事態から無事に脱することができた。今更ながら、本当に幸運なことであったと思う。

 

 最後に、次のことは学校や教員に対して申し上げたい。私のTwitterのタイムライン上には、保護者であろう方からの教員への非難的なツイートが散見される。学校や教員の在り方に対する正当な非難や要望等については、学校側は謙虚に耳を傾け、指摘された課題が的を得たものであれば、その課題をよりよく解決するために誠心誠意の対応をすることは言うまでもない。学校側が自己中心的な言い分や論理を通すために、真っ当な保護者の非難や要望等を無視したり軽視したりすることは許されない。つまり、学校や教員が使命感に燃えつつも、子どもや保護者の立場や気持ちを尊重した教育活動を展開することが大前提である。その上で、誰が見ても「モンスターペアレント」であると認定できる保護者に対しては、断固として毅然とした対応をすることが大切なのだということを再確認して、今回はそろそろ筆を擱きたい。

身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソード(1)~福田ますみ著『モンスターマザー―長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い―』を読んで回想する~

    先月26日(水)と27日(木)の両日、教職員共済生活協同組合・定期総代会へ出席するため東京に出張した。その際に宿泊したホテル近くのブックオフで『モンスターマザー―長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い―』(福田ますみ著)という文庫本を購入した。本書は、前作の『でっちあげ―福岡「殺人教師」事件の真相―』と似た構図をもつノンフィクションである。そもそも私が今回、本書を購入した動機も、この前作を読んでいたことが大きく作用している。

 

 そこで、まず前作を読んだ当時に綴った読後所感の一部を紹介しておく。

 

    …(略)本書は、2003年に福岡市内の公立小学校の教師が、自分の担任するクラスの児童の親から、子どもが体罰をされたとか差別発言によってPTSDにされたなどと訴えられ、教育委員会から停職6か月の懲戒処分をうけた上、民事裁判の被告にもなったという事件(俗に言う福岡「殺人教師」事件)の真相について、福田氏自らの取材に基づいて詳細に論じている。結果的に言えば、何とこの事件は児童の両親による全くの「でっちあげ」だったのである。本書のあとがきで福田氏は、「校長や教育委員会が、実にあっさりと教師によるいじめを認定しているのだ。だがこれは、保護者やマスコミに必要以上に迎合した末の、逆の意味での真実の隠蔽である。」と言っている。私は校長として、この事件に関与した校長の対応を反面教師としてとらえることが大切だと思った。この事件の場合は、校長が自己保身を優先させて、“子どもという聖域”を盾に理不尽な要求をする保護者の言い分ばかりを聞き、当該教師の言い分に十分耳を貸さず、事態を穏便に解決しようとしたことにも大きな問題があったのではないだろうか。(略)…

 

 当時、私は市内のある中学校の校長職にあり、しかも「モンスターペアレント」の保護者と格闘中だったこともあって、前作で描かれた驚愕の冤罪事件を「他山の石」として自戒を込めて受け止めたのである。だから、今回たまたまその同じ著者による、しかも前作と似た構図をもつ本書に強い関心をもち、当該事件の内容及び経緯等を詳しく知りたいと思った。購入したのは宿泊日の夕食前で、読み始めたのはホテルのベッドの中。ほぼ読み終えたのは、復路の飛行機の中であった。様々な思いが私の心の中に渦巻いたが、本書を読み終えた現在の所感内容の概要は、次の通りである。

 

 2005年に長野県の丸子実業高校(現、丸子修学館高校)の1年生の男子生徒が自殺し、遺族の母親は彼が所属していたバレー部の上級生からいじめを受けていたが、それを学校が隠蔽しようとしたと訴えた。さらに、校長が希死念慮のある生徒を無理やり登校させようとしたことが自殺の原因であるとして、校長を殺人罪で告訴した。…しかし、事実はその真逆であった。非力で弱者のはずの保護者が、ありもしないいじめを振りかざし、虚言を弄して学校や教師を攻め立て、冤罪の罠に嵌めたのであった。「教師によるいじめ」ではなく「教師へのいじめ」だったのである。本書は、この事件(長野・丸子実業「いじめ自殺事件」)の上述したような真相について、少年の友人、学校関係者、教育委員会児童相談所などを福田氏が徹底的に取材し、証言と事実を淡々と積み上げて書かれたノンフィクションであり、2016年2月に単行本として上梓された。本書は確かに前作と似た構造ではあるが、校長の在り方は全く違った対応であったと私は思う。前作の校長は所属教員を信頼せず自己保身を優先させた対応だったが、本書で取り上げられた丸子実業高校(当時)の太田真雄校長は所属教員を信頼し自らも信念に基づいた対応をされて冤罪を晴らされた。私は、太田校長に対して心から敬意と慰労の気持ちを表したい。

 

   さて、私は本書を読みながら、自分が中学校長の当時に同様のような事件が起こったことを回顧していた。それは、まさに身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソードである。退職後でも守秘義務があるので事件の詳細は明かせないが、可能な範囲でその概要を述べつつ当時の私の胸中の一部を明かしたいと思う。

 

 事件の発端は、私の勤務していた中学校の2年生のある女子生徒が、数学科の授業中に少し騒いでいた友達にきつい言い方で注意をした際に、周りの友達から「その注意の仕方は、ちょっと酷いのではないか。」と反論され、その後の休憩時間に校内の公衆電話から母親へそのことを告げたことから始まった。娘からの電話を「友達にいじめられたので、助けてほしい。」というSOSだと受け止めた母親は、すぐさま来校して当該教室に出向き、そこにいた級友全員に向けて「娘をいじめた奴は出でこい!」と恫喝し、その集団に向けてチョークを投げつけるという事態を引き起こした。その時は、授業担当者が母親をなだめ、事情をじっくりと聞くという対応をしてくれたお陰で何んとか事無きを得た。しかし、その後母親から学校に対して様々なクレームや無理難題の要求が続いた。…「英語科の授業担当者から娘が差別的な扱いを受けた。」「娘が不登校になったのは、クラスの中でのいじめが原因である。」「進学を控えて学校の責任で娘は不登校になったのだから、個別授業を受ける権利を保証しろ。」「修学旅行中にグループの友達から暴行を受けたので、医師に診断書を書いてもらい傷害罪で警察に被害届を出す。」「加害生徒及び校長は、謝罪文を書け。」等々…。そのほとんどはありもしない証拠に基づく虚言である。しかし、私は校長として不登校中の娘が登校できるような環境づくりを最優先して、その解決をよりよく図るべく誠心誠意の対応を心掛けた。何度も何度も校長室で娘の母親と祖母と話し合い、問題解決の出口がなかなか見えない時間を根気強く費やした。にもかかわらず、県教育委員会文部科学省まで苦情電話を掛けまくる有り様。私は本当に精神的に追い込まれうつ症状を呈するような情況になったこともあった。ただ、私は福田氏の前作を読んでから、校長として生徒の学習権を最大限保障するともともに、所属職員からの信頼感を損なわないような真摯な対応をしようと肝に銘じて、上述の困難な事態を何とか乗り切った。そのような対応ができたのは、私に対する市教育長や市教育委員会の全面的な信頼があったり、所属職員やPTA役員の心強い応援があったり、家族の温かい支えがあったりしたお陰であったと今でも心から感謝をしている。

 

 それにしても、世の中には常識では考えられないような性格をもつ人や、周りの人のことを全く考慮しない異常な言動を取る人がいるのである。それがたまたま児童・生徒の保護者であった場合に、福田氏のノンフィクションのような事件や私が遭遇したような事件を惹き起こすのである。私は本書を読みながら、身近なところにいた「モンスターペアレント」との格闘エピソードを、胃酸がのどまで逆流するような苦さを心の中で味わいながら思い出してしまった。もう二度とあのような経験はしたくないというのが本音である。

ブログも“双方向性”のコミュニケーション機能を活かせないかな…~当ブログ記事投稿数100回を突破しての期待と願望~

   昨年12月から当ブログを始めて7か月、前回の記事でやっと投稿数が100回に達した。前半の50回に達したのは約2か月半経った頃だったが、後半の50回ではその約2倍弱の時間を要したことになる。これらの理由は、本年2月11日付けの記事「ここらで一休み、一休み!…~当ブログの運営方針についての見直し~」にも記したが、前半の記事の多くはそれまで書き貯めていた文章を再構成したものだったので、特に当初の2か月の投稿数が月間20回を越えていたからである。それに対して、後半の記事は自分なりにその時々の課題意識をじっくりと醸成し内容の充実を図った結果、投稿ペースが落ちここ数カ月は月間6~10回の投稿数になったからである。したがって、現在の投稿ペースが本来のものであるから、これからも同様のペースで投稿するつもりなので、よろしくお付き合いいただきたい。

 

 次に、100回までのカテゴリー別の投稿数の傾向も見てみよう。当ブログの記事のカテゴリーは、「健康・スポーツ」「教育・子育て」「人生・生き方」の3つに絞っているが、今までのカテゴリー別の投稿数(重複あり)を見ると、「健康・スポーツ」が58回、「教育・子育て」が37回、「人生・生き方」が36回となっている。前半に比べると後半になって、「教育・子育て」と「人生・生き方」の投稿数が増えてきている。この要因は、前述した記事にも記した通り、私なりの思いや願いの表れである。これからも同様な傾向は続くと思うので、読者の方々にはこの点もご承知おきいただければ幸いである。

 

 ところで、私は今のところブログやLINE、Twitterを活用しているが、実は最近までブログもLINEやTwitterと同様なSNSの一種類という認識だった。しかし、この頃やっと「ブログとSNSは、その特徴や特性が違うような気がする。基本的にどこが違うのだろうか?」という疑問を抱くようになった。そこで、今回はブログとSNSの特徴や特性の違いについて私なりに調べたことをまとめるとともに、当ブログ記事投稿数100回を突破しての期待と願望について綴ってみたい。

 

 まず、ブログとSNSの特徴や特性の違いについて。ブログは、ウェブログWeblog)の略であり、ウェブサイトに記録(log)するメディアである。つまり、ブログは「情報発信」の色が濃く、情報量も多い特徴をもっている。それに対して、SNSは、Social Networking Service の略であり、人と人とをつなぎ、“双方向性”の会話を楽しむためのメディアである。つまり、知り合いや友達と会話に近いコミュニケーションができるという特徴をもっている。

 

    次に、以上のような特徴の違いからそれぞれの特性を簡単に表せば、ブログは「ストック型のメディア」であり、SNSは「フロー型のメディア」であるということになる。少し実際的な側面について説明すればこうなる。ブログに関しては、投稿した記事は基本的にWeb上にずっと残り続け、検索エンジンにヒットするために過去に書いた記事であっても需要のある記事であれば何度も読み返されることがある。このようにブログは、記事の数を積み重ねていけば、資産となっていくメディアである。それに対して、SNSに関しては、投稿した記事は時間の経過と共にフィードの下へ下へと流れていき、いつかその記事はフィード上から姿を消してしまい、検索エンジンからアクセスすることはできない。ただし、SNSは一瞬の拡散力が強力なメディアである。

 

    したがって、これら二つのメディアの特徴や特性を活かした活用法を工夫することが大切なのである。具体的には、ブログでは読者の多様なニーズに応じた良質の記事を積み上げて検索アクセスを増やす工夫をすること。また、LINEやTwitterではよりよいコミュニケーションを構築しつつ相手との関係性を深めたり、口コミ(拡散)を起こしてアクセスを増やしたりする工夫をすることなどである。しかし、私はそれだけでは少し物足りないなあと感じている。

 

    そこで、当ブログ記事投稿数100回を突破して、私は次のような期待と願望をもっている。それは、ブログのもつ特徴や特性を大切にしながらも、SNSのもつ特徴や特性の一部も取り入れていくというものである。簡単に言えば、ブログにも“双方向性”のコミュニケーション機能を活かすことはできないかということ。具体的には、閲覧者の方に当ブログの記事の後に位置付けられている「コメントを書く」の機能を活用してもらって、私の記事に対する賛否の感想や意見などを書いて送信してもう。私はその内容が理不尽な非難や暴言を含む内容でなく、建設的な批判や提言を含む内容であれば、真摯に受け止めてその回答を含めた記事をなるべく迅速に投稿するという“双方向的な”コミュニケーションを行いたいのである。もちろん1回だけの“双方向性”で終わる場合も多いと思うが、それでもしないよりも双方にとって有益な言語活動になるのではないだろうか。もしそれでもよいと納得された方は、今まで或いはこれからの記事に対してぜひ「コメントを書く」の機能を活用して感想や意見などを送信していただきたいと願っている。よろしくネ…。

「がんもどき理論」や「がん放置療法」を提唱する「近藤誠理論」は間違っている?!~勝俣範之著『医療否定本の嘘』を参考にして考える~

   本ブログの本年1月26日付けの記事の中で、中村仁一、近藤誠著『どうせ死ぬなら「がん」がいい』の内容の一部を紹介した。その後、著者の一人である近藤氏の著書『がん放置療法のすすめ~患者150人の証言~』を読む機会があった。その中で著者は、全てのがんは「本物のがん」か「がんもどき」のどちらかに属し、「本物」は初発がん発見のはるか前に転移しており、他方、がん発見当時に転移がない「もどき」は放置しても初発巣から転移が生じないことが確認できたと述べている。したがって、著者によればいずれの場合でも治療をすることは意味がないという結論に至るのである。これが近藤医師の提唱している「がんもどき理論」の骨子であり、「がん放置療法」の基本である。

 

 これに対して、「ミリオンセラー近藤本に騙されないがん治療の真実」というサブテーマを掲げた『医療否定本の嘘』の中で、著者の勝俣範之氏は次のような見解を示している。「近藤医師はがん医療の問題点を浮き彫りにしたことは評価できますが、すべてを否定してしまったために、かえって患者さんを惑わせ、現場にいっそう混乱をもたらしたことは、大きな問題であると思います。また、しっかりとした治療をおこなえば治っていたであろう早期がんを『放置』することによって、進行がんになり、命を落とすという犠牲者まで出ています。」がん患者にとって「近藤誠理論」はマイナスに作用する面もあるというのを知り、私は改めて再考する必要を感じた。

 

 そこで今回は、「がんもどき理論」や「がん放置療法」を提唱する「近藤誠理論」は間違っているのかどうかを、本書で述べられている勝俣医師の見解をもう少し詳しく紹介しながら検討してみたい。

 

 まず、「がんもどき理論」の嘘について。「がんもどき理論」の問題点の一つは、「がんもどき」に相当する「放っておいても進行しないがん」を最初から見分けることができないということだと彼は述べている。また、もう一つの問題点は、「放っておいたら進行して、いずれは命を奪ってしまうけれど、積極的治療によって治るがん、延命・共存できるがん」がすっぽり抜けていること。つまり、近藤医師はすべてのがんを「本物のがん」と「がんもどき」の2つに分けているが、実際には少なくとも次の4種類に分けられると言っている。①放っておいても進行しないがん ②放っておいたら進行していずれは死に至るけれど、積極的治療で治るがん ③積極的治療を行っても治癒は難しいけれど、治療で延命・共存できるがん ④積極的治療を行っても、治癒も延命・共存もできないがん 「がんもどき理論」では、真ん中の2つ(②と③)がすっぽり抜け落ちているため、治療が全否定されているわけである。それは、積極的治療で治るはずのがん、延命・共存できるはずのがんをみすみす見逃してしまうことになるので、大きな間違いだと主張している。実際に、少数ではあるが、がんが転移しても、なかには積極的治療によってがんが治る人もいるとのこと。どうも「がんもどき理論」は主張点を強調するためか極論的なものになっているのではないだろうか。

 

 次に、「がん放置療法」の嘘について。「がん放置療法」は、過剰な医療は避けるべきだという警告であるなら、その点は評価できると彼は述べている。しかし、近藤医師は自説に誘導するために一部の正しいことを極端に誇張しているところが問題なのだとも言っている。そして、がんが治る可能性が高いのにもかかわらず、積極的治療を勧めずに「放置が一番」と言うことは、医学的にも科学的にも倫理的にも大問題だとも批判している。また、実例の中で近藤医師の「放置療法」の説明の仕方は、とても適切な説明がなされたとは言い難いそうである。「治療をしても無駄」「放置しなさい」と一方的に自説のみを強調するのは、適切なインフォームド・コンセントとは言えないのである。さらに、「放置療法」は「研究的治療」として第三者の倫理委員会に治療計画を提出し許可を得るべきだが、それをせずに患者さんに研究的治療を行っているのだから、「人体実験」をしているようなものであるとも厳しく糾弾している。

 

 標準的にがんの積極的治療は、手術・放射線抗がん剤のがんの三大療法を適切に組み合わせながら行っている。また、がんの治療法を決める際には、疾患側の要素(がんの発生部位、ステージ、組織型、遺伝子発現型など)と、個々の患者さんの要素(年齢、合併症、家族歴、既往歴、全身状態など)に分けて考えている。そして、がん専門医院ではキャンサーボード(外科医や腫瘍内科医、放射線治療医などの専門家が集まって、がん患者さんの治療方針を決定していくカンファレンスのこと)を月1回以上開催することが必須になっており、そこで患者さん側の要素も考慮に入れて詳細に治療方針が決定されることにより、患者さんに最適ながん治療の方針が立てられることになっている。彼はその過程でもっとも大切なことは、患者さん個々の価値観や想い、希望を尊重していくことだと強調している。

 

 最後に、彼はステージ4の胃がんでも、積極的に治療することにより7.5%の治療成績が得られているエビデンスを示して、転移性のあるがんでも治るがんがあることを「がんもどき理論」や「がん放置療法」ではまったく説明できないと指摘している。さらに、近藤医師を信じて標準的治療をすべて拒否し、元の主治医を離れていった後、インチキな免疫療法などにつかまって、十分な緩和ケアを受けることもなく亡くなった患者さんがいることが一番残念で悲劇だとも主張している。

 

 私は、以上のような内容が本書によって分かったので、「がんもどき理論」や「がん放置療法」を提唱する「近藤誠理論」を金科玉条のようにとらえる愚かさを知ることができた。また、自分がともすると弱者や敗者の気持ちや立場に立ったつもりで絶対正義を守ろうとする感情論に流れて、一見正論のような見解を鵜呑みにして絶対化してしまう傾向があることも再認識した。何事もおいても一つの見解を絶対視せず、「相対」的な見方や「中庸」的な態度を保持しつつ思索を深めることが肝要なのである。本書は、私によい学びの機会を与えてくれた。感謝、感謝!

 

 追伸;今回の学びをきっかけにして、『長尾先生、「近藤誠理論」のどこが間違っているのですか?~絶対に後悔しないがん治療~』(長尾和宏著)も読んでみた。本書は、「近藤誠理論」を信奉するフリーライターが長尾氏にインタビューをするという構成で、「近藤誠理論」も「現代の医療界」にもそれぞれ問題点があると指摘する町医者による、主治医に訊けない“絶対患者目線”のがん治療論になっている。各論点について「中庸」の立場で冷静に検証しているので、大変学ぶべき点が多かった。

接続詞の使い方って、簡単そうで実は難しいのだ!~石黒圭著『文章は接続詞で決まる』から学ぶ~

   本ブログの記事を綴る時にいつも私が願っているのは、「読者にとって役に立つ知識を分かりやすく、しかも印象に残るような文章を書きたい。」ということである。そのためには、まずは雑学的な知識とは言えその内容を正確に理解し、それをできるだけ平易な文に表しながら文章全体を構成することが大切になる。また、文と文、段落と段落をいかに円滑に繋いでいくかということも大切である。つまり、それらは接続詞を効果的に使用して、文章を分かりやすく読みやすいものにすることなのである。

 

 そこで、私は地元大学の看護科の学生に特別講義「役に立つ読解力を身に付けよう」を行うための教材研究を兼ねて、接続詞について少しは勉強しようと思い立ち、『文章は接続詞で決まる』(石黒圭著)という新書を購入して読んだのである。本書は、文学博士で文章論を専門にしている石黒氏が、読者に接続詞の全体像を正しく把握してもらうとともに、実際の文章を書くときに役立つ接続詞使用の勘どころについて身に付けてもらおうと執筆したもので、次のような三部構成になっている。一部(第1章~第2章)は、接続詞の定義や役割について検討している総論。二部(第3章~第8章)は、接続詞全体を「論理の接続詞」「整理の接続詞」「理解の接続詞」「展開の接続詞」「文末の接続詞」に分け、個々の接続詞の用法や使用の際のポイントについて説明している各論。三部(第9章~第11章)は、どんな文章にどんな接続詞をつけたら読みやすいか、読み手の印象に残るかといったことを具体的に検討している実践編。

 

   そこで今回は、私が本書から学んだことの中で特に心に残った内容の概要を紹介したいと思う。

 

    まず、接続詞の定義について。著者によると、接続詞は専門的にはかなり曖昧な位置にある品詞であるらしい。そもそも接続詞という品詞を認めない立場もあり、接続詞を認める立場であっても、副詞や指示詞、接続助詞との境界線が問題になると言う。そのため、日本語学の世界では「接続表現」という言葉で一括するのが一般的になっているが、多く人にはなじみがないので本書では「接続詞」という名称で扱うと断っている。そして、以上の内容を踏まえて、接続詞の定義を「接続詞は、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である。」としている。私は、この定義は素人でもよく分かる的確なものだと感心した。

 

    次に、接続詞の役割について。著者は、「接続詞は書き手のものでもあり、読み手のものでもある。」と言う。書き手のものの側面としては、接続詞は複雑な内容を整理し、書き手があらかじめ立てた計画に沿って確実に文章を展開させたいときに力を発揮する。また、読み手のものの側面としては、接続詞が読み手の理解のために果たしている多様な機能を挙げている。それは、「連接関係を表示する機能」「文脈のつながりをなめらかにする機能」「重要な情報に焦点を絞る機能」「読み手に含意を読みとらせる機能」「接続の範囲を指定する機能」「文章の構造を整理する機能」の六つである。本書では、六つの機能についても詳しく論じてあり、読んでいて「なるほど!」と納得することが多かった。

 

 最後に、接続詞の特別なものである「文末の接続詞」について。著者は、接続詞全体を四種十類のタイプに分け、各タイプ別の用法や使用の際のポイントを詳説しているが、特別なものの一つとして「文末の接続詞」を取り上げている。私は最初、「文以上の単位を結ぶ接続詞って、普通は文頭にあるのではないの?」と疑問に思った。しかし、著者の「理論的な観点からは、ある種の文末表現が接続詞と共通する機能を果たしている場合(「文末接続詞」と呼ぶ)は、接続詞に準じて扱った方がその位置付けが明確になる。また、実用的な観点からも、実際に文章を書くときに役に立つ。」という主張に納得することができた。本書では、「文末接続詞」の否定の具体例として「のではない」系や「だけではない」系、疑問の具体例として「か」、説明の具体例として「のだ」系や「からだ」系、意見の具体例として「と思われる」系や「のではないか」系・「必要がある」系などの役割を説明していて、私にとって大変参考になるものになった。日本語には文末にも接続詞に相当する表現があることを頭に入れ、文頭の接続詞だけでなく、文末表現にも強くなっていきたいものだ。

 

 私は今までも文章を書く際には文脈の展開を意識しながら、自分なりに適切だと思った接続詞を使用してきたが、本書を読んで改めて接続詞について勉強してみて「接続詞の使い方って、簡単そうで実は難しいのだ!」ということを痛感した。今回学んだことを本ブログの記事を綴る際にも、できるだけ活かしていくつもりである。できるだけ…ネ。