ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

若い頃に教育相談で援用したフロイトの精神分析の理論とは?~「100de名著」におけるフロイト著『夢判断』のテキストを読んで~

 今年のゴールデンウィーク前半は、我が家に泊まりに来ていた二女とその長男(孫M)と楽しく過ごすことができた。また、5月3日~6日の後半は、特に用事がなかったのでのんびりする時間が取れた。だから、前月に放映されたEテレ「100de名著」の4回分の番組録画を一度に視聴しながら、そのテキストを読み進めていくという恒例の自己学習を実践した。4月に取り上げられた名著は、精神分析の礎を築いたジークムント・フロイトが1900年に刊行した『夢判断』。それを丁寧に紐解き、易しく道案内をしてくれた講師は、京都大学教授の立木康介氏。NHKアナウンサーの安倍みちこ氏とタレントの伊集院光氏の司会進行による番組内容に集中しながら、私は若い頃に興味をもって少しかじったフロイト精神分析の理論について思い出していた。

 そこで今回は、精神分析における「メタ心理学」の理論を取り上げていた本番組の第4回放送「無意識の彼岸へ」分のテキスト内容の中で私が特に印象に残ったことを要約し、それに対する自分の経験に基づいた管見を綴ってみようと思う。

 

 『夢判断』は3階建ての構造になっており、その3階に置かれている最終章の第7章「夢事象の心理学」がまさに「本丸」と言うべきものであると、講師の立木氏は強調している。ここでフロイトは、夢とその形成メカニズムにまで遡って検討したことで得られた知識の全体を包み込む、今まで誰も見たことがない新しい「心理学」の構築に乗り出したのである。そして、心を一つの「装置」として捉え、その機能と成り立ちを説明するこの心理学を、「意識の背後へ通じる心理学」という意味で「メタ心理学」と呼んだのである。これは彼が提唱した精神分析の理論で、心の動きを力動的、局所論的、経済論的観点から解明しているものである。若い頃の私は、子ども理解を図るための教育相談に生かそうと、この3つの観点の中でも特に「局所論的」、つまり心を意識・前意識・無意識、後には自我・エス超自我という3つの異なる場で構成されたものとする考え方に興味をもったのである。

 

 さて、第7章に繰り広げられる「心的出来事の二原則」についての一連の仮説は、さらに興味深いものである。テキストの解説を読んで要約してみよう。フロイトは、心的装置に「快原理」(不快を回避し、快を追求する基本的な原理)が支配する一次過程と、「現実原理」(外的事実と折り合いをつけるため、快の自動的な追求を制限し、現実の中で自分が置かれた状況を吟味する原理)にコントロールされる二次過程の二つを仮定している。一次過程では、快や不快の痕跡が表象(記憶像、記憶イメージ)の形で留まり、それをもたらした経験の「代理」を務める力を持つことになる。言い換えれば、過去に経験したのと同じ不快に再び見舞われた時、内部の登録済みの快表象、つまり「満足経験の記憶」を呼び戻し、それを幻覚することで満足感を再現しようとするのである。彼はこのような心の動きこそ「願望」と呼び、それを実現することが「願望充足」であると定式化している。

 

 しかし、いくら過去の満足を表象レベルで再現しても、それはあくまで「記憶」に過ぎない以上、現にその人を苛んでいる不快が解消されることはない。それどころか、そのような幻覚による対処は、やがて不快の増長をもたらすことが避けられず、生存の危機を招くおそれさえある。そうした事態に陥らないために、心的装置には幻覚による満足よりも安定した方法で不快の解消を目指す、より高次の機構が必要になる。そこで、フロイトは「不快の放出を一時停止し、不快に耐えることによってはじめて可能になる過程」という高次の機構を二次過程と呼び、この過程をリードする原理を「現実原理」と名付けたのである。この「現実原理」が「快原理」に取って代わることで、初めて心的生活は現実的な満足を持続的に享受することができるようになるのである。

 

  実はここにこそ、私たちの心的生活に「抑圧」が必要になる理由がある。どういうことかと言うと、二次過程の介入が可能になるためには、快(満足)の追求の一時停止が求められ、この一時停止こそが「抑圧」の起源になるのである。自我が成長していけば、快の再現を至上命題にする一次過程は、社会生活に課せられる諸制約にぶつかり、禁止されたり自ら断念したりする。その時に一次過程を一時停止させる働きをするのが、願望を無意識へと追いやる「抑圧」なのである。そして、そのことがそのまま「無意識」を説明し、根拠づける論になる。つまり、「無意識」とは「抑圧されたもの」の場であり、「無意識」を生み出すのは「抑圧」なのである。

 

 だとすれば、「無意識」とは一次過程および「快原理」が支配する場であり、それに対して二次過程および「現実原理」にコントロールが及ぶのが前意識であり、意識だと言える。したがって、「抑圧」とは前意識―意識とを切り分ける心の働きなのである。そしてフロイトは、いったん抑圧されたものが、無意識から前意識―意識へと再び浮上すると、それは不快として感じられると付け加えている。夢の場合には、意識が眠っているので、抑圧されたものが突破できるのは無意識と前意識の間にある「検閲」だけだが、そうして前意識に入ってきた抑圧されたものは、夢の中に不快や不安の感覚をもたらす。このことが、夢の願望充足に満足感が伴わず、夢がむしろ不満足をもたらしたように感じてしまう理由になるのである。

 

 ただし、フロイトは一次過程と二次過程の関係について満足抑止(快の制限)の反対の面があることも指摘している。つまり、一次過程は二次過程が目指すものを、遠回りに、より確実な方法で実現するプロセスと見なすこともできると言っているのである。このような視点に立てば、快原理と現実原理、無意識と前意識―意識の葛藤が繰り広げられる心的装置の全体は、快の追求という同一の目標に貫かれた、広い意味での「快原理のフィールド」であるということになる。後にフロイトはこの広い意味での「快原理のフィールド」を超え出たところにあるもの、あるいはその背後に隠されているもののことを、「快原理の彼岸」と呼ぶようになる。

 

 心的装置が過剰に流入する刺激を拘束し、受け止め直そうとする時、快原理よりもプリミティブな水準の心的過程を経る。フロイトは、この原始的な心の動きを「快原理の彼岸」と名指すようになる。そして、その際に流入する刺激の源泉は大きく分けて二つあると言っている。一つは「外界の現実」がもたらす刺激であり、もう一つは「欲動」(自己の内部から押し寄せてくるもの)がもたらす刺激である。フロイトは、『夢判断』を刊行した時期から、「自己保存欲動」と「性欲動」という二つの欲動を仮定している。しかし、その後さらなる変遷を経て「生の欲動」(エロース)と「死の欲動」(タナトス)からなる二元論を打ち出し、その理論的関心の中心をとりわけ「死の欲動」へと移していくのである。

 

 そして、フロイトはこの新しい欲動論の展開に伴い、欲動の貯蔵庫である「エス」の概念化に踏み切り、従来の局所論に代えて「自我」「エス」「超自我」を主役とする新たな局所論を前面に押し出していくのである。この新局所論が、死の欲動論と並んで晩年のフロイト理論を大きく変貌させていくことになる。『快原理の彼岸』の出版で幕を開けた1920年代、フロイトの提唱した精神分析は本格的な発展期を迎え、欧米各地で分析家の制度的な育成がスタートする一方で、彼自身も各国から訪れる分析家志望者の訓練分析を手掛け、理論的な仕事にも旺盛に取り組んでいった。しかし、彼の最晩年にあたる1930年代は、ナチズムの嵐が吹き荒れ、ユダヤ人の彼も時代の荒波と無縁ではいられなかった。1938年のアンシュルスナチスドイツによるオーストリア併合)に及んで、ロンドンへ亡命。1939年に83歳でこの世を去ってしまった。

 

 講師の立木氏は、本テキストの最後の部分で次のようなことを綴って締めくくっている。・・・自分が何者であるかを知りたければ、自分が何を求めているかを知らなくてはならない。欲望とは、フロイトの言葉で言えば「願望」です。それを知る最も身近な手がかりは「夢」のなかにある。その「夢」から出発して、自分の願望に辿り着く方法を教えるのが、フロイトの『夢判断』なのです。・・・残念ながら、私は『夢判断』を読んだことがないが、自己のアイデンティティの不確かさに戸惑っていた若い頃に、心理学者の岸田秀氏の著書『フロイドを読む』を読んで以来、フロイト精神分析の理論について自己流で断片的な学びを続けてきた。それは立木氏が言うように自分が何者であるかを知りたかったからである。でも、その学びの過程で、私は西欧的な親子関係の中で父性重視の傾向をもつフロイトの「エディプス・コンプレックス」という概念に違和感をもち、それに対して精神科医古澤平作氏が母性を重視した日本的な親子関係に基づいて提唱し、精神分析家の小此木圭吾氏が流布した「阿闇世(アジャセ)コンプレックス」という概念の方に共感を覚えたことをきっかけにして、師匠のフロイトから袂を分けたユング深層心理学の方へ関心を向けていった。その後は自然の成り行きにしたがって、さらにユング心理学者の河合隼雄氏の諸著作へとのめり込むことになるのである。

 

 私の精神分析や心理学に対する知的関心の成り行きを振り返ってみると、私は決してフロイト精神分析理論のよき学び手ではなかったと思う。しかし、フロイトの新局所論に関する理論を援用して、「無意識」に着目した子ども理解を基にした教育相談を実践していた若い頃の私にとって、彼の精神分析理論が小学校教師の仕事に対する大きなやりがいと手応えをもらしてくれたことは間違いない。その意味では、フロイトが発見したと言われる「無意識」という概念の臨床的な有効性について、自分の教育実践を通して深く認識した一教師であったという自負はある。本テキストに基づいた今回の学びをきっかけにして、私はもう少しフロイト精神分析理論、特に「無意識」について現象学的な視座から意味付けるような勉強をしたくなってきた。近いうちにその成果の一部を当ブログの記事にまとめてみたいと思っているが、さて、どうなることかな。