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「本質観取」の方法と「社会の本質学」の可能性について~竹田青嗣著『哲学とは何か』から学ぶ②~

 前回の記事では、本書の二つの主題の一つ、「認識の謎」の解明と「普遍認識」の可能性について私なりに理解した内容の一端を紹介しながら、読後所感を簡潔にまとめてみた。その中で、「認識問題」を解くことで「普遍認識」に至る際に区別しておかねばならない大事な点の説明が不十分だった。この内容は、今回、もう一つの主題である「本質観取」の方法と「社会の本質学」の可能性について概説する上で、どうしても確認しておくべきことなので、まずこの点について触れておこう。

 

 それは、哲学の「普遍認識」の問題においては、「事物の領域」(あるいは事実の領域)と、意味-価値を担う「本質の領域」(あるいは人文領域)とをはっきりと区別することが根本原則であるということ。このことは、前者の領域に関しては近代になってガリレイが基礎づけた「自然の数学化」という方法によって、自然世界の「客観認識」が確立されたが、後者の領域に関してもこの方法を適用しようとした新しい実証主義の試みは成功しなかったという歴史的事実によって証明されている。だから、このことを踏まえてフッサールは、哲学は単なる「事実学」(人間社会を客観的な事実として認識しようとする学問の態度)ではありえず、人間や社会の「善悪」や「正しさ」の普遍的な公準へと迫りうる「本質学」でなければならないと言ったのである。

 

    では、人文領域における「普遍認識」の方法、つまり「本質学」の根本方法とはどのような方法なのかと、著者は問う。それに対して、フッサールは、それが「認識問題」の解明のために内在的意識における事象の確信形成の構造を観て取るための内的洞察の方法、つまり現象学で言うところの「本質観取」にほかならないと主張した。したがって、現象学が「確信成立の条件の解明」として理解されていなければ、言い換えれば「現象学的還元」という方法の基軸をなす中心概念である「構成」や「ノエシス」「ノエマ」という概念が正しく理解されなければ、「本質学」という理念も適切に理解されえないと、著者は言っている。

 

    前回の記事で「現象学的還元」という方法については簡単に触れたが、その中心概念である「構成」や「ノエシス」「ノエマ」という概念については説明をしていなかったので、ここで再び本書における「現象学的還元」と上記の概念についての説明を簡単に紹介しよう。

 

 フッサールの「現象学的還元」の方法の核心は、「主観」を原因と考え、「客観」を結果とみなす根本的視線変更にあり、まずは「客観が何であるか」という問いを消去(括弧入れ)する。これを現象学では「エポケー」(判断中止)と名付けている。これがなぜ必要かというと「主観」と「客観」という構図で考える限り、その「一致」の証明は不可能だからである。したがって、問題を「主観」の領域だけに限定し、この領域を内省的に洞察して、例えば、ある物体を見るという知覚体験において、対象の存在確信が意識内においてどのように構成されるかの構造を把握するのである。この内在意識の構図を表すのが「ノエシスノエマ構造」。例えば、目の前のリンゴを見ている場合、見ている主体(主観)の内在意識の中では基本的に「ノエシス」(赤い、丸い、つやつやという知覚像)から「ノエマ」(これはリンゴだという確信)が絶えず構成されているという具合に…。この構図を基にすると、「構成」とは意識内における「確信の構成」のことを、「ノエシス」とは意識内の実的な経験を、「ノエマ」とはそこから構成される対象確信を意味することになるのである。

 

 上述した「現象学的還元」の方法における「ノエシスノエマ構造」の説明事例ではリンゴという物体を見ている場合を取り上げたが、フッサールによれば、これを人間や文化・社会等の人文領域において適用させた「本質観取」の方法こそが「普遍認識」の可能性を与えると言う。本書においては、その実践事例として、フッサールがその著書『イデーン』において「知覚」の「本質観取」を遂行したことを採り上げている。続いて、ハイデッカーがその著書『存在と時間』において、「不安」という情動の「本質観取」(ハイデッカーは、「現存在分析」という用語を使用)を行った事例も紹介している。さらに、より分かりやすい事例として著者自身のゼミの卒業論文として書かれた「なつかしさの本質観取」という論も。その他、医療における現象学の本質的方法、ジョルジユ・バタイユによる「エロティシズム」の「本質観取」等の様々な事例も採り上げて、「本質観取」という方法がそもそも哲学の「言語ゲーム」の方法を原理化したことであると言及している。

 

 このような様々な事例を紹介した上で、著者は「本質観取」は、確信構成の構造の洞察のみならず、一般的な概念や事象、また形成された認識-信念の「本質構造」を洞察する方法となると述べている。そして、問題となっていることがらの核心を間主観的、普遍的な共通理解へともたらす方法だという点で、「概念」「原理」「再始発」を原則とする哲学の思考法を原理化したものと見なすことができるとまとめている。その上で、人文科学の諸理論がたどった困難を総括しつつ、人文領域における「本質学」の可能性について展望している。

 

 そこで、著者が「社会の本質学」をどのようにとらえ、その可能性をどのように展望しているかについて、最後になるべく簡潔に概説してみよう。

 

 著者によると「社会の本質学」とは、事実としての社会の実証的認識の学ではなく、社会が人間にとってもつ「意味」(=本質)についての探求の学を意味する。だから、「社会の本質学」は、現代社会が生み出す人間的矛盾の中心がどこにあるかについての普遍的な探求でなければならず、またこの矛盾がいかなる方法で克服できるかについての普遍的な探求でなければならないのである。そう考えるなら、次に問われるのは、上述の課題の探求の普遍性をどのように確保するかということになる。しかし、この課題は、社会のあるべき構想についての普遍的な理論などは存在しえないという、現代の相対主義思想に阻まれてきた。このままでは、現状の維持に寄与するだけである。果たしてこのデッドロックを打開する可能性はないのであろうか。その問いに対して著者は、ホッブスの「普遍戦争」、ルソーの「社会契約」と「一般意思」、ヘーゲルの「相互承認」と「一般福祉」等の原理を基軸とした「自由な市民社会」の理念だけが普遍的なものとして残されると提示している。今、資本主義の現状を変革する必要があるとすれば、それを批判する上で普遍的な「正当性」は「自由な市民社会」という理念以外にないのである。

 

    しかし、著者はこのような自分の考えを唯一の正しい社会理論であると独断的に主張しているわけではない。「社会の本質学」の考えを普遍的な社会原理として提示するが、それが真に普遍的な理論というに値するか、より優れた普遍的な原理が可能でないかどうかを、人々に検証してほしいと望んでいる。このことは、著者が哲学を普遍的な「原理」を創出する言語ゲームであると、冷静にとらえていることの証であろう。

 

    本書は、著者が「普遍認識」の探求としての哲学の原理と本義に立ち戻ろうとする志によって書いた「哲学再興」の書であり、さらにこれを再生しようとする志をもつ真に新しい哲学世代へ向けた熱いメッセージにもなっている。私は老年期になった一介の市井人であるが、本書を読み終えて、衰えつつあった我が精神に新たな魂を吹き込まれたように感じた。歳をいくつ重ねてもまだまだ学ぶべきことや考えなくてはならないことは尽きないなあと、何だか浮き浮きした気分になった。