ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「学校・家庭・地域の連携教育」は、「学校化社会」からの決別を可能にするか?~上野千鶴子著『サヨナラ、学校化社会』を読んで~

 4月25日(日)の午前中、NHK・BS1で再放送された<最後の授業「上野千鶴子」>を妻と一緒に視聴し、研究対象の変遷に伴って彼女が発してきた名言のいくつかを聞くことができた。上野氏は東大入学式のスピーチが話題になったり、「おひとりさま」シリーズがベストセラーになったりして、最近再び注目を浴びている社会学者である。振り返ってみれば、平安女子短大に務めていた30代の頃からフェミニズム運動や女性学のパイオニアとして活躍してきた彼女の発言内容に私は注目していたので、書棚にある彼女の処女作『セクシィ・ギャルの大研究-女の読み方・読まれ方・読ませ方』をめくってみると、至る所に傍線まで引いて読んでいた。また、その後も『構造主義の冒険』『スカートの下の劇場』『女遊び』『対話篇 性愛篇』『ミッドナイト・コール』『<人間>を超えて-移動と着地』(中村雄二郎との共著)等の軟硬入り乱れた著書を、その時々の課題意識に即して読んできた。その彼女が珍しく日本の教育事情について語った『サヨナラ、学校化社会』が、それらの著書とは別の書棚の中で眠っていたので、今回じっくり読んで自分なりの所感をまとめてみようかなと思い立った。

 

 そこで今回は、本書でいう「学校化社会」の意味や実情等に触れつつ、現在の教育界において強調されている「学校・家庭・地域の連携教育」は「学校化社会」からの決別を可能にするのかどうかを私なりに考えてみたいと思う。

f:id:moshimoshix:20210501093830j:plain

 本書の中で著者は、元々はオーストリアの哲学者・社会評論家・文明批評家として著名なイヴァン・イリイチがその著書『脱学校の社会』で、学校が本来の役割を越えて過剰な影響力を持つに至った社会を意味する用語として定義した「学校化社会」を、社会学者の宮台真司氏が現代日本の実情を踏まえて再定義した「学校的価値が社会の全領域に浸透した社会」という意味で使用している。言い換えれば、「偏差値一元尺度という学校的価値が学校からあふれて外ににじみ出て、その結果、この一元尺度による偏差値身分制とでもいうものが出現している社会」というような意味である。本書は今から20年ほど前に刊行されたものだが、偏差値教育の打破を謳って進めてきた今までの様々な教育改革にもかかわらず、上述のような社会の実情は未だに残存しているといっても言い過ぎではないと思う。

 

 では、日本社会においてこのような「学校化社会」が出現したのはいつ頃だったのだろうか。著者は、高校全入運動が盛んに叫ばれていた1970年代以降のことであろうと指摘している。そうすると1954年生まれの私は、著者のいう「学校化世代」に当たる。だからという訳ではないが、偏差値教育に違和感を抱きながらもその中を生きてきた私は、著者が批判している「学校化社会」の問題点についてよく理解できる。例えば、偏差値の高い学校歴をもつ人材は、未だに企業の採用において有利である。そのために、偏差値の高低によって受験校を決めるような進路指導体制も温存されている。結局そのことは、子どもたちに常に現在を未来のために手段とするような生き方を強制し、優等生と劣等生を選別していくのである。

 

 さて、そのような学校的な価値の一元化を生む「学校化社会」の下での優勝劣敗主義が、一方で敗者の不満、他方で勝者の不安という、負け組にも勝ち組にも大きなストレスを与えるのだったら誰もハッピーにしないと、著者は鋭く指摘している。そして、今流行の「学校・家庭・地域の連携教育」も、全ての大人が学校的価値に一元化している現状では、家庭や地域において多様な価値観が存在し、それなりに尊重されていた「学校化社会」出現前の時代とは異なり、その有効性はあまり高くないのではないかと危惧している。確かに、私が小学生の頃までは家庭には学校とは違う価値観があり、地域には様々な場所に多元的な価値観が存在していた。その中で、私は自分の生存戦略を学んでいったように思う。だから、私は家庭の事情や部活動等のために偏差値を考慮に入れないで自分の意志で実業高校へ進学したし、肘の怪我のためにやむなく退部した後には急きょ大学進学を目指し、偏差値基準では到底無理だった地元国立大学教育学部へ入学するような道を歩むことができたのかもしれない。

 

 だとすれば、「学校化社会」から脱却するための「学校・家庭・地域の連携教育」の在り方で最も必要とされることは、一人一人の大人が自然と身に付けてしまった学校的価値を客観的に相対化し、その呪縛から自分を解放して、自分が気持ちいいと思えることを探り当てながら、将来のためではなく現在を精一杯楽しく生きるように変容することではないだろうか。そうなれば、価値観の多様性が本当の意味で保障される優しい社会になり、一人一人が安心して生きていける生存環境になっていくに違いないと、私は考える。