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古希を祝う会を兼ねて高校のクラス会をしました!

   1週間ほど前の4月21日(日)、古希を祝う会を兼ねて「松山商業高校学校第71回(昭和48年3月)卒業3年12組のクラス会」を、「道後温泉ふなや」という老舗旅館を会場にして開催した。前回のクラス会は還暦の年に行ったので、10年振りの開催になった。数年前からそろそろクラス会をやってはどうかという声があったらしいが、その頃はちょうどコロナ禍真っ最中の時期だったので収束するまで待とうということになっていた。そして、昨年5月8日から新型コロナウイルス感染症法上「5類」に位置付けられたが、発起人の一人として私が参加した7月頃の話合いでは、まだ感染の危険性が高いのではないかと心配し、1年後には古希を迎えるのでそのお祝いを兼ねて開催しようということに決まったのである。

 

 私を含めて男女各2名の発起人は、昨年から今年にかけて合計4回の事前打ち合わせを行った。その内の2回は、話合い後に会場の選定や会費、使用する部屋等の確認をするために「ふなや」を訪問した。ただし、私は開催日の約1週間前に最終打ち合わせをした後に訪問しただけである。その理由は、前年に義理の姉夫婦の古希を祝う会を「ふなや」で行っていたので、会場の雰囲気や周りの景観、料理の内容等について熟知していたからである。だから、訪問した際は、当日使用する部屋の広さや座席の配置等だけを確認すればよかったのである。もちろん私は当日の司会進行役を引き受けていたので、そのイメージトレーニングに役立てようという思惑もあったが・・・。

 

 私たち12組は1クラスしかない進学コースだったので、高校の3年間同じメンバーで過ごした。45名在籍していたが、今までに6名の同級生が鬼籍に入っている。したがって、存命している39名に何としても案内したかった。発起人の女性たちがラインや電話で連絡をつけることができるのが21名(私たち発起人も含めて)、私が往復はがきで案内したのが18名。その内で現住所が分かっていたのは12名だったので、他の6名(全て女性)は母校の卒業アルバムに掲載されていた当時の実家の住所宛てに当時の姓のままで送った。参加希望の返信があったのは男性2名ではあったが、最終的には男女各8名の計16名が参加してくれることになった。特に女性の内の3名は、嫁ぎ先の県外(静岡県大阪府岡山県)から参加してくれたので、県内在住者たちはとても喜んだ。

 

 さて、そろそろクラス会当日の様子について筆を進めていこう。当日、私は会場まで市内を走る路面電車を使う予定だったし、あいにく雨模様になったこともあり、自宅を15時頃に出発した。クラス会の開始時刻より2時間ほど前には会場へ到達した。もちろん誰も来ていなかった。幹事役とは言え、なぜそんなに早く会場入りをしたのかと訝しがる方もいると思う。本音のところは当老舗旅館を宿泊や宴会等で利用する人には館内に設置している大浴場に無料で入れる特権があったからである。何といっても世間的には名高い道後温泉の源泉を引いている大浴場である。地元住民であっても、いやそうであるからこそ、普段あまり入ることがない温泉にこの機会に入ってみたかったのである。

 

 本館の1階ロビーから渡り廊下を挟んで設置している大浴場には、泊り客だと思われる方が数人入っているだけだった。私は、室内に2つと露天に1つあった風呂に代わる代わる入浴した。久し振りの温泉の湯は、疲れた身体にはとても優しかった。特に露天風呂では小雨に霞む道後温泉街の風情を覗き見ることができ、僅かに感じる冷気が心地よかった。私は湯船の中に手足を伸ばし、のんびりとした気分に浸りながら、クラス会の流れをイメージしていた。20分ほどの入浴時間だったが、その後は窓ガラスから館外の木々が望めるスペースに置いてあったマッサージチェアでじっくりと身体をほぐすことができた。何だが旅に出掛けたような気分になって、心身共にリラックスできる時間を過ごすことができた。

 

 開会まではまだ1時間ほどあったが、私は会場になる「青磁の間」という部屋の方へ足を進めた。すると、渡り廊下の所で何と男の同級生たち3名と出会った。「よう、久し振り!」と簡単な挨拶を交わし、「もう風呂に入ったよ。いい風呂だったし、まだ時間もあるから入ったら。」と促すと、懐かしい顔ぶれたちは「ありがとう、そうするよ。」と言って大浴場の方へ歩を進めていった。その後、会場前のフロアの所へ行くと、何と幹事役のMさんとYさんがすでに受付机の前に座っていた。私は早速クラス会と二次会の費用を支払い、座席の位置や県外から来てくれた3名の女性たちに手渡すお土産等の確認をした。そして、すでに食事の準備ができているという部屋の様子を見に行った。

 

 そうこうしている間に、次々と参加者たちが受付をしていた。私は近くのソファへ参加者たちを誘いながら、取り留めのない質問をしたり懐かしい思い出話をしたりしていた。その中で、高校時代の「倫理社会」の先生の話になり、その先生に紹介してもらった阿部次郎著『三太郎の日記』を買ったけど読み通せなかったと口にしたことをきっかけにして、何となく哲学談義へ発展していった。私はつい調子に乗り、発刊から約40年経って文庫化された浅田彰著『構造と力』のことや、それに関連して若い頃に関心を深めた現代思想のこと、さらに私が近年ワクワクして読んだ國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』の内容などについてしゃべっていた。同級生の男性陣は感心したように頷きながらも、ややあっけにとられたような表情になっていた。私の顔は少し赤面してしまっていた。

 いよいよ定刻になり、私がクラス会の開会を宣言しようと構えていたら、写真担当のH君が「皆が酔ってしまう前に記念の集合写真を撮りたい。」と言ってきたので、急遽、私からその旨を呼び掛けると、全員が屏風前に男女別に前後2列に並んでくれた。多少緊張気味の表情のまま5~6枚の写真を撮った。自営の写真屋を営んでいるH君が、「現像したら写真の下に正式なクラス会の名称や日付等を記して参加者全員に送るよ。」と言ってくれた。双子の子たちを含め3人の子宝に恵まれたH君は、今でもはにかんだ笑顔が清々しい人である。私たちはほんわかした気持ちになって、自分の席に戻った。

 

 開会に先立って、すでに鬼籍に入っている方々に対して黙祷を捧げる時間を設定した。中には30代という若さで亡くなった同級生もいて、私は黙祷の間に人間のもつ運命の儚さについて考えてしまった。黙祷後は、場の雰囲気を和らげるように気を配りながら、今回のクラス会の開催経緯や主旨等を交えた開会のあいさつを述べた。ついつい長話をしてしまう私だが、できるだけ手短に述べたつもりである。でも、実際は思った以上にしゃべったのかもしれない。その後、私以外の3名の発起人たちに自己紹介してもらい、その中のY君に乾杯の音頭を取ってもらって、会食並びに歓談の時間に入った時には開始から約20分は経過していた。

 

 MさんとYさんが、皆が話しやすいように男性2名と女性2名が交互に並ぶようなクジ引き席にしてくれていたお陰で、会食並びに歓談の時間は最初から和やかな雰囲気に包まれた。自席の前に次々に並ぶ和食料理に舌鼓を打ったり、注文した好みの飲み物を飲んだりしながら、そこここで懐かしい昔話に花が咲いていた。頃合いのよい時に、県外から駆け付けてくれたTさん、Oさん、Iさんにお土産を手渡し、一言スピーチをしてもらった。高校時代にはほとんど声を聞いたことがなかった方までよく話してくれて、会場は盛り上がった。卒業してから半世紀ほど過ぎているが、皆、気分は高校生になったような時間があっと言う間に過ぎていった。

 

 腕時計を見ると、お開きの時刻まで20分ぐらいになっていた。予定では集合写真撮影⇒校歌斉唱という流れを考えていたが、雰囲気的に逆の方がよいと私が勝手に判断して、「皆さん、宴もたけなわだと思いますが、ここで懐かしい母校の校歌を斉唱します。」と働き掛けた。事前に校歌の歌詞を3番まで記しているプリントを配布していたので、続いて「3番の歌詞を知ったのが今回初めての方もいると思いますが、その3番まで歌いたいと思います。前奏に続いてお願いします。」と多少強引に進行した。CDプレイヤーから流れるメロディーに乗って、過去に甲子園球場で何度となく流れた「石鎚の山 伊予の海 金亀城頭 春深く・・・」という歌詞を皆は真剣に歌い始めた。何十年振りに歌う校歌だろう。私は2年生の途中まで硬式野球部に所属していたので、感慨深い思いに浸りながら歌っていた。

 

 その後、再度の集合写真を撮ってもらった。並び方は最初とは逆にして男性が前列、女性が後列になって、それぞれが好きなポーズを取った。それぞれがピースサインをしたり、隣同士で肩を組んだりして、6~7枚ほど撮影しただろうか。こんなことができるのも、青春時代に学生生活を3年間も共にした仲間だからこそである。少しはしゃぎすぎていたら、もうお開きの時刻になっていた。私は、慌てて皆に自席に戻ってもらうよう声掛けをした。すると、結構酔っていたにもかかわらず皆は素早く自席に着いてくれた。私はあえて落ち着いた口調で、事前に依頼していたO君(現職中に母校・松商の校長を務めた経歴がある)に閉会のあいさつをお願いした。

 

 元教員らしくO君の長めのあいさつが終わると、私は「ご丁寧なあいさつ、ありがとうございました。それでは、これをもちまして古希のお祝いを兼ねた松山商業高等学校第71回卒業3年12組のクラス会をお開きにさせていただきます。皆さん、ご協力ありがとうございました。」と急いで締めくくった。続いて、幹事たちによる二次会への案内に促されるように、皆は名残を惜しみながら「青磁の間」を出た。その後、予約していたタクシーに3~4名ずつ乗って、一番町にある「Bar MIYAO」へ直行した。二次会でも、高校時代の様々なエピソードトークや各自の近況報告等でさらに盛り上がったのは言うまでもない。二次会のお開きの際に、「また希望があれば、クラス会の世話をするから!」と私はつい叫んでしまっていた。次回は喜寿のお祝いを兼ねてと考えていたが、きっとそれより早く開催するような予感がした。まあ、その時にまだ健在だったら幹事役をしようと思っている。