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後悔しない、真っ当な人生の送り方とは?~勢古浩爾著『人生の正解』から学ぶ~

 前回の記事でとり上げた『ある男』(平野啓一郎著)の内容は、凄惨で不幸な自分の過去を捨てて、全く別人の人生を生き直そうとした「ある男」の身元調査の過程が謎解きになるという、ミステリー仕立てのストーリーだった。フィクションとは言え、「ある男」が置かれた情況が我が身に起こったとしたら耐えられないものだったので、「ある男」が止むを得ず選んだ行動には共感するところがあった。しかし、私たちは自分の人生がどんなに耐え難く悲惨なものであったとしても、その中で生きていくほかないのが現実であろう。だとしたら、自分なりに後悔しない、真っ当な人生を送るためには、どのような在り方をしていけばいいのだろうか。

 

 そのような問題意識をもちながら、私が最近読んだのが『人生の正解』(勢古浩爾著)という新書である。勢古氏の著書を当ブログで何度か取り上げるほど、私は彼の考え方には共感するところが多いのだが、それにしても今回の著書に何と大それたタイトルを付けたものである。そもそも人生に正解というものがあるのだろうか。何を基準にして正解を導き出すのだろうか。私は「誰もが納得するような、人生の正解なんてない!」と思いながらも、もしかしたら何らかの手掛かりが書かれているかもしれないと僅かな期待をもちつつ読み進めた。

 本書の「第3章 人生に無数の正解はある」の中で、著者は自分の好きな長谷川卓の時代小説『戻り川 夕凪』における高齢の主人公・三ツ森伝次郎が岡っ引き修業中の変わり種の若い娘に語る、次の言葉を引用している。

「人は上の者にばかり目を向けたがる。だが、俺は逆だと思っている。上には逆らってもいいが、下の者は大切にする。そういった生き方を通してきたつもりだ」

「損ではありませんか」

「損かも知れねえが、得をすることばかりを考える生き方よりはいい。得をしようとすると、心が汚れる」

 

 著者が言いたいのはこうだ。正しい人生とそうでない人生とを分けるのは、自分で決めた掟があるかどうかであり、その掟は自分が損することを課す。つまり、心が汚れることを防ぐために、損することを決して避けないのが正しい人生であるということ。しかし、このことが分からない人はざらにいるし、他人を止めることもできない。人は自分で自分を律するほかはないのである。反省することも、成長することも、何かを始めるのも、何かを止めるのも、自分で決めなければならないのである。私は、このような生き方を「正しい人生」というよりも、「美しい人生」と言いたい。人生には「正しさ」という基準よりも、「美しさ」という基準の方が合っていると思うからである。

 

 また、著者は同章の別の箇所で、「人生の正解」の条件は生きるスタイルでは決まらず、自分の意志で決める生きる上での規範(信条)に求めるしかないと言っている。そして、著者自身が考える「人生の正解」の条件として、次のような3つを挙げている。

① 対人関係において誠実であること。・・・人を大事にする、嘘をつかない、公正である、威張らない、損得で生きない、恥を知るなど、自我を制限すること。

② 仕事において力を尽くすこと。・・・手を抜かないというような究極の自己満足であること。

③ 自分に対して負けないこと。・・・運命に負けない、人に負けない、自分に負けない、お金に負けない、境遇に負けない、事件・事故・災害に負けないなど、耐えること。

私はこれらの3つの条件について、青年期まではなかなか実行できないこともあったが、壮年期から現在に掛けては自分なりに実行してきたという自負がある。もちろんこれは主観的なとらえ方であるが、私にとっての「美しい生き方」の条件だったから、著者の考えに強く共感する。

 

 さらに、本書の「第7章 生まれ変わっても、また自分になりたいか?」というタイトルを見た時に、「何度同じ人生を歩もうが、その人生をもう一度歩んでもよいと思えるよう生きることが重要である」と考えた、ニーチェの「永劫回帰」の思想を想起して嬉しく思った。私は30代の頃、ニーチェの哲学や思想に大きな影響を受けたので、この問いに対しては「生まれ変わっても、また自分になり、自分の歩んできた人生を繰り返したい。そのように思える生き方をこれからもしていきたい。」と答えたい。確かに今までの人生において失敗したり、間違ったりしたことは何度もあったが、その都度深く反省し、それ以後はその失敗や間違いを繰り返さないように自分なりによりよく生きてきたつもりである。だから、自分の人生を肯定したい。誰かが批判したとしても、自分だけは「そのような境遇や出来事の中で、よりよく生きてきたなあ。」と認めてあげたいと思う。

 

 最後に、著者は同章の終わりの方で、歌手に中島みゆきの曲「命の別名」の次のような1節を紹介している。「・・・何かの足しにもなれずに生きて、何にもなれずに消えてゆく 僕がいることを喜ぶ人が どこかにいてほしい・・・」特に有益なことができる訳でもなく、人に評価される者にもなれないが、それでも私の存在を喜んでくれる人がいてほしいというような意味だと思うが、これは普通の人がもつささやかな願いではないだろうか。私は先ほど自分だけでも自分の人生を認めたいと少し強がりを言ってしまったが、やはり本音はこの1節の内容なのかもしれない。だから、高齢期になってから、せめて妻や子どもたち、孫たちには私という存在を喜んでくれるような振る舞いをしたいと思うようになった。少しセコイような気もするが、それが私なりの「悔いのない、真っ当な人生の送り方」だと考えている。