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“多様性”を尊重するって、軽々しく言えないかも…~朝井リョウ著『正欲』を読んで~

 『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著)を読み、著者の瑞々しい感性に強い刺激を受けて以来、私は常に自分の意識を覚醒させて認識の再構成を図っていこうと、なるべく若い世代の作家の小説を意図的に選んで読むようにしている。そのような中で今回チャレンジしたのが、『正欲』(朝井リョウ著)である。本書は、朝井氏が自らの作家生活10周年を記念して著した長編小説で、第34回柴田錬三郎賞や第3回読者による文学賞等を受賞し、2022年本屋大賞にもノミネートされた作品である。累計発行部数が50万部を超えて、2023年には稲垣吾郎新垣結衣等の豪華な俳優陣が共演して映画化もされ、衝撃的な問題作として評価を高めているらしい。

 登場人物の一人が言い放った言葉「自分が想像できる“多様性”だけを礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな。」は、本書のテーマに直結しているキー・センテンスになっている。“多様性”を尊重するという信条をもっていると自認する人でも、自分の想像も及ばない特殊性癖をもった人が身近に存在していたら、蔑視したり生理的に排除したりしてしまうのではないか!そのような厳しく根源的な問いを私たちに突き付けてくるのが、本書なのである。

 

 主な登場人物は、息子が不登校になってしまい戸惑う検事の今井啓喜。地元モールにある寝具店で働く中ある秘密を抱えて生きる契約社員の桐生夏月。学園祭の実行委員を務める中で初恋に気付いてしまった女子大生の神戸八重子。その初恋の相手でダンスサークル所属の美しい男子学生の諸橋大也。夏月のかつての同級生で夏月とある秘密を共有する大手食品勤務の佐々木佳道。

 

 物語の前半では、それぞれに何のつながりもない啓喜と夏月と八重子の日常を描きながら、ある人物の死をきっかけにして3人の糸がいつしか絡まってしまう様が描写されていく。後半は、それに大也と佳道らが関わってくることで、徐々に本書のテーマに物語が収束していく展開になっていく。私にとって、終始息苦しさを感じながら読み進めていかなければならない物語であった。

 

 本書の中で次のような件がある。「まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちらの側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰でもが、昨日からみた対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。」この文章は、自分は普通で常識的だと思っている人々に対する警告になっているが、私自身に対しても他人事ではないぞと詰問しているように感じた。“多様性”を尊重するという信条をもっていると自認している自分の、ある呑気さ加減に喝を入れられた思いである。

 

 最近読んだ『夏目漱石「こころ」をどう読むか』(石原千秋責任編集/河出書房新社)という本の中に、批評家で作家の東浩紀氏が書いた「少数派として生きること」というエッセイが掲載されていた。そこで、「先生」と「私」の同性愛的な表現の豊かさを取り上げて、先生の自殺の原因に自分が同性愛者であることを自覚したことがあるのではないかと述べている。マイノリティとして生きることが辛いのは、自分が少数派だからではなく、誰も最初は自分がマジョリティだと誤解してしまうから、自分がマイノリティだと気付くのに時間が掛かるからではないかと問題提起をしているのである。そうなのだ、自分がいつマイノリティ側になると意識するのか分からない。

 

 では、私たちは“多様性”を本当につくるために、どのような考えを持ち、どのように行動すればいいのだろうか。本書の中に、そのヒントになりそうな一文があった。「自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。」まさにこの考えは、特別支援教育の理念であり実践原理と同じである。障がい者にとって過ごしやすい環境に調整することは、結局誰にとっても過ごしやすい環境設定になる。障がい児の困り感を軽減したり解消したりするための合理的配慮が行き届いた授業=ユニバーサルデザインの授業は、健常児にとっても分かりやすく安心できる授業になる。私たちは自分と異なる他者のことをできるだけ理解しようと努力し、その上で相手の抱える困難さを少しでも無くしていくようにして、全ての人々が「共に生きる世界」を共創していかないといけないのである。

 

 ところが、本書で取り上げられている“多様性”の中身は、私たちの想像を遥かに超える特殊性癖なのである。だから、当人たちにとっての性的対象は別にあるのに、それと関連した小児性欲と疑われ犯罪処罰の対象者にされてしまう。私は自分にとって生理的に忌避したい性癖であっても、その行為が相手の意思に反したり傷つけたりするものでなかったら、その特異な性癖をもつ人であっても差別したり排除してはならないと考える。しかし、その行為が他の犯罪行為と看做されたり、そもそも当人たちがその性癖を他者に認めてもらうことを望んでいなかったりしたら、どのように対応すればいいのだろうか!?

 

 本書で著者から問題提起された“多様性”の中身を、私たちはどのように受け止めればいいのだろう。美しく魅力的な言葉である“多様性”の実相を様々に思い巡らせながら、異質な他者同士の相克的な関係性の厳しさについてリアルなイメージをもつことが、この世に生きる人々全てに要請されていると私は受け止めた。このテーマはあまりに重く、私を押しつぶすようなものだったが、若い世代の著者が提起した根源的な問いに対して、私はこれからも真摯に向かい合っていかねばならないと考えている。