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「がんばればできる」という不自由!~浜田寿美男著『心はなぜ不自由なのか』から学ぶ~

   「やればできる!」

    最近、テレビによく出演しているお笑いコンビ「ティモンディ」の高岸が連発するキャッチフレーズである。このフレーズのルーツは、高岸の母校・済美高校の校歌の中にある、『やればできるは魔法の合言葉』という歌詞である。元高校球児の高岸が、試合に勝って校歌を歌う時にこの歌詞に励まされていたことから、様々な人を応援するという意味を込めてこのフレーズを使っているらしい。

 

 確かにこのフレーズはとてもポジティブであり、困難なことに出会って逡巡している人々の背中を押してくれる言葉である。「やる」「やらない」は個人の自由であるが、何かを成し遂げようとするなら、まず「やる」という行為を選択する必要がある。もちろんこの「やる」という行為は、「がんばる」という意味を含んでいると思うので、その意味で何かを成し遂げるための必要条件になる。しかし、十分条件ではない。つまり、「がんばってもできない」ということも起こり得るからである。そう考えると、「やればできる!」は、「がんばってもできない」人にとって、大きなプレッシャーを与える言葉ではないだろうか。

 

 このようなことを考えていた私が、「我が意を得たり」と思うような内容の本と出合った。『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男著)である。発達心理学や子ども学、また供述分析等を専門にしている著者の浜田氏については、当ブログの今までの記事の中にもその著書を取り上げてきた(2019.3.26付『「私」とは何か―ことばと身体の出会い―』、2020.3.20付『子どもが巣立つということ―この時代の難しさのなかで―』)ので、ご存知の読者の方もいると思う。私にとっては、著書によって「発達」という概念を深く理解する道案内をしてくれた恩師のような方である。

 本題に入る前に、本書の全体の内容について簡単に紹介しておこう。本書は、評論家の小浜逸郎氏や佐藤幹夫氏らが主宰する連続講義「人間アカデミー」第3期(2003年9月~2004年7月)において、著者が『「私」はどこまで自由か』というテーマで全3回講義した記録をもとに編纂されたものである。第1回が<取調室のなかで「私」はどこまで自由か>、第2回が<この世の中で「私」はどこまで自由か―関係の網の目を生きる「私」―>、そして第3回が<「私」はどこまで自由か―さまざまな「壁」を生きる「私」―>というサブテーマになっている。本書は、それらを章立てにしたような構成にしているので、まるで自分が聴衆になったような臨場感を味わいながら読むことができる。

 

 さて、私が「我が意を得たり」と思った内容は第3回の講義内容であり、それまでの講義内容を踏まえているものなので、ざっとおさらいをしてみよう。第1回の講義は、無実の人が取調室で虚偽の自白をしていく過程を追いかけて、その中で何が起こっているのかを考え、第2回は、四肢欠損の女子学生の羞恥心を例に、人が世間の目に縛られていく過程とその意味を考えている。そして、これらの講義の中で著者が強調していることは、「神の視点」からは選択肢が開かれているようでいても、「生身の視点」から見れば、自分の心情の中に現実の他者との関係が絡みついていて、それを自由に左右することができないということ。つまり、不自由とは、「観念の上では選択肢があると見えて、現実の中ではそれを選べない状況に置かれること」なのである。

 

 第3回の講義では、これらを人が知らぬ間に取ってしまう視点として、「身体の視点」「他者の視点」「神の視点」の3つに整理し、その解説をしている。簡単に要約すれと、まず「身体の視点」とは、諸感覚とか姿勢や運動の行為とか、他者との関係を生きる情動の広がりとかを含む、私たちが「生身」をその内側から生きているという視点。次に、「他者の視点」とは、私たちは他者と出会うと、その身体のうちに、そこから生きている他者の主体性をおのずと見てしまうという視点。さらに、人間はこの2つの視点を超えて、自分を完全に外へ押し出し、この時空世界の中に自分を俯瞰的に位置付けることができるようになる。これこそが3つ目の「神の視点」。そして、人間はこれら3つの視点を絡み合わせながら生きているのであるが、特に「神の視点」をもったことによって不自由、自由の問題が起こってくるのである。

 

 著者は、自由とは「しようとして実際にできること」、不自由とは「しようとして実際にできないこと」と定義し、この「しようとして」という時、その思いの前提には「できるはず」という観念的な選択肢があって、この「観念的な選択肢」には「神の視点」が入り込んでいると述べている。そして、「何かをしようとしてできないこと」を“第一の不自由”と呼ぶとすれば、「できないと分かったうえで、当初したいと思ったその思いそのものを自分でコントロールできないこと」は“第二の不自由”と呼ぶことができるとも述べている。

 

 著者がこの2つの“不自由”の例として挙げた一つが、私が「我が意を得たり」と思った内容である。それは、親が子どもの発達に対して抱く期待と、子どもがその期待通りに発達していかない現実との間にギャップが生じる場面である。特に発達に軽度の遅れがあるような場合である。親は頭の中で観念的に描いた発達像があり、それに沿って「一歩でも半歩でも」前に進んでもらわないといけないと思って、いわば発達脅迫の状態になってしまう。「がんばればできる」という選択肢が目の前に提示されると、とにかくがんばらないといけないというふうになる。そこで、がんばってできればいいのであるが、がんばってもうまくいかないこともある。これが“第一の不自由”。ところが、この現実を突きつけられて、なおこれを引き受けられないことがある。これが“第二の不自由”。これに対してどうするかを考えておかなければ、「一歩でも半歩でも」前に進まなければならないという強迫観念に引き回されたまま、しんどくなってしまうのである。

 

 では、どうすればよいのだろうか。著者は、人間も自然の一つだから、「できるはず」という「神の視点」を降りて、これはそうそう簡単に左右できないとして断念できれば、“第二の不自由”に振り回されずに、もう少し楽にやっていけるのでないかと述べている。また、障害の受容に関して、「差別はいけない」などと「神の視点」から諭してもどうなるものでもない。生身の人間同士が張り巡らしている関係の網の目が、障害を締め出しているのだとすれば、そこをまた人間同士の具体的な関係の中で編み直すという生身の努力からしかはじまらないのかもしれないと続けている。

 

 その通りだと思う。私は今、特別支援教育指導員という立場で何らかの困り感をもっている子どもの教育相談を行う際に、その保護者や担任の先生の中には「がんばればできる」という「神の視点」を強固に主張する方と出会うことがある。それでは、何らかの困り感をもって苦しんでいる子どもは、ますますその苦しみが大きくなってしまうのである。特に発達障害をもつ子どもには「がんばってもできない」苦手なことがあるのだから、「がんばればできる」と言って励ますことでさらに苦手なことを強いることになり、ますます自己肯定感を低下させてしまうのである。

 

 「やればできる!」というフレーズが流行して、多くの大人が何らかの困り感をもつ子どもたちの背中を押すことは、全てよい結果を生むだけではなく、中にはそのフレーズで苦しみを増してしまう子どももいることを理解してほしい。一人一人の子どものもつ特性や性格等をよく把握してから、背中を押してもよい子どもだと判断する場合にだけ「がんばればできる」という言葉を掛けてほしいと思う。そのためには、できるだけ多くの人に発達障害について正しく理解してもらうことが強く求められるのである。