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文化政治としての哲学と「感情教育」による「連帯」の可能性について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ③~

 今回は、いよいよ『偶然性・アイロニー・連帯』の3つ目のキーコンセプトである「連帯」について取り上げる。2月のEテレ「100分de名著」の放送やテキストでは2回分の内容になるので、講師の朱氏の解説を要約するためには、なりの力技が必要になる。私の力量では大変困難な作業になり、文脈が整わない記事になりそうなので、この点について読者の皆様には寛容な気持ちで受け止めて、各自で行間を埋めつつ読んでいただけたら幸いである。

 

 前回、確認した「人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリー」という本書の中心的なテーゼは、ことばづかいが変われば人間も変わるし、社会も変わるということを意味していた。これをローティはのちに、「文化政治しての哲学」と呼ぶようになった。そして、文化政治を実践することが、真理の探究を放棄したあとの哲学の使命だと考えていた。しかし、この文化政治の実践は、単に理想的なユートピアを現出するものだけでなく、リベラリズムが最も避けるべきとする「残酷さ」と結びつくこともあると語っている。

 

 このことに関連して、ローティは「再記述はしばしば屈辱を与える」と言っている。また、虐殺における言語の働きについての講演では、「人権という概念は実は紛争の抑止や解決に役立っていない。」とも言っている。その理由は、人権が本質だととらえるとそもそも相手が私たちと同じ人間だという感覚がない場合は、それは全体において機能しないことになり、またその立場を採ることによって非-人間とされた者に対する残酷さは一層増してしまうからである。彼は、このような事態を惹き起こさないためには、「人権基礎づけ主義」や「人権本質主義」を批判し、基礎や本質を求める姿勢を放棄することが必要であり、それこそがリベラル・アイロニストのあり方だと説いている。

 

 ここからローティは、リベラル・アイロニストにとって重要なのは実は哲学ではなく、文学やジャーナリズムなのだという、あっと驚くような主張を展開する。一般に哲学は公共的な正義に、文学は私的な関心に関わっていると考えられるが、リベラル・アイロニストの文化ではそれが入れ替わると言う。哲学が本質主義を取ることはもはやできないからこそ、小説やエスノグラフィが他者の苦痛に対する感性を高めるという公共的な目標のために役立つ。そして、小さな共感や、一人一人個別の人間に対しての同情やシンパシーといったものを手がかりにして「連帯」をつくっていかざるを得ないと言うのである。

 

 では、基礎や本質という話を抜きにして、どうやって「連帯」の可能性を探っていけばいいのか。私たちはどうすれば「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのか。ローティは上述したように、その手がかりをフィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムに求めたのである。そして、理論ではなく、感情に訴える文芸や報道になしえるものをのちに「感情教育」と呼び、その教育は様々な種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人間と考える傾向に歯止めをかけることができると説いたのである。共感によって「われわれを拡張せよ!」これが彼の考える希望としての感情教育である。

 

 ローティは、本書の第Ⅲ部「残酷さと連帯」において、ウラジミール・ナボコフ著『ロリータ』とジョージ・オーウェル著『1984年』という2つの小説を取り上げて、その詳しい読み解きを披露しながら、フィクションは残酷さに直面した被害者への共感のみならず、「われわれは加害者にもなりうる」ことへの想像力の醸成にも役立ち、「われわれ」を拡張してくれると述べている。彼の言う「連帯」とは、この「われわれの拡張」のことなのである。

 

 「連帯」は「人間らしさ」という本質を基礎として成り立つのではなく、「偶然性」のかたまりとして私たちがたまたま持つようになった終極の語彙によって感じられるものである。そして、その終極の語彙とは決して固定的なものではなく、他人の終極の語彙に触れたり、小説やルポタージュを読んだりすることによって再記述されうる、拡張しうるものなのである。

 

 本書の第Ⅲ部第9章には、「連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人権、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要でないとしだいに考えていく能力、私たちにとってはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えていく能力である。」と記載された一節がある。このような「連帯」は、実際は一歩一歩進むしかない慎重な歩みとなるであろう。しかし、伝統的な哲学が自明視した本質主義を棄却した以上、人々の「連帯」はまさにいまここにある小さな断片を手がかりにつくるしかない。

 

 「われわれ」を少しずつ拡張していくことによって、誰かを黙らせることを目指すのではなく、会話そのものを守っていく。ローティの主張は一貫していて、本書の3つのキーコンセプトである「偶然性」「アイロニー」「連帯」がすべてつながってくる。ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を再記述へと開くことを促すことにこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがある。・・・彼の旅路を振り返ったとき、その哲学は「文化政治」として、人類の会話を絶やさぬよう守るための道具立てを提供するものであり、それと同時に、私たちの「終極の語彙」を改訂に開くことの醍醐味と魅力を伝えて、絶えず再記述によって自己創造をし続けることのモチベーションもまた教えてくれる、そのような人生をかけた物語でもある。・・・朱氏のこのような結びの言葉が、私の胸の奥に深く刻まれた。