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「哲学が人類の会話を守る」というテーゼと「偶然性」について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ①~

 早いもので今年も3月に入ってしまったが、2月のEテレ「100分de名著」で取り上げられたのは、『偶然性・アイロニー・連帯』(リチャード・ローティ著)だった。私は大変興味があったので先月初旬にテキストを購入し、休日には4回分に構成された解説を予習的に読みながら、各回の放送録画をその都度視聴していった。久し振りに「100分de名著」の放送を活用して自ら学ぶ経験をしてみて、改めて本番組の面白さと醍醐味を味わった。講師の大阪大学招へい教員で哲学者の朱喜哲(ちゅ・ひちょる)氏の要領を得た分かりやすい解説と、司会者の一人タレントの伊集院光氏の相変わらずの的確で具体性に富む解釈によって、私の知的欲求は十分に満たされたのである。

 そこで今回から3回続けて、この充実した学びの中で特に私の心に印象深く残った内容の概要についてまとめてみたいと思う。1回目の今回は、本書の著者であるアメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931~2007)の哲学全体を貫くテーゼに触れた上で、本書のキーコンセプトである「偶然性」に関する内容を要約してみよう。

 

 ローティは、英米分析哲学言語哲学の系譜に属しているが、その中で最も異端視されている哲学者である。その理由は、彼自身初の単著『哲学と自然の鏡』において、それまで連綿と積み上げてきた伝統的な哲学や分析哲学言語哲学を全否定するような荒業をやってしまったからである。伝統的な哲学等の営みは「真理を探究すること」であり、それは最終的には真理に到達することを目指すものと言える。だから、探求が終わればそれ以上の議論や会話は不要になる。しかし、彼はそれでいいのか、哲学の使命はむしろそうした議論や会話を絶滅しないようにすることではないのかと考えて、「アンチ哲学」を唱えたのである。

 

 では、哲学は何をすべきだと彼は考えたのか。それを明らかにしたのが『偶然性・アイロニー・連帯』なのである。つまり、本書はデビュー作で放った問いに自らが答えてみせた実践の書なのである。本書の構成は、タイトルにある3つのキーコンセプトに対応しているが、それぞれの言葉は何を意味していて、なぜ私たちが議論や会話を続けるために必要なものだと言えるのか。指南役の朱氏は、それを4回にわたった放送で解説してくれている。この3つのキーコンセプトの主な意味内容とその必要性の根拠なるものについて、私は今回から3回に分けて朱氏の解説の要約をしてみたいと考えている。

 

 さて、第1回の今回は、1つ目のキーコンセプトである「偶然性」についての要約にチャレンジしてみよう。ローティが『哲学と自然の鏡』を通して提唱したのは、「歴史主義」である。「歴史主義」とは、世界に永遠不変の真理や究極の本質などというものはなく、それはその時々の言葉によって作られるものだという主張。このことを言い換えると、それは不変の真理によって基礎づけられた「必然」ではなく、「偶然性」によるということ。彼はデビュー作で、広い意味での私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)といったものが、歴史的な産物であるという意味において偶然的なものであり、私たちの自己のありようもまた偶然的なのだと論じたのである。

 

 本書の第Ⅰ部「偶然性」の第1章「言葉の偶然性」におけるローティの議論の要点は、私たちはボキャブラリーを媒介にして真理(必然)に近づくのではなく、ボキャブラリーを駆使し、ただ単に、それゆえ自由に、自分を「再記述」(抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の“襞”を増やしていくこと)するというもの。言葉を「減らす」方法ではなく、「増やしていく」方向に価値を見出すことが、言葉の偶然性を認めることであり、このことによって言葉を使って自由に自己創造ができるというポジティブな面も開かれていく。「偶然性」に彼が見出している可能性がここにあると言える。

 

 続く第2章「自己の偶然性」において彼は、「人が自分という存在の原因の根拠をしっかりと辿る唯一の方法は、自分の原因について物語を新しい言語で語ることなのだ」と述べている。そして、自己もまた偶然性のもとで形成されること、その自己を語る言葉も再記述されうる(偶然性を帯びている)ことを、フロイト精神分析の知見を取り上げながら論じている。

 

 そして彼は第3章「共同体の偶然性」へと議論を進める。彼は、道徳を人間に共通して備わる本質的なものとして考えるのではなく、それはあくまで特定の共同体における内輪の約束にすぎないと考える場合のみ、道徳性は維持されると語っている。彼の構想する「リベラルなユートピア」という社会の描像は、目的はバラバラで、「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる者たちがそれでも何とかやっていく社会であり、それを構成する市民に必要なのが「自己の偶然性」の認識なのである。お互いに偶然的な存在だからこそ、何かしら一緒にやっていく「連帯」の可能性が出てくるのである。しかし、彼は「偶然性」が「連帯」の契機になるには、「アイロニー」についての議論を経由することが不可欠だと言っている。

 

 次回は、この「アイロニー」というキーコンセプトについて朱氏の解説の要約をしてみようと思う。それまで、しばらくの時間の猶予を・・・。