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働かざるもの食うべからず?~泉谷閑示著『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び問う』を読んで~

 私に実存的な問題として浮上してきた「なんとなく退屈だ」という気分との闘いについての方策は、前回の記事に具体的なイメージ内容として示すことができた。それに対して、もう一つの実存的な問題、つまり「社会的に有意義な仕事をしていないと人生を充実できないのではないか」というロマン主義的な価値観の揺らぎへの対応についての方策は、まだその解決の方向性を見出せていていない。

 

 ただし、本年3月17日付け当ブログの記事<「暇」の中で「退屈」せずに生きる術を知る階級?仕事こそ生き甲斐と感じている階級?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ④~>の中で、著者の國分氏が取り上げていた経済学者ソースティン・ヴェブレン著『有閑階級の理論』や同じく経済学者ジョン・ガルブレイス著『ゆたかな社会』におけるキー・コンセプトに関連して、仕事や労働に関する私の考え方を明らかにしておいた。それは、「額に汗して労働することだけが幸福をもたらす」とか「仕事が充実すべきだ」とかという考え方である。そして、そのような考え方を、私は「生の意味」や「人生の充実」を求めるロマン主義的な考え方と連結させて、自身の価値観として根付かせてきたことも示しておいた。

 

 そこで今回は、上述したような私の中にある仕事や労働に関連するロマン主義的な価値観について、その形成過程を辿りながら相対化を図り、今後の考え方の方向性を見出していきたいと思う。その際に、いつもの如く積読状態にあった本『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び問う』(泉谷閑示著)を読んで参考になる箇所を援用しながら、もう一つの実存的な問題を解決する糸口を見つけたいと考えている。

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 それにしても、私はいつ頃から「社会的に有意義な仕事をしていないと人生を充実できないのではないか」というロマン主義的な価値観を形成してきたのであろうか。私の自分史を振り返りながら、その形成過程の探ってみよう。

 

 以前の記事でも触れたことがあるが、私は小学校中学年頃に母子家庭になり、経済的には困窮生活を余儀なくされた。協議離婚の際に母親に付いていくことを決意した時に、その覚悟はできていたので、貧乏な暮らしに対してそれほど苦痛に思ったことはない。もちろん私が少年期から青年期に成長する時期は、我が国は「高度経済成長期」だったこともあり、貧乏ながらも少しずつは生活レベルが向上していったという背景があるかもしれないが…。そのような中、私は多感な思春期を迎える頃には、「物質的な豊かさより精神的な豊かさを求めることこそが人間にとって幸せなのだ」という価値観を自然に身に付けたと思う。それ故か、青年期になる頃には、将来なりたい職業について、営利目的ではなく公共目的の職業に就きたいと考えていたように思う。

 

 もう一つ、どのような経緯からだったかは覚えていないが、思春期の頃から労働や仕事に関する内容で無意識に記憶した言葉があった。それは、「働かざるもの食うべからず」という言葉である。一般的には「働けるのに働こうとしない者は、食べることもしてはならない。」という意味だが、私は「生きていくためには、働かなければならない。」というより強制的な意味として受け止めていたように思う。なぜ、そのような強制性をもった意味付けをしていたかは定かではないが、先日、本書を読んでいる時にこの言葉の由来について言及している箇所を見つけ、その理由の背景みたいなものを知り、なるほどと思った。

 

 その箇所とは、社会学マックス・ヴェーバーが1904年に発表した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴァン派から派生したピュウリタニズムの代表的信徒であったバックスターの主著の内容に触れた、次のような箇所である。…ところで、労働はそれ以上のものだ。いや端的に、何にもまして、神の定めたもうた生活の自己目的なのだ。「働こうとしないものは食べることもしてはならない」というパウロの命題は無条件に、また、誰にでもあてはまる。労働意欲のないことは恩恵の地位を喪失した徴候なのだ。…

 

 そうなのである。「働かざるもの食うべからず」という言葉の起源は、一つのキリスト教的倫理観を表わしたものだったのである。このことは、我が国に資本主義が輸入されたと同時に、知らず知らずのうちに、「労働」に禁欲的に従事すべしという「資本主義の精神のエートス」までもが輸入されていたことを表わしている。さらに、私が「教職こそ天職だ。」という時の「天職」という言葉も、宗教改革の際にマルティン・ルッターが聖書翻訳で登場させた「天職Beruf」という概念から始まっていたことも記されており、私は知らぬ間に世俗的日常労働に宗教的意義を認めるキリスト教的思想をもっていたことになる。これらのことから、私はひたむきに「天職」を遂行することが「世俗内禁欲」という徳のある生き方であるというプロテスタントの価値観を基に、「労働」して稼ぐことこそが善行であるととらえるようになるとともに、「働かざるもの食うべからず」といった「資本主義の精神のエートス」をもつようになったのだろうと思う。

 

 しかし、このような考え方は、仕事や労働によってほとんどが占められている生活を生み、その結果として生活を奴隷的で非人間的なものにしてしまう危険性を孕んでいるのではないだろうか。それに対して、著者は儲かるとか役に立つとかいった「意義」や「価値」をひたすら追求する「資本主義の精神のエートス」というものから、各自が目覚めて生き物としても人間としても「意味」(「心=身体」による感覚や感情の喜びによってとらえられるもの)が感じられるような生き方を模索することが、これからの私たちに求められている課題だと述べている。私はこのような著者の考え方を本書で知り、「働かざるもの食うべからず」という言葉の呪縛から解き放たれる必要性を痛感した。そして、仕事や労働にとらわれない日々の生き方や在り方を、じっくりと考えることができる地点に達したと、私は今、実感している。