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新学習指導要領の<資質・能力>という概念を問い直す視座について~神代健彦著『「生存競争(サバイバル)」教育への反抗』から学ぶ①~

 新年が明けて一週間が過ぎ、我が市にも今季最大の寒波が襲ってきて、日中珍しく小雪が舞った。振り返れば、元日は予想したほどの厳寒にはならず、日中はわずかに暖かい陽光が差していた。そんな好天のお昼過ぎに、二女夫婦が新年の挨拶に我が家を訪れてくれた。私たち夫婦と共に四人で、妻手作りのおせち料理を味わいながら、2月に誕生予定の第1子に付ける名前についての話題で盛り上がった。前々回の記事でも触れたように、二女の夫はお腹が大きくなった妻を労わり、私たち義父母に対しても何かと気遣いをしてくれ、私は新年早々に爽やかな気持ちになった。そして、二女夫婦が帰った後、私はお屠蘇気分のままで書斎の机の前に座り、年末に読みかけていた『「生存競争」教育への反抗』(神代健彦著)の「第2章 教育に期待しすぎないで」から読み始めた。すると、著者の教育に対する考え方の独創的な視座の面白さに惹かれて少しずつ読み進め、この一週間で二度読み直した。

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 「そうか。私は新学習指導要領の<資質・能力>という概念に何の疑いもなく賛同していたが、この本はその概念を問い直す視座を提示しているんだ。これは、確かに問い直す必要があるなあ。」昨日、二度目の読了後、本書をそっと机の上に置きつつ、私は自分に言い聞かせるように呟いていた。

 

 そこで今回は、本書で提示されている新学習指導要領の<資質・能力>という概念を問い直す視座について要約しつつ、私なりの所感を綴ってみたいと思う。ただし、私の力量では著者の考えを的確に要約することができないかもしれないので、本記事を読んで多少でも興味をもった方はぜひ本書を直に手にして、自分の目と頭で確かめることをお勧めしたい。

 

 さて、私は今までの当ブログの記事の中で、本年度から小学校で全面実施されている新学習指導要領の趣旨や内容等を肯定的に受け止めて、特に「問題解決力」の育成を目指した「主体的で対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)という学習論、また「カリキュラム・マネージメント」という教育課程の編成・実施・評価論等の考え方に賛同する立場から、それらのよりよい実施の在り方について言及してきた。しかし、この教育課程の目的・目標として重視されている学力観に基づく<資質・能力>という概念や内容等について、具体的かつ詳細に触れることはなかった。その理由は、私が現職時に大切にしてきた子どもの立場に立った教育観や学習観等から見て、それらの概念や内容等は望ましいものとして受け入れ当然視していたからである。

 

 ところが、私は本書を読んで、日本の学校の教育課程において<資質・能力>という概念や内容等を設定した背景には、1990年代にOECD現代社会に適合した能力概念を定義するために組織したプロジェクトDeSeCoの報告書において提言された「キー・コンピテンシー」という能力概念があったことを詳しく知り、改めてその根本的な考え方について再認識する必要性を強く感じた。

 

 そもそも「キー・コンピテンシー」とは、「これからの社会をよりよく生き得る個人」であり、かつ「これからの社会がよりよく機能するために必要な人材」でもあるような人間を、能力という観点から定義したものである。そして、日本の学校の教育課程がコンピテンシーの世界的流行を受けて、独自のコンピテンシー概念として提起したのが、「ポスト近代型能力」と言われる<資質・能力>である。その内実は、2016年の中央教育審議会答申で示された次の三つの柱である。

 

① 「何を理解しているか、何ができるか(未来に働く『知識・技能』の習得)」

② 「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる『思考力・判断力・表現力等』の育成)」

③ 「どのように社会と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする『学びに向かう力・人間性等』の涵養)」

 

 これら三つの柱によって構成される<資質・能力>を育てることが、新学習指導要領で示された教育課程の目的・目標として重視されているのである。このように普通の意味での「能力」に加えて人格的な要素をも含み込んだ<資質・能力>とは、ある種の「力」としてとらえられた「まるごと」の子どもなのである。したがって、<資質・能力>は学力を「子どもの発達の道筋」に即して再定義したといえる。

 

 ここで重要なのは、この〈資質・能力〉論は、「白紙」としての子どもに教師が知識や技能を教え込むという教育観を拒否して、子どもが本来もっている学ぶ力(方法知としての資質・能力)を重視している点である。また、その学ぶ力が学ぶこと(対象の内容知の獲得)によってますます引き出され卓越化していくという、子どもの自律的な自己教育/学習の運動を強調する点である。さらにそこには、子どもが自律的に自身の学びを自己調節していく働きとしての「メタ認知」も含まれている。つまり、子どもは何かを学ぶと同時に、学び方を学ぶのであり、その意味でこの<資質・能力>の教育論は子ども中心主義の教育なのである。著者は、このような〈資質・能力〉が描く教育/学習論のことを、「真の教育」「純化された教育」とすら呼んでもよいと述べており、私も著者と同様な受け止め方をしていた。

 

 しかし、<資質・能力>の教育論に対して、著者は次のような問題点を指摘している。それは、社会の要請に愚直に応えようとしてあまりに純化・高度化した教育論は、子どもという存在、あるいは人間というものの可能性を、あまりに高度に想定しているという点。つまり、<資質・能力>の子どもには「前進/向上/増大/高度化」のみがあって、現実の子どもの実態として見られる「後退/停滞/減少/以前に出来たことができなくなる」ということが想定されていないのである。だから、〈資質・能力〉を目的・目標とする高度な教育課程は、うまく学び得ない子どもをふるい落としながら進む、巨大な選抜機械に変質していきかねない。言い換えれば、<資質・能力>の教育システムは、たまたま生まれつき資質・能力の初期値が高い、救世主/自己責任の「小さな企業家(アントレプレナー)」を見つけ出すための巨大な選抜機械以外の、何ものでもなくなってしまうのではないかということである。

 

 私は、上述の問題点を指摘され、ドキッとした。それは、以前から薄々意識していたことだったからである。そうなのだ!予測不可能な未来社会にフレキシブルに即応して、「個人の人生の成功」と「うまく機能する社会」を共に実現する<資質・能力>としての子どもというのは、「理論値」すり切りいっぱいの子どものことであり、ある意味で理想的な一握りのエリートを想定しているのではないか。これは、現在、様々な角度から批判されている「格差社会」を前提にしてしまっているのではないか。私は唸ってしまった…。

 

 では、このような<資質・能力>論、つまりコンピテンシー教育論の問題点を克服する方策はないのか。本書において著者はこの方策についても語っている。次回は、この点に言及した記事を綴ってみたいと考えている。乞うご期待!