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今こそ「訂正する力」を蘇らせよう!~東浩紀著『訂正する力』から学ぶ①~

 ずっと気になっていた本だった。それは、以前からその言論活動に注目していた評論家の東浩紀氏が上梓した朝日新書の『訂正する力』というタイトルの本。昨年の11月頃から職場近くのデパート内に入っている紀伊国屋書店に平積みしているのは知っていたが、あの東氏の本なので気後れしてしまい、いざ読んでみようと思い立つことができなかったのである。ところが、先日、市立中央図書館から借りた同氏の『ゆるく考える』というエッセイ集を拾い読みしていて急に現在の思想について知りたくなり、新刊本の一つである本書のことを思い出して入手したという次第である。

 

    本書の「はじめに」の冒頭において、筆者は日本にいま必要なのは「訂正する力」だと主張している。では、「訂正する力」とはどのような力なのか。それについては、「ものごとを前に進めるために、現在と過去をつなぎなおす力」「まちがいを認めて改めるという力」「リセットすることとぶれないことのあいだでバランスを取る力」「成熟する力」などと言い換えている。市井のリベラリストを自認する私は、この時点で「何だ、保守主義的な思想を表明した本なのか!」と早合点して、やや落胆した気分に陥ってしまった。

 

 ところが、気落ちしながらも読み進めていくと、哲学は「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えて、はじめて魅力的になるものであり、本書は第1章が時事篇、第2章が理論篇、第3章が実存篇、最後の第4章がいわば応用篇になっていると示していた。また、本書では「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像をどのようにアップデートすればよいかを提案していると綴っていたので、「待てよ。単なる保守主義的な思想ではなさそうだな。」と気持ちを新たにして、著者が主張している哲学・思想をしっかりと読んでみようと思ったのである。

 

 そこで今回は、本書の前半(第1~2章)の内容の中で私の心に深く刻み込まれたことを、各章の終わりの部分に位置付けている「本章のまとめ」を活用しながらまとめ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと考えている。

 

 まず一つ目は、今の日本で「訂正する力」が機能していない理由とそれを回復するための手立てについて。著者は、リベラル派と保守派の双方にいる「ぶれない」ことをアイデンティティにしている「訂正しない勢力」が、議論を硬直化させ社会の停滞を招いていると指摘している。そして、その背景には今の日本人が対話において信頼関係を築く訓練をしておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を抱えている実態がある。つまり、そのような社会全体を規定している「訂正できない土壌」があると言っている。それに対して、著者は日本には本来「訂正する力」の豊かな伝統があったことや、現在の動画配信などの新たな伝達手段も生まれていることなどによって、余剰の情報を提供することで「訂正する力」を新たに強める可能性を秘めていると希望的なことも述べている。

 

 また、「訂正できる土壌」をつくるために、小学校ぐらいから話合いの時間をつくり「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気付き自分の意見を変えていく、また他人の変化も認め合うという訓練を積み重ねるべきだと主張している。この点に関しては、現職中にこのような主旨を生かした授業改善を積極的に進めてその手応えを実感してきた経験が私にはあるので、この主張に全面的に賛成である。また、退職後もなるべく機会を生かして「哲学対話」の実践を試みようとしているのは、同様の主旨の具現化の営みである。私はこのような実践は、日本の民主主義がよりよく発展していくためのシチズンシップ教育の一環だと考えているので、今後もささやかな取り組みではあるが、続けていくつもりである。

 

 二つ目は、「訂正する力」の核心が「じつは・・・・・・だった」という過去の再発見の感覚にあるということについて。著者は、困難な課題を抱えて危機的な状況を迎えている日本の今後を見据えたとき、未来とつながる形で「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだと提案している。そして、この「じつは・・・・・・だった」という訂正の精神は、本質的には過去との連続性を大切にする保守主義に近いものであることを認めている。その根拠は、過去を全てリセットして新しい社会をつくろうとした今までの試みが歴史的に失敗しているからである。フランス革命然り、ロシア革命然りである。だから、社会は過去の記憶を訂正しながら、だましだまし(脱構築しつつ)改良していくしかない。人間や集団のアイデンティティは、じつは過去と現在をつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しないのである。

 

 このダイナミズムは、過去がリセットされる「反証可能性」の原理に基づく自然科学ではなく、過去が訂正される「訂正可能性」の原理に基づく新文学の役割に深く関係している。特に現代のようにあらゆるコンテンツが生成AIで作成可能になる時代には、「じつは・・・・・・だった」という発見の感覚で生み出され、「訂正する力」で支えられている<作家性>が重要になる。生成AIには<作家性>が欠けるからである。したがって、AI時代にあっても、「訂正する力」について考える人文学の意義は決して色褪せることなく、それどころか文化産業において「訂正する力」や「訂正の経験」そのものが商品化され、新たなビジネスに結びつく可能性も秘めているとも述べている。

 

 今、世界は切実な「分断」の危機が迫ってきている。また、生成AIの急激な進展によって、人類は「人間とは何か」という根源的な問いを突き付けられている。そのような時代だからこそ、人間固有の「生」を肯定的に生きるために、過去と現在をつなげる力、持続する力、聞く力、読み替える力、「正しさ」を変えていく力などとも言い換えることができる「訂正する力」が必要なのである。私は、著者のこのような考えを最初は保守主義的な思想ではないかと短絡的にとらえてしまいそうになったが、本書をじっくりと読み通した後には、それとは「似て非なるもの」だと認識を新たにすることができた。現在、第3章以降を再読しているところだが、その中で私の心に深く刻まれたことをまた、次回の記事で綴ってみたいと思っている。