1983年9月、最先端の哲学を扱った高度な内容の『構造と力―記号論を超えて―』(浅田彰著)という単行本が勁草書房という出版社から刊行され、何と15万部を超える大ベストセラーになった。それを契機にして「ニュー・アカデミズム」(略称「ニューアカ」)現象が起きて、世の中に一大センセーションを巻き起こした訳だが、この『構造と力』が初版から約40年の歳月を経て、最近やっと文庫化(中公文庫)されたのである。2020年代の混迷する世界を理解する上で今なお新しさを失わないその「思想」を、多くの市井の人々にも知ってもらいたいという思いからであろう。
1983年当時、私は30歳前の年齢で、愛媛大学教育学部附属小学校に赴任してまだ数年しか経っていない頃であったが、単に「思想オタク」的な興味本位でこの『構造と力』を購入した。しかし、読み始めてみたものの、内容の難解さに苦渋して途中で放棄してしまった。その悔しい思いを引きづっていた私にとって、それから半年ぐらい経って刊行された浅田氏の二冊目の著書『逃走論』は「今度こそ!」という思いを私に惹き起こしてくれたので、またすぐに入手した。私にも馴染みやすいポップな文体と、「スキゾ・キッズ」という魅力的なキーワードのお陰で、何とか読み通すことができた。その喜びを表現するかの如く、当時、同僚たちに「本県の閉鎖的な教育風土から、とにかく逃げろや逃げろの戦略でいこう。」などと得意がって吹聴していたことを思い出す。
職場近くのデパートに入っている紀伊国屋書店の平場に並んでいた文庫本の『構造と力』を手に取って、当時のことを懐かしく思い出している時、私の目に留まった別の本があった。それは『ニッポンの思想 増補新版』(佐々木敦著)という文庫本。私は「日本じゃなくて、ニッポンって、どういう意図?」という思いでページを捲ってみて、プロローグの文章を拾い読みしてみた。すると、・・・「1980年代」がそれ以前の「日本の思想」の流れに、ある紛れもない「切断」を成した時代であり、本書ではその「切断」の以前と以後を「日本」と「ニッポン」の違いで表す。・・・という箇所があった。また、・・・「思想」の「変遷」というドラマには直接参加せず、しかし熱心な「観客」であり続けてきた人間が書く「思想」の「歴史=ドラマ」があってもいいのではないでしょうか。・・・と著者が読者に問うている箇所を読んで、私は躊躇なく本書を購入したのであった。
それから約2週間、私は自宅での隙間時間に少しずつ読み継いできて、やっと昨日読了した。本書は、「ニッポンの思想」を「80年代」「90年代」「ゼロ年代」(そして、その後に増補された部分である)「テン年代」「2020年代」というディケイド(10年間)を時系列に追っていくという構成で編集しており、表面的には断絶しながらも実のところは連続しているという観方を取って「一貫性」を炙り出そうと企図しているので、私なりに頭を整理しながら読むことができた。でも、そうは言ってもその内容を十分に理解することは困難だったので、今回の記事は本書の内容に触発されて思い出した「1980年代まで」に私が影響を受けた「日本の思想」についてほんの少しだけ綴ってみようと思う。
本書の〈第1章 「ニューアカ」とは何だったのか?〉の中に、「1980年代まで」の「日本の思想」に関連した内容について著者が言及している箇所がある。それは、1990年に行われた座談会で浅田氏が語った「それまでのソシュールやアルチュセールやポランニーの忠実な読者だった人たち」として、次のような著者や学者たちを挙げている箇所である。
〇 『ソシュールの思想』や『文化のフェティシズム』等の著者・丸山圭三郎氏
〇 『暴力のオントロギー』や『排除の構造―力の一般経済序説』等の著者・今村仁司氏
〇 『幻想の経済』や『パンツをはいたサル』等の著者・栗本慎一郎氏
〇 『ものぐさ精神分析』や『二番煎じ ものぐさ精神分析』等の岸田秀氏
また、別の個所では「ニューアカ」登場以前の70年代において学際的な著書を著した学者として、次のような著書や人々を挙げている。
〇 『共通感覚論』の著者・中村雄二郎氏
〇 『無縁・公界・楽』の著者・網野善彦氏
〇 『精神としての身体』や『<身>の構造』等の著者・市川浩氏
〇 『分裂病の現象学』や『自己・あいだ・時間』等の著者・木村敏氏
これらの学者は、1960年代から段階的に日本に輸入されてきた「構造主義」や「記号論」をベースにした「日本の思想」を、70年代に展開していた人々である。
30歳前の私は、ここに挙げられている学者たちの著書群を手当たり次第に読み漁っていたので、「80年代」になって忽然と起こった空前の「現代思想」ブームや、それをリードした「ニューアカ」の二人の旗手たちの「ニッポンの思想」にはまだ認識レベルで追いつかなかったのである。浅田氏とともに当時注目されていた中沢新一氏が、1983年11月にせりか書房から刊行した『チベットのモーツアルト』に対しては、特に意識することがなかった。ただその後、タイトルに興味をもったので『雪片曲線論』(中公文庫)を買ってみたが、中沢氏の論ずる自然哲学や意識論、チベット仏教論等に対して関心を高めることができなかった。しかし、1986年~87年に起こった「東大駒場騒動」(中沢氏を東京大学の教官として受け入れるか否かを巡る教授会での騒動)に対しては、アカデミズムの頂点に位置している東大で中沢氏がどのように評価されるのかが気になったので、当騒動の立役者の一人である西部邁氏がその赤裸々な内情を詳細に綴った『剥がされた仮面-東大駒場騒動記』(1988年刊)をゴシップ的な興味で目を通したことを覚えている。
それに比べて、前述した「1980年代まで」の「日本の思想」の中核を担っていた学者たちの著書には、とても大きな知的刺激を受けた。その中の丸山氏や栗本氏、岸田氏については当ブログの以前の記事でも取り上げたことがあるが、これらの学者たち以外にも、中村氏や市川氏の著書からは多くのことを学んだ。というのは、当時、私は附属小学校で体育科の実践的研究を推進する役目を担っており、それまでの体育科教育の根底にあった近代的な「心身二元論」に立つ教師主導型の「運動手段論」を何とか相対化したいと考えていた。そして、新たな体育科教育の理念として「心身一元=心身一如論」に立つ教師と子どもの相互主体型の「運動目的・内容論」を構想するための理論作りに役立てようとしたのである。
それまでの体育科の授業は、ともすると運動主体であるはずの子どもを操作対象にして指導してきたために、多くの「運動好きの体育嫌い」の子どもを作ってきていたと思う。私はこの実態を何とか克服したいと考えて、運動主体である子どもが運動を<遊び=学び>として経験するような体育学習の成立を目指したのである。そのための理論になる身体論として、私は中村氏や市川氏のそれに注目したのである。
では、中村氏や市川氏の身体論の本質とは何か。ここで当然、この本質について具体的に語るのが自然な論の展開になるのだが、心身の疲れを意識し始めてきたので、中途半端な記事になることを承知の上で、この辺で筆を擱きたいと思う。この続きの記事はまた機会を改めて綴りたいと考えているので、読者の皆様にはそれまでは亀の如く首を長くしてお待ちくだされば幸いです。では、また・・・。