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「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育の意味と価値について~神代健彦著『「生存競争(ザバイバル)」教育への反抗』から学ぶ②~

 前回の記事で、「ポスト近代型学力」と言われるコンピテンシーの世界的流行を受けて、日本の教育課程が独自のコンピテンシーとして提起した<資質・能力>の内実について、本書から学んだことを基に綴った。そして、この社会の要請に愚直に応えようとした<資質・能力>の教育課程は、「真の教育」「純化された教育」とすら呼んでもよいほど理想的なものである半面、その<資質・能力>としての子どもというのは「理論値」すり切りいっぱいの子どものことであるから、うまく学び得ない子どもをふるい落としながら進む、巨大な選抜機械に変質していきかねない問題点を抱えていることを指摘した。

 

    では、著者はこの問題点を克服する方策をどのように構想しているのだろうか。そこで今回は、そのオルタナティブな方策の基本的な考え方と具体的な内容等についてできるだけ簡潔に要約しつつ、私なりの所感を付け加えてみたいと思う。

 

 結論から述べよう。著者は、<資質・能力>論において見失っている、学校教育ができること(教科を介して「いま・ここで」しっかりと世界に出会わせ、子どもたちにこの瞬間を充実させること)へのタクス・フォーカスが必要だと主張している。ただし、このことは従来の「教科を学ぶ」授業のことを指すのではなく、各教科がもっている世界の把握の仕方や世界とのかかわり方(構造)をしっかり整理して、それを確実に子どもたちに身に付けさせるような「教科する」授業を構想している点を見逃してはならない。つまり、従来から批判されている「悪しき教科主義」による教科教育の実態を擁護しようとしているのではないのである。

 

 もう少し詳しく著者の構想する方策について説明していこう。そのためには、どうしても著者の方策に大きな影響を与えている、オランダ生まれの教育学者G・J・J・ビースタの議論の中身について概説する必要があるので、読者の皆さんにはお付き合いしてほしい。

 

    ビースタは主張する。「コンピテンシー教育論はそもそも学習論であり教育論の名に値しない。そしてその学習論は子どもたちを、与えられた環境を自律的に掃除して回る『ロボット掃除機』のレベルに貶めている。」と…。その真意とは、<資質・能力>としての子どもたちは、社会で必要とされる役に立つスキルを学習する場としての学校教育に「適応」することを通して、最終的にはこの社会そのものに「適応」していく、ロボット掃除機にほかなにないと言うのである。さらに、彼は(ロボット掃除機のように)閉じられた社会に対して適応的に生きる/学ぶだけではない人間の在り方・生き方をこそ、「主体であること」と名付け、その可能性の条件についても論じている。

 

 「人間はほかの動物と同じように自律的に社会に「適応」することができることを認めつつ、ほかの動物とは違って他者から教えられることにより、目の前の社会に「適応」するという営みをいったん中断して別様に考え生きることもできる。だから「教える」ということは、ロボット掃除機を『主体』であることへと導くことにほかならない。」…このように彼は言う。つまり、必要とされるのは「教えることの再発見」なのである。

 

    具体的には、世界やそれを構成する概念(むき出しのコンテンツ)を、それとして提示することである。これは、子どもにとっては既知のものへとスムーズに置き換え処理できないものとの出会いである。子どもはここで、自らの理解に服さない(分からない!)という世界の側からの「抵抗」を経験する。彼は、このような「抵抗」に出会い、学習(適応)を「中断」された子どもは、自分自身がもつ「学習(適応)したい」とい欲望の存在に気付き、その欲望それ自体の吟味を始めると言う。この事態を彼は「停止」と呼ぶ。

 

    しかし、これは子どもにとって極めて不安な状態になる。そこで、子どもは不安に耐えかねて再び「適応」に没入するか、逆に世界の「抵抗」から逃げ去ろうとするかという選択肢の前に立つ。そのような子どもに対して、「教える」とはどちらの選択肢も取らせずにその状態を「維持」するということだと、彼は続けて言う。「分からなさに耐えて、分かろうとすること」を子どもに強いるのである。この時、世界は子どもが一方的に理解する対象(社会)ではなく、むしろ向こうから呼びかけてくるもの、その意味で正しく「対話」の相手となる。ここに彼は、「学習」の促進に還元されない「教えること」の意味を再発見する。そして、この「教えること」「教えられること」を介して、世界と対話するようになった子どもこそ、彼は「主体」と呼ぶのである。

 

 「主体」であるとは、社会の一部になることではなく、他者としての世界に出会い、それと一致してしまうのではなく、「ともに在る」ことである。そのために必要なのは、社会への適応力を引き出すコンピエンシー学習論ではなく、「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論なのである。そんな子どもと世界を出会わせる仕事としての「教えること」の再発見こそが、ビータスの提案なのであり、著者の構想する方策の具体化なのである。

 

 この「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の価値は、「教える」まさにその瞬間、子どもを「中断・停止・維持」のなかにつなぎ留めること、世界(コンテンツ)と出会わせること、つまりは子どもを「主体」とすることそのものにある。これこそが、著者が構想するオルタナティブな方策なのであるが、私自身は現職時にこのような「環境や他者との相互作用を尊重する中で、子どもを主体として育てていく」教育論に立つ授業実践を行ってきた自負があり、その意味では今更という気がしないでもない。しかし、その理論的な意味付けはまだ不十分だったと反省している。

 

    そこで次回は、経済学的な知見を基にして「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の理論的な意味付けについて、著者が提案していることを要約してみたいと考えている。なるべく分かりやすく綴りたいと思うが、果たしてうまくできるかどうかわからないが、しばらくお待ちいただければ幸いである。