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教育相談における「エビデンス」の問題について考える~國分功一郎・千葉雅也著『言語が消滅する前に』から学ぶ~

 12月中旬に、昼休みの時間を利用して散歩がてら職場近くの大型書店へ出掛けた際に、興味深い本を見つけた。それは『言語が消滅する前に』(國分功一郎・千葉雅也著)というちょっとショッキングな書名の新書版だった。私の手は自然と伸びて、本書の目次ページをめくっていた。第一章は國分氏の著書『中動態の世界―意志と責任の考古学―』、次いで第二章は千葉氏の著書『勉強の哲学』の各々の刊行記念対談を活字に起こしていることが分かり、「読んでみたい!」という強い欲求が高まった。さらに、目次ページを捲って「第五章 エビデンス主義を超えて」を見た時に、「現在の私の課題意識と重なっている!」と直感し、本書を購入しようと即決した。それから、暇を見つけては少しずつ読み進め、やっと私にとっての年末休暇に入った昨日、読了した。

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 本書は、2017年以降の両氏の5つの対談が収められているのだが、事前に一貫したテーマが設定されていた訳ではなかったそうである。ところが、5つを合わせて読み返してみると、二人がずっと「言語」を論じていたことが分かり、しかも一貫して「言語の消滅」に対する危機意識が読み取れたので、一冊の本にしようという企画になったらしい。哲学界の若き俊英たる両氏の対談に、私はついつい引き込まれていってしまった。「人間は言語に規定された存在である」という20世紀の哲学の前提が、21世紀に入って危うくなっていることを、様々な事象を多面的な角度から読み解きながら、明らかにしていく対談の展開は、私にとって大変スリリングな小説を読むようだった。

 

 本書をよみながら、私はスマホでLINEを使う時にスタンプや絵文字等を多用し、言葉を使わないコミュニケーション(情動の伝達)を日常化している自分を再発見した。また、メールを書く時も予測変換された言葉をピッピッと選んで文章を綴っていることもある。気が付くと、どんどん言葉を使わなくなっているのである。果たして、そんなに言葉や言語を軽視していていいのだろうか。このままだと、言葉や言語は消滅してしまうのではないか。そんな疑問や危惧を私も強く意識してきた。

 

 私自身、このような事態を今までに無意識的に感じていたので、3年ほど前から当ブログを開設し、自分なりの課題意識に沿って考えたことや、その課題意識に関連した本を読んで思ったことなどを活字にする営みを自分に課した。今、特別支援教育の指導員としての仕事、特に何らかの「困り感」をもつ子どもの適切な学びの場を判定するための書類作成において、このブロクの記事を綴るという経験が生きていると実感している。対象児に関して収集した様々な情報を整理して的確に文章にまとめ、それに基づいて自分なりの考えを活字にしていく業務は、当然のことながら言葉や言語を重視して取り組まなければならないものである。私は今、この仕事にやりがいを実感し、失いつつあった「人間らしさ」を取り戻しているように思う。

 

 ところが、このような今の業務の中で、最近になって疑問を感じることがあった。それは、教育相談の場において何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等を、その子の保護者や担任の先生にお話するような場面でしばしば感じる疑問である。それは、本書でも使われている端的な言葉で言えば、「エビデンス主義」というものに対する疑問である。

 

 ほとんどの場合、教育相談を受ける対象になる子どもには何らかの「困り感」があり、その背景や原因は通常の基準に比べると知能や発達の遅れが見られたり、何らかの「発達障害」が疑われたりすることが考えられる。中には、既に医療機関で診断名が付いている子どももおり、その保護者は医療機関で出された知能検査や発達検査等の結果報告書を受け取っている。その子の「困り感」によって実施する発達検査や心理検査の種類は違うが、対象児の多くは「WISC-Ⅳ」や「田中ビネー式知能検査Ⅴ」、「新版K式心理検査」「日本版KABC-Ⅱ」等の検査を受けているようである。この検査結果報告書は、対象児の適切な学びの場を判定する際には、その「エビデンス」として重要になるものであり、考えられる支援内容を具体化する上でも有用であることは間違いない。

 

 しかし、何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等について、その子の保護者や担任の先生にお話しする教育相談の場においては、上記のような検査をしていない場合がほとんどである。したがって、何らかの「困り感」の背景や原因については、指導員の「発達障害」等に関する知見や今まで学校教育、特に特別支援教育に携わってきた経験知に基づいて推察するしかない。そして、対象児の現わす「困り感」の具体的な様態に対して有効だと考えられる支援内容や方法等を対話的に提案するしかないと思う。ところが、現場の先生や指導員の中には「これでは科学的なエビデンスに基づく責任ある提案にはならないのではないか」と考える方もいる。

 

 確かに、検査の専門家が必要とされる科学的な手続きを踏んで実施した知能検査や発達検査等の結果は、数字で明確に示されるものであるから、誰もが認めざるを得ない客観的な根拠になるであろう。医学的な診断においては、これが有力な「エビデンス」足り得るのであろう。しかしながら、教育現場において様々に変化する環境や状況等の中で行う具体的な支援内容や方法等の妥当性の是非は、その「エビデンス」だけでは決定できるものではないと考える。特に学級という集団を単位にして実践される各教科等の授業においては、教材や学習内容や方法等はもちろん、集団のダイナミズムや友達関係の機微等が、対象児の言動に対して大きな影響を及ぼすことは多々ある。また、変化している家庭環境の実態も、直接的・間接的に様々な影響を与えるものである。

 

 だから、私は教育相談の場において上述のようなことも考慮しながら、保護者や担任の先生と必要な情報を交換して、対象児の何らかの「困り感」の背景や原因を共に探っていく。そして、その共通了解に基づいて妥当性があると思われる支援内容や方法等を対話的に提案するという手法を取っている。この手法は、単に発達検査や心理検査の結果という「エビデンス」だけに頼ることなく、関係者の共同主観性を大切にした間主観的判断を示すことになり、それこそが「応答性」に根源をもつ「責任」(responsibility)の引き受け方だと考える。

 

 最後になったが、本書の「第五章 エビデンス主義を超えて」の中で千葉氏が語っている次のような箇所を、私の教育相談の手法やその考え方への応援歌と喜んで受け止めたことを記して、ひとまず今回の記事の締め括りとしたい。

エビデンス主義も結局、一定のエビデンスだとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を図って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの同じ原理で行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。つまり、状況によって判断することの難しさや責任から逃れようとしていると思うんです。その意味でエビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。だけど、状況によってどのエビデンスを採用するかという選択の問題だってあるし、人間は決定的な保証のない判断を引き受けざるを得ないこともある。それをとにかく回避したがる傾向が蔓延しているわけです。…」

 

追伸;年末は二女と孫Mが連泊し、その間に長女と孫Hもやってくる予定なので、当ブログの記事は今回が本年最後になりそうです。公私にわたる私のこだわりだけで綴っている当ブログですが、読者の皆様方には目を通してくださり、ありがとうございました。年始早々に、前回の記事で約束した「吃音」が出る時について『どもる体』(伊藤亜紗著)を読んだり、私なりに調べたりしたことを綴る予定なので、暇な時間ができたら当ブログに立ち寄ってみてくださいネ。では、皆様方、よいお年を…。