ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「親和的な秩序」と「疎遠な秩序」をめぐる考察について~村瀬学著『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』から学ぶ~

 若い頃にチャレンジしてみたものの、途中で頓挫してしまった本が数冊かある。その中の一冊に『初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える―』(村瀬学著)があり、その続編に位置づく『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』に至っては40年近くも積読状態になっていて、本の存在自体が私の意識外に置かれてしまっていた。ところが、65歳を過ぎてから松山市教育委員会特別支援教育・指導員という職に就き、何らかの困り感をもつ子どもに対する適切な関わり方や支援の仕方等について担任の先生や保護者に助言するという立場になった私は、まず発達障害と言われる「自閉スペクトラム症」(ASD)や「注意欠如・多動性障害」(ADHD)、「学習障害」(LD)等の特性について理解しようと、自分なりに研修を進めてきた。しかし、今振り返るとその研修内容は人間学的な視座から見ると、まだまだ表層的なものだったと反省する点が多い。そこで、本年度の教育相談業務がほぼ開店休業になっているこの時期を活用して、忘却の彼方に追いやっていた未読の『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』を読み、人間学的な視座に立って障害特性についての理解を深めようと考えた。

 当ブログの以前の記事(2021.8.1付)で、村瀬氏の『自閉症―これまでの見解に異議あり!―』を取り上げて、自閉症のこころの世界についての見解をまとめたことがある。その際に、「自閉症」の原因を訳の分からない「脳障害」や「知覚・言語・認知障害」などに求めて特別視しなくても、身近な自分たちの「記憶」の現象を突き詰めるだけでも、私たち自身のもつ「謎」と共通しているものであることが理解してもらえるはずだと、私は著者の言葉を借りて分かった風なことを綴っていた。しかし、本書の「第二部 理解のおくれの本質」の中の「[二] おくれる子どもたちの世界 Ⅱ 自閉症論批判 二 どんぐりをこわがる子―親和の秩序・疎遠な秩序をめぐって―」という文章を読んで、私は自分が過去に綴ったブログの記事内容は表層的なものであったことを認めざるを得なかった。

 

 そこで今回は、先に挙げた文章中で取り上げている「どんぐりをこわがる子」の事例を要約しつつ紹介し、その後に私の「自閉症」の内面世界に対する理解がどうして浅薄だと判断したのかについて綴ってみようと思う。

 

 著者は、どんぐりをこわがる6歳のDくんの事例を取り上げ、そのこわがる原因について考察している。Dくんのどんぐりのこわがり様は並大抵ではないが、どんぐりを虫と間違えるほどの分別がないとは考えられない。もしかしたら過去の負の経験や心的外傷、無意識等々といった精神分析の持ち込んだ概念の可能性について否定はできないが、一時的にどんぐりに触れることができていた時期があったらしく、現在の時点でこわがるためには現在における動機や理由が同時になければならないはずだと考えた。

 

 著者は、Dくんの生活の中で「どんぐりを異常にこわがる」のと似たような現象を探してみた。すると、「ヨ―グルトを異常にほしがる」という分別の見境のない現象を見つけた。2つの現象の共通点は、一点の破局が全体の破局に及んでしまうこと。確かにDくんはまだことばが出ないし、そういう面ではおくれている子どもであるが、いろいろな面では人のやることをよく見ていて、きちんと真似ができたり、指示通りの行動が取れたりできている子である。だから、施設の職員たちから「力をもっている子」と見られている。彼のもっている力からすると、先のような現象を起こすのはおよそ考えにくいのである。

 

 著者は、これらの現象を「変化への抵抗」や「特定のものへのおそれ」という自閉的傾向の特長と安易にとらえず、それらの現象を子どもの「心の広がり方のしくみ」として理解していく方向で追究していく。そして、私たちを取り巻く世界が常に多元的で重層的であり、そのうちの身近な世界だけを「親和的な世界」として了解しているが、それ以外の世界に対して極めて「疎遠な世界」として理解しているという視点に着目した。私たちが普通「経験を積む」と言っている現象は、見知らぬ世界・見慣れぬ世界を、自分たちが知っている世界として取り込み、「親和的な世界」として馴染んでいく過程なのである。したがって、私たちは誰でも「新しい世界」を体験する際には、「変化への抵抗」や「見慣れぬものへのおそれ」を示す心性を持っているのだと理解されなければならない。

 

 ここで著者が考えたのは、私たちのもつ「親和的な世界の広げ方」である。もしその人が自らの「親和的な世界」だけを秩序だと《確信》している度合いがければ強いだけ、見慣れぬ世界を親和的に感じることは難しくなっているはずである。Dくんも自分の見知らぬ場面、場所、秩序に出会うと、それを親和化することができず「疎遠な世界」として拒絶してしまうのである。こうした「親和的な世界」と「疎遠な世界」の二分化現象が強化されると、「親和的な世界」では物分かりのよいおりこうさんなのに、別の場所や場面では物分かりの大変悪い子として現れてしまうのである。

 

 では、なぜこうした極端な二分化現象が生じてしまうのか。ここで著者は、一般的に言われている「秩序」とは少し違ったとらえ方で「秩序」をとらえる視点を提示する。例えば、自分の机の上や部屋等にも秩序があり、自分の朝の置き方や顔の洗い方、服の着方、喋り方、笑い方、怒り方、歩き方にも秩序があると考える。道路も街並みも景色も秩序である。マーケットも病院も遊園地もまたそれぞれ込み入った多層な秩序をもっている。そう考えると、私たちが「物事を知る」とか「ある出来事を体験する」という時、結局のところ、それらの物事のもつ「秩序」を体験していると言える。そして、「物事=秩序」というものは、必ずや一つの「背景=背後」をもったものとしてそこにあるととらえられる。また、「物事=秩序」というのはどこから始まり、どこかで終わるという「勢い」の中でそれぞれの秩序を見せている。さらに、「秩序」には早い動きをもつものとほとんど動きをもたないように見えるものがある。ただし、私たちはそれらの秩序を共に逆に見積もることができるような世界の見方ができて、その見方を著者は《確信の世界》と呼んでいる。

 

 そこで改めてDくんの場合を考えてみる。彼は世界のもつ多元的な秩序に対して、それらを「動いているもの=背後があるもの」として受け止めすぎる面がある。言い換えれば、彼は「動いていない=背後がない」と感じる秩序が極めて限定されているのである。むろん一般的に子どもの場合は、石ころやお月様にも心があると思うアニミズム的な世界観をもっていることが多く、それらのものを「生きている=出自がある」ものとして受け止めている。しかし、Dくんの場合には、このような世界のもつ動きのひとつずつを次々に固定化し、出自が明らかになった秩序=「親和的な秩序」に持ち込んでいくことができにくい。特定の場面だけを親和化させて、その周りに敷居を作ってしまっているのである。だから、その中では安定し、そこから一歩出ると、そこは見知らぬ世界になって、不安になってしまっているのである。

 

 私たちはDくんがことさらどんぐりをこわがるのは、かつてそれで何か怖い体験をしたからに違いないと思ってしまう。しかし本当のところは、どんぐりそのものを恐れているのではなく、そのどんぐりがある背景をもっており、その背景が何かわからないものとして見えてしまったり、感じてしまったりするところに問題があったのである。著者は、Dくんのような子を見ていて、多元的な秩序の背景を読み取り、そこにすばやく根を下ろしていくことができにくい、繊細で不安定な存在様式を感じ取らないわけにはゆかないと語っている。そして、このような子どもをひとまとめにして、「自閉症」と呼んで特別視するのは、彼らを身近に理解する手がかりを失ってしまうだけだと主張している。

 

 私は、市教委の特別支援教育・指導員という職に就き、発達障害等の特性について理解をして、何らかの困り感をもつ子どもの行動観察を何回も経験する中で、「変化への抵抗」や「特定のものへのおそれ」を示す子どもをすぐにASD的な傾向があると判断してしまうようになっていた。そして、その子の担任や保護者に対して適切な関わり方や支援の仕方等を助言する際に、ASDの対応した定石的な支援方法に基づいて話していた。でも、そのような教育相談のあり方は、個々の子どもをASDとして特別視することを前提としていたのではないか。私は、一人一人の子どもの行動特性をもっと人間学的な視座から解釈する努力をすべきではなかったか。

 

 本年度も終わりが近づいてきた。来年度も現職で仕事をすることができることになったので、改めて特別視支援教育・指導員としての自分のあり方を振り返る時期である。子どもが抱える何らかの困り感を一人の人間としてあるがまま共感的に受け止め、著者の村瀬氏が今回示してくれた「親和的な秩序」と「疎遠な秩序」をめぐる考察のように、人間学的な視座からじっくりと解釈した上で教育相談の場に臨もうと、私は自分の心に強く誓った次第である。