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「自閉症」の本質をどのようにとらえたらいいのか?~滝川一廣著『「こころ」の本質とは何か―統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ―』を再読して~

 学校生活において困り感を抱いている子どもに関わっている先生方やその子の保護者に対する「教育相談」を行うことが、今の私の主な職務内容である。したがって、まず対象児が抱いている困り感の実態を知るために、在籍している保育所や幼稚園・小学校・中学校等へ出掛け、学校生活(特に授業)の様子を参観させてもらって観察記録を取ったり、先生方から対象児の成育歴や生活の様子等について聞き取り調査を行ったりする。次に、それらの記録メモと、家庭や学校から提供された各種検査結果等の資料等を整理しながら報告書にまとめる。また、その作業をする中で対象児の困り感の内実を把握し、その原因や理由等について考察する。さらに、その原因や理由等に基づいて困り感を解消する手立てを考える。特に対象児が何らかの「障害」をもっている場合は、その「障害」の特性やそれに応じた対応の仕方等について改めて学習を深めた上で、対象児の困り感を解消するために先生方や保護者が講じるとよい具体的な手立てを考える。そして、以上のような手順を踏んだ後、実際に「教育相談」に臨むのである。

 

 私がこの3週間ほどで実際に学校現場へ出掛けて、対象児の学校生活の様子を参観したのは4件で、その内「教育相談」まで実施したのは2件である。1件の「教育相談」を2名以上の特別支援教育指導員が担当し、経験年数の長い者がメインで、短い者がサブになるので、私はまだメインの立場で「教育相談」を実施してはいない。今のところ記録を取ったり、報告書を作成したりする補佐的な業務を行っているだけである。しかし、気持ちとしてはメインの立場と同様の課題意識をもって具体的な手立てを考え、事前打合せでは私の考えを積極的に提言している。このような業務の中で、私は「発達障害」の本質について深く理解することが必要だと強く感じ、過去に読んだ「発達障害」や「特別支援教育」に関連する本の中で特に重要だと思った本を再読しようと考えた。その本の一冊が、今回取り上げる『「こころ」の本質とは何か―統合失調症自閉症不登校のふしぎ―』(滝川一廣著)である。 

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 そこで今回は、私が今一番関心をもっている「自閉症」の本質について、本書から学び直したことをまとめながら私なりの簡単な所感を付け加えてみようと思う。と言うのは、私がこのわずか3週間で直接関わった「教育相談」の対象児の中に、「自閉症スペクトラム症」と医師から診断された子や私たち指導員が類推した子もいたので、現実的な必要感に迫られたことが背景にあるからである。

 

 本書は、精神科医の著者が正統精神医学(人間の「こころ」の世界や「こころ」の失調を、できるだけ脳の生物的な仕組みにおいて理解しようとするもの)の立場ではなく、力動精神医学(失調を「こころ」そのものの問題として、できるだけサイコロジカルな、心理・社会的な仕組みにおいてとらえようとするもの)の立場から、統合失調症自閉症不登校という三つの「ふしぎ」を取り上げて「こころ」の本質に迫っている好著である。この力動精神医学の立場とは、精神疾患という「こころの病」を深く見ていくことで、どこかで「こころ」の本質を解く鍵が見出されるのではないかという人間学精神病理学の立場ということになり、私自身が今まで大切にしてきた人間観と共通するものである。だから、著者が本書で示した見解について概ね共感することができたのである。

 

 その中でも特に「自閉症」に関する見解は、初読の時には十分理解できにくかったところが、今回再読してみて私なりに深く理解することができ、さらに強く共感した。きっと「自閉症」の本質について知りたいという私の気持ちが強かったからであろう。本を読むという営為にとって、読み手の課題意識の高さがいかに大切かということを、私は改めて実感した次第である。

 

 では、私が学び直した著者の「自閉症」に関する見解の概要をまとめてみよう。

 

 著者は「自閉症」の学説そのもの辿って、「自閉症」とは何かを考えていくことから始める。まず、1940年代から50年代にアメリカの児童精神医学者カナーは、「自閉症」を統合失調症の最早期に発病したものだと考え、対人交流の障害、社会性の障害を共通項に統合失調症との関連を追究していったのが最初の流れである。次に、60年代に入ると、「自閉症」を環境との関連において検討していこうとする環境論的な研究の流れが出てくる。その観点は、「カナーの家族論」「統合失調症の家族研究」「ホスピタリズム研究」「精神分析学」「反精神医学」の5つに概ね整理される。それぞれの内容の解説について詳しく知りたい方は、ぜひ本書を手に取っていただきたい。しかし、残念ながらこれらの研究は原点がまちまちだったため、単に百家争鳴に終始して混沌を極め、それぞれの問題意識が互いに突き合わされて検討され、ポイントが絞られていくには至らず次第に挫折していったのである。

 

 このような動きを背景に70年代の学説転換を主導したのは、イギリスの児童精神医学者ラターであった。彼はカナーとは違い、「自閉症」と統合失調症とのつながりを否定し、それまでの「自閉的孤立(社会性の障害)」を基本的な症状とした「自閉症」理解を捨て、「言語の障害」こそを基本的な症状とみなす新たな理解へと180度の転換を図った。具体的には、「自閉症」は「発達失語」(現在、「発達性言語障害」)にこそ近縁した障害、またはそれに連続性をもつ障害ではないかという仮説を彼は立てたのである。そして、彼は様々な実証研究に取り組み、その結果として「言語認知障害説」或は「認知障害説」を唱えたのである。

 

 このラター学説は、研究方法の客観性とデータ的な実証性を備えていた斬新なものだったので、多数の研究者から支持された。確かに「一般的理解」「絵画配列」等におけるアンバランスな落ち込みの実証には優れた業績を残した。しかし、それを「自閉症」固有の認知欠陥で、これが基本的障害だとした解釈は実は非合理なものであった。その後「自閉症」に関する様々な生物学的な病理所見や既往症が見出され、それらの相互矛盾が露呈してきたのである。結局、80年代に入り、彼が「自閉症」の本態とした抽象能力・概念形成の障害が、なぜ極めて早期から見出される対人交流の大きな遅れを「二次的」にもたらすのかが、うまく説明できないことに誰もが気付き始め、彼自身も自説を潔く撤回してしまったのである。

 

 こうして80年代半ばから90年代にかけて、「自閉症」研究は、社会性の障害、情動的な対人交流の障害を改めて中心的問題ととらえ直して、それをどうとらえるかに回帰していくことになる。この新しい研究の成果の一つが、ラターの弟子であるボブソンの「感情認知障害説」である。彼は、「自閉症」は人間の表情を読み取って感情をキャッチする能力に欠陥があると結論付けた。これに対して異論を唱えたのが、もう一人の弟子であるバロン=コーエン。彼は、対人交流には相手がどう考えているかの判断が必要なのにその能力に欠陥があるために、社会性の障害が起きると考える「心の理論障害説」を唱えたのである。この学説は、ラターの行き詰まりを打開し、社会性の障害の謎を解いたものとして注目を浴び、目下(本書が発刊された2004年頃)、「自閉症」研究の先端をリードするものとなっている。

 

 しかしながら、この学説に対しても様々な疑問が出されており、その疑問にバロン=コーエンとその研究グループは十分な答えを出していないように思うと、著者は指摘している。いくら方法を細密化しても、方法の実証性は解釈の妥当性を保証しないのである。ここにこの学説だけでなく、ラター以降、現代の「自閉症」研究がぶつかり続けてきた壁があると強調している。

 

 そこで著者は、ここから自分なりの考えを披露する。著者は、ラターからボブソン、バロン=コーエンまでの理論の筋立ては、正統精神医学の理念(人間の精神機能は合理的であるはずで、それがしかるべく発揮されないとすれば脳に何か異常が潜んでいるはずだという理念)に立っているため、「自閉症」が障害である以上、どこかに非連続的な異質性(異常性)があるという前提が先にあると言う。だから、分類上は「自閉症」を「発達障害」に位置づけておきながら、「精神発達」という連続性をもったプロセスの中でとらえようとする発達論の視点が欠けていると指摘している。人間の「こころ」の世界は、個体の外に広がる共同的な関係世界を本質としており、その共同性を獲得していく歩みが「精神発達」である。個体の脳の内側だけでは、他の人と社会的に共有できる認識や行動の獲得は不可能である。既に「こころ」の世界の共有を成し遂げている大人たちとの不断の交流があってはじめて、生まれ落ちた子供は共有可能な、共同的な認識の在り方や行動様式をみずからも獲得していけるのである。この人間の精神機能がどのようなプロセスで獲得されるのかの発達論的な吟味を怠るところに、現代の主導的な「自閉症」研究の弱点があり、そのため実証から解釈への思弁が逆立ちになると、著者は厳しく批判している。

 

 これらの考察の結果、「自閉症」の本質とはカナーが最初に記述した「自閉的孤立(孤立的な精神生活)」、すなわち関係の発達に遅れがみられることであると、著者は断定している。この関係の発達の遅れが、認識の領域から社会性の領域にいたる広汎な発達の遅れをもたらすのは、人間の精神発達が個体の外にひろがる社会的文化的な共同性を本質としているためなのである。だから、「自閉症」の問題は、「関係の発達に大きく遅れる子どもたちが生ずるのはなぜか?」の問いに絞り込まれるのである。

 

 なぜ、関係の発達が遅れるという現象が起きるのか。それは、何度も述べたように人間の精神機能は社会的文化的な共同性を生まれた後に獲得していくからである。子宮内では未知であった共同世界を認識していくには時間がかかるように、つながりがなかった共同世界と関係を培っていくのにも時間がかかる。そして、そこには必然的に個人差(個体差)がある。では、この個人差は何で決定されるかというと、生物学的(遺伝子的)にも環境的にも非常に多数の因子の重なり合いによって決まっていくと考えられる。したがって、関係性(社会性)の獲得の度合いは、高い者から低い者まで幅広い連続的なひろがりをもち、正規分布というあくまでなめらかな連続的な分布をなすはずである。この連続的な分布において、大多数が集まる平均水準から低い側に大きくずれているものを私たちは「自閉症」と名付けたのだと考えられる。しかし、ずれてはいても、あくまで連続線上の相対差であり、ここまでが「正常発達」、ここからが「自閉症」と分ける絶対的な境目はない。こうとらえるなら、かくべつ病理性がなくても、自然の個体差として関係の発達が平均水準を大きく下回る者が一定の頻度で生じても不思議ではない。これを「生理群」と呼んでもよい。また、何であれ脳に生物学的なハンディキャップがあれば、それらは発達の足を引っ張る負荷要因になるから、関係の発達に遅れをもたらしやすくなる。これを「病理群」と呼んでもよい。このように考えれば、脳局在論的な生物学研究の入り込んだ迷宮を抜け出せるのではないか。著者の「自閉症」に対する見解の概要は、以上のような内容である。

 

 現在の「自閉症」研究では、重い自閉症からアスペルガー症候群までを一つのつながりの連続スペクトラムとみる見方、つまり「自閉症スペクトラム」という見方をしている。しかし、著者によると「自閉症」群だけを切り離して、その内側だけでしか連続性をみていない点に誤りがあると指摘し、「自閉症」も「精神遅滞(知的障害)」も「正常発達」も、全てが一つつながりの「発達スペクトラム」の上にあると考えるべきだと主張している。私は、今回本書を再読しながら「自閉症」の本質について学び直した中で、著者の説くこのような発達論的な見方の重要性を再認識した。だから、今後はこのような発達論的な見方に立って、「自閉症」だけではなく全ての「発達障害」の「こころ」の世界について理論的にも実践的にも真摯に追究していこうと決意した次第である。