ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「コンヴィヴィアル」な老いの生き方とは?・・・~岡本裕一朗著『世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解』から学ぶ~

 喪中で迎えた今年の元日は例年とは違い、華やかなお節料理が食卓に並ぶでもなく、束になった年賀状が郵便受けに入ることもなかった。恒例行事が中止になったような一抹の寂しさを隠し切れなかったので、全品20%割引のウルトラセール中のブックオフへ行ってみることにした。妻から以前に依頼されていた医学関係の実用書と自分好みの哲学や言語学関係の新書を数冊購入して、私はちょっといい気分を味わうことができた。帰宅後に、それらの書籍をどの書棚に入れるか思案しながら何となく書棚に並ぶ本の整理をしていると、年末に入手していた『世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解』(岡本裕一朗著)の背表紙が目に入った。「最近、<〇〇の正解>というタイトルの本が多いけど、出版業界での流行り文句なのかな・・・。でも、哲学的に老いを考えるのは面白そうだ。私も今年は古希を迎える。改めて哲学的に老いの生き方について問い直してみよう。」

 そう思い立ったものの、正月二日には新年の挨拶をしに来てくれた娘夫婦(二女の夫は年末から微熱が続いているので来訪しなかったが・・・)や孫たちと昼食会をすることになり、ゆっくりと読書をする時間は取れなかった。でも、水炊きの鍋料理とオードブルの中華料理を前にして、二人の孫たちの旺盛な食べっぷりを見たり、娘夫婦たちと何気ない語らいをしたり、昼食後には孫Hが好きな「ワードバスケット」というカードゲームを皆で楽しくしたりすることができたので、「本格的な読書をするのは明日からにしよう。」と割り切った。

 

 ところが、急遽、二女たちが一泊することになり、三日の午前中は松山空港の近くの児童公園へ行くことにした。そこは我が家から車で約15分の場所にあった。車内で退屈する暇もなかった孫Mは、始め滑り台が複数設置している大型遊具を見て少し不安そうな表情になったが、私が一緒だと喜んで滑った。ところが、一人で滑るのは嫌だと言う。服の着替えや食事等は大人の介助を拒み、自分でやりたがる普段の生活態度とはイメージが違う。初めての場所や経験に対しては、慎重になるタイプかもしれない。Hと比べて普段接することが少ないので、適切な対応ができないのが悔しい。無理なこととは知りながら、祖父としてもう少しは関わってやりたいと思う。「だから、今はMと遊べるこの僅かな時間を大切にしよう。読書は今夜から本格的にやろう。」

 

 ということで、私が本書を本格的に読み始めたのは三日の夜から。でも、四日は今年の仕事始めだったので寝床で前夜の続きを読み、年休を取って自宅で過ごした今日やっと読了した。とはいうものの、著者の岡本氏と私は同い年なので勝手に親しみを感じ、また平易な文章表現だったこともあり、老年の私の頭にも内容がすっと入ってきた。そこで今回は、その内容の主旨とともに私の心に深く刻まれた事柄をまとめて、最後に私なりの簡単な所感を付け加えてみたい。

 

 本書は、「ポスト近代」の入り口にさしかかり、「人生100年時代」という長寿化社会が到来しつつある21世紀の現代において、「老い」をどうとらえたらいいのか、哲学的に考えるために書かれたものである。本書の内容の主旨を私なりに素描すると、次のようになる。

① 老人問題を考える際、「権力のアリ、ナシ」と「仕事のアリ、ナシ」という2つの軸で分類する必要があり、「老いの生き方」で問われるべきは老人の新しい4分類の中の「長老(パワー老人)」や「資産家老人(プレミアム老人)」ではなく、「再生老人(リサイクル老人)」や「廃品老人(スクラップ老人)」である。

② 近代における「若者=未来志向型、進歩主義」対「老人=過去志向型、伝統主義」という発想そのものの妥当性が失われつつある今、ポスト近代社会に応じた働き方や生き方が必要になる。

③ 「規律社会」と呼ばれるパノプティコン時代の近代社会の次に来るのは、「管理社会」と呼ばれるポスト・パノプティコン時代のポスト近代社会であり、そこでは閉鎖空間を境界づけていた線がことごとく消滅し、社会全体が液状化している。

④ 「老い」に対して、プラトンは肉体的な欲望から解放されて精神的な欲望や楽しみが増えると見なし、アリストテレスは肉体とともに精神も衰退すると見なしたが、その相違は彼らの出身に由来する。

⑤ キケロセネカが「老い」を称賛したのは、彼らが「老人政治」のスポークスマンだったからである。特にストア派セネカは「老い」を自然なものと受け入れていたからである。

⑥ 前近代において「老い」は社会の問題であったが、近代になると個人の問題へ変化して忌み嫌われるようになった。近代人は、老いていく自分自身を見つめ、どう生きていけばいいか、悩むようになった。

⑦ モンテーニュの「老い」に対する指針は、「人生を楽しむ」ことである。

⑧ パスカルの「人間死刑囚論」を敷衍すれば、「老い」においても「気晴らし」を見つけることが課題になる。

⑨ ショーペンハウアーにとって生きる上での最高原則は「苦痛を避けること」なので、「老い」においては「健康」と「金銭」を重視することになる。

⑩ ニーチェは人生の「否定」から「肯定」へと転向し、超人となることを強く主張した。

⑪ サルトルにとっての「老い」は「対他存在」としての在り方なので、彼は自由で実存的な「対自存在」としては「年寄り」だとは感じていなかった。

⑫ フーコーが提示した「生存(実存)の美学」は、老年期において「自分の人生をひとつの芸術作品に仕上げる」ことこそが探究すべきことであると示唆している。

⑬ 九鬼周造の「いき」な生き方こそが、「老い」の生き方なのではないか。

⑭ アルキメデスの「エネルゲイア」はまさに「幸福に暮らすこと」や「楽しく生きること」であり、サルトルの思想である「キーネーシス」とは対立するものである。

⑮ 社会のシステムは近代における「ツリー(根づく)型」からポスト近代における「リゾーム(広がる)型」へ変化し、それに伴って人のライフスタイルも「定住民型」から「ノマド型」へと変化している。

⑯ マルクーゼにとって「仕事が遊びになる、あるいは遊びが仕事になる」ことは現実のものであった。

⑰ イリイチが提唱した「コンヴィヴィアル」という概念は、ポスト近代社会において理想となる生き方のヒントになる。

⑱ テクノロジーの進化は、人間のサイボーク化を進めたり、バーチャルの世界で遊んだりすることを可能にするので、これから高齢を迎える人の生き方を左右する。

⑲ 老人の分類軸を使うと若者も新たな4つの分類ができるが、現代社会においては「エリート若者」「セレブ若者」「キャリアアップ若者」は少数派であり、「使い捨て若者」が多数派になるという分断が起きている。

⑳ 老人は若者の未来が透けて見えるものなので、それに対応した社会的組織や制度をできるだけ早く作り直さなければならない。そのためには、老いも若きもいかにして「コンヴィヴィアル」な生き方ができるかがこれからの時代のテーマになる。

 

 以上、本書の内容の主旨をまとめてみたが、この中で私の心に強く刻まれた内容は⑰と⑳に関したものである。つまり、「コンヴィヴィアル」な生き方というキーワードである。この「コンヴィヴィアル」という概念は、前述したように『脱学校の社会』を著したイリイチが近代の産業主義時代の終焉を見据えて発想したものである。この言葉自体は、ラテン語のcon(ともに)とvivere(生活する)を組み合わせたもので、「一緒に暮らす、ともに生きる」という意味を持っている。また、「食事やお酒が介在した会食や宴会」という意味にもなる。したがって、それらは当然、楽しい場になるので「ともに楽しく生きる」と訳してもいいのである。

 

 ポスト近代に向かいつつあるこの時代にあって、「ともに生きて、ともに楽しむ」ことが、基本的な人生のスタイルなのではないかと主張している著者の考え方に、私は全面的に賛意を表する。ただし、著者も言うように「ともに」とは単なる一緒ではなく、“多種多様”であることが肝要である。“多様性”が保障されてこその「ともに」なのである。ところが、現在の多くの老人施設は「老人限定」であり、過去の「老人隔離」の延長上にあり、いつまでも「姥捨て山」のイメージが払拭されていない。また、「老人」だからといって「老人」だけと付き合うわけではなく、子どもに何か教えたり若者に何かを教わったりすることもある。さらに、職場では年齢とは関係なく誰とでも一緒に仕事をしなくてはならないこともあり、様々な年齢の人や立場の違う人と多様な関係を取り結ばざるを得ないのである。

 

 「廃品老人」や「使い捨て若者」等という厄介者叩きに終始するのではなく、「コンヴィヴィアリティ」=「ともに生きることを楽しむこと」を構築していくことの方が、はるかに魅力的で愉快なことであり、人生をより豊かにしていくことに繋がる。今年で古希を迎える私にとって、人生の残り時間がどれくらい残っているか分からないが、生きている限りこの「コンヴィヴィアル」な老いの生き方をどのように具現化していけばよいか真摯に考えながら、「今、ここ」の一瞬一瞬を大切にして暮らしていきたい!