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平和は「訂正する力」によってつくられる!~東浩紀著『訂正する力』から学ぶ②~

 前回の記事では、『訂正する力』(東浩紀著)の前半内容(第1~2章)の中から私の心に深く刻まれたことをまとめ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみた。そして、次回は後半内容(第3~4章)についても綴ってみたいと書き添えておいたが、今回の記事はそれに応えるものである。ただし、中心は第4章の内容になりそうなので、読者の皆さんにはこの点ご容赦をお願いしたい。

 

 <「喧噪のある国」を取り戻す>というタイトルの第4章は、「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像をアップデートするための考え方や方法等について提案している。つまり、第1~3章までの「時事」と「理論」と「実存」の3つの要素を兼ね備えた応用篇になっているのである。本章の中で私の心に深く刻み込まれたのは、特に平和をつくることと「訂正する力」との関連についてである。そこで今回は、戦後日本の平和主義が抱える課題をどのように「訂正」するのかという視点に立った著者の提案内容を要約しつつ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと思う。

 著者は、戦後日本の平和主義は一種の方便だったと言う。武力の放棄を約束することで国際社会の復帰を果たし、経済成長に集中する。でも、現実はアメリカの核の傘に守られている。そのリアリズムを支えたのは戦争の記憶であったが、1980年代ぐらいから平和と護憲とさえ唱えていればよいという若い世代が現れてくる。その頃から議論が硬直してきて、保守派はそんな左派に対して「自虐史観」と言い出し、それに対してリベラル派もその動きに対して、ますます頑なになっていく。結果的に、今の日本では政治的な議論が異様に抽象的になり、戦争責任にしても左派が日本は絶対悪で永遠に謝るべきだと主張し、右派が日本は悪くないと主張して対立し、生産的な議論ができない状況に陥っているのである。

 

 著者は、今の日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと主張する。その一つの方向性は、戦後日本の平和主義を観光や文化戦略と結びつける。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくるというもの。そもそも日本は文化が売りの国であり、高尚なものからキッチュなものまで、驚くほど分厚い国有の美学をもっているのだから、そのような文化的な豊かさ全体を「平和」に結びつけることができるのではないか。平和とは喧騒があるということであり、その正体は社会が政治に支配されていないことになる。政治とは無関係な話題でも大騒ぎできることにあるのである。このような著者の主張は、私に新たな視座を与えてくれた。

 では、そもそも「平和」とは何であろうか。平和とは戦争の欠如であり、政治の欠如である。政治とは関わらない、友と敵の対立に呑み込まれない活動をたくさん展開できるのが、平和の本質ではないのかと著者は言う。皆が好みを自由に語り、政治と関係なく価値観を表現できるのが、平和な日常なのである。著者は、戦後日本というのはそのような意味での平和的な活動=「脱政治的な活動」の領域がとても豊かな国だったと指摘している。その実例として著者が挙げているのが、「オタク」と呼ばれる人々の出現である。彼らの脱政治的な生き方がかくも広がっていたということ、それこそが逆に日本がいかに平和だったかを示していた。戦後日本は長い間、政治の外側に大変豊かな「喧噪」の世界をつくり続けたのである。

 

 だから、日本は武力を放棄したという理由で平和国家なのではない。そもそもそのような伝統をもっていたからこそ平和国家なのである。著者は、戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと提案している。そして、このような読み替えは世界の中で政治が文化を呑み込み始めている時代だからこそ、今の時代では重要な提言になると強く主張している。平和とは政治の欠如であり、その欠如にこそ価値がある。しかし、それは単なる欠如=無秩序のことではなく、戦争と平和、政治と非政治、作為と自然、現実と幻想といった諸々の対立を超えて「自然を作為する」という第三者の立場に立たないと、本当の平和はつくれない。まさにこれこそが「訂正する力」の働きなのである。

 

 「過去を変えたのに変えたと思わさない力」、「ルールを変えたのに同じゲームが続いていると思わせる力」、「政治が続いているのに消えたと思わせる力」、それらはつまり、「作為があるのに自然のままだと思わせる力」のことであり、平和はこの「訂正する力」によってつくられるのである。このことを著者は本書で言い続けている。私はこのような著者の哲学に震えるような共感を覚えた。もちろん、左右両派からは「ぶれない」思考によって批判の嵐が沸き起こるであろう。とても危うい「脱構築的戦略」のように見えると思う。でも、戦後日本の平和主義に関するまともな対話が成立せずに、不毛とも思える「ぶれない」議論を見せ続けられていて、多くの国民がニヒリズムに陥っている状況から脱していくためには、今こそ著者の提言する「訂正する力」による平和の哲学が求められているのではないだろうか。