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「哲学対話」において共通了解を図ることの意義とその方法について~西研著『哲学は対話する―プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉―』から学ぶ~

 ここ数回の記事は、身近な話題(物の紛失事例や孫の近況報告、SC全国ネットワーク総会報告等)を取り上げたもので、いつものように私が読んだ本に関するものではなかった。その理由の一つは、最近まで読んでいた『哲学は対話する―プラトンフッサールの〈共通了解をつくる方法〉―』(西研著)という哲学書がなかなか分厚く、私にとって内容を理解するのが難しかったので、読了するのに時間が掛かってしまったからである。もう一つは、今月26日(水)と27日(木)の両日、東京へ主張していたので、じっくりと本を読む時間が取れなかったためである。しかし、この2週間ほどを掛けてやっと本書を読了することができたので、今回はその読後所感として特に印象に残った内容や私なりの簡単な所感をまとめてみようと思う。

 

 本県教職員を対象とした「哲学対話」を構想・企画し、その事務局を担う仲間を募り、何とか実施の見通しがついてきた私としては、本書はぜひ読んでおきたい哲学書であった。というのは、今まで当ブログの記事でも何度も取り上げた哲学者で、私が信頼している現象学者である西氏が、「哲学対話」の意義やその方法等について理論的・実践的に論じている本だったからである。具体的に示すと、本書の構成は、理論編と言える第一部では〈「魂の世話」としての哲学〉と題してソクラテスプラトンの哲学に関する内容、第二部では〈「合理的な共通了解」をつくりだす〉と題してフッサール現象学の方法に関する内容について論述している。次に、実践編と言える第三部では〈どのようにして哲学対話を実践するか〉と題して「正義」の本質観取の例について紹介している。私にとっては量的にも質的にも手強い代物であっただけに、本書を読了した時にはある種の感慨があった。今回の記事は、できるかぎりそれを言語化して表現してみたい。

 

 「はじめに-哲学と共通了解」の中で著者は、現在さまざまな地域で行われている「哲学対話」において共通了解を求めることを警戒する風潮があることに対して、疑義を呈している。もし対話が各自の意見の受け取り(意見交換)だけに終始して、「ともに探究できる問い」を設定したり、「だれでもが深く納得できる答え」(共通了解)を求めることをしないならば、だんだん飽きがくるのではないかと、今までの「哲学対話」の在り方について疑問を投げ掛けているのである。

 

   では、それを克服するためにどうすればよいのか。著者は、「感度や意見が多様であってよい領域」と「共有する答えがある領域」とを区別でき、共通了解に向けて探究する方法があることを本書で示さなくてはならないと言い、その方法としてソクラテスプラトンの「対話の哲学」やフッサールの「現象学の方法」を取り上げているのである。

 

 私は、本書執筆の著者の意図を知り、意を強くした。なぜなら、私が教職に就いていた頃に、多くの教員が「教育には絶対によいとか正しいとかという普遍的なものはない!」と全ての教育観を相対化してしまい、一種の相対主義ニヒリズムに陥っているのではないかと思うことがあったからである。特に現職後半に至って「悪しき相対主義は個の絶対化を招くことになるので、皆で共通了解を得ようとする気持ちを萎えさせてしまう。」と思うようになり、私は教員たちのモチベーションを下げてしまう事態を憂慮し、常に「対話によって共通了解を図ること」の大切さを訴えていたからである。

 

   丁度その頃に私は『どのような教育が「よい」教育か』(苫野一徳著)という本と出合った。その中には本書でも取り上げている「現象学の方法」について触れている箇所があり、我が意を得たりと夢中になって読んだことがある。だから、本書の第二部の論述内容に対して私は大きな期待感を抱いた。もちろん第一部にも注目したが、こちらの論述内容は以前の当ブログで著者のNHK別冊100分de名著『ソクラテスの弁明』を取り上げたこともあり、読むために注いだエネルギー量には違いがあったというのが正直なところである。

 

 そこで、次にこの第二部の著者の論述内容の概要と、私なりに理解を深めた内容について書こうと思う。

 

 第二部の〈序 共通了解に向かって〉で著者は、「~とは何か」の問いを対話によって深めていこうとするソクラテスプラトンの方法を、フッサールはどのようなやり方で、〈各人の洞察にもとづく共通了解〉をつくりだすことのできるものへと鍛え直そうとしたのかを述べ、豊かな「哲学対話」をつくりだすためにはフッサールの語る方法を修正する必要があると主張している。では、フッサールが果たそうとした方法とはどのようなものだったのだろうか。簡潔に言えば、それはソクラテスプラトン由来の〈本質を求める問い〉をデカルト由来の〈意識体験の反省〉の方法と結びつけることによって、この問いを合理的な根拠を伴った共通了解を形成し得る方法にすることであった。

 

    それでは、フッサールの方法のどの点を修正する必要があるのだろうか。その一つ目は、フッサールの語る「本質」の概念がともすると「固定的で永遠不変なもの」とする感度が残っているので、「特定の観点から取り出されたもの」として再定義する必要があるという点。二つ目は、フッサール現象学を、もっぱら自己反省のみに基づいて「本質」を取り出すことと規定し、他者の体験と言葉を考慮する必要を認めなかったので、他者の言葉をも考慮しながら共通了解を生み出そうとする営みとして現象学を再定義する必要があるという点。私は、自分の問題意識に照らして、特に二つ目の修正点が大変大事になると思った。

 

 上述の〈序〉の内容を踏まえて、著者は第二部の前半において、まず20世紀の哲学者たちが抱いてきた「本質」と「共通了解」に対する疑念を取り上げ、次にヨーロッパの学問の歴史の中で「共通了解」を求める営みがどのような“困難”に遭遇してきたのかを確かめている。その上で、第2部の後半ではフッサールの提案した現象学の方法が、前半に記述した“困難”をどのような仕方で解決して「共通了解」を創り出そうとしたのか、その要点を取り出している。そして、最後に〈超越論的還元〉と呼ばれる方法が、独断論相対主義の対立を乗り越えて、合理的な「共通了解」の可能性を拓くものであることを示している。

 

 私は、このような流れで読者にできるだけ分かりやすく論述していこうとする著者の哲学者としての力量に感銘した。それと共に、以前よりは「現象学の方法」についての理解が深まっていることに充実感を覚えた。しかし、その程度は私の理解力のキャパ内であり、特に現象学の〈超越論的還元〉という方法についての理解は心許ないが、私なりに理解した内容を最後に整理しておきたい。

 

 フッサール現象学の方法的柱の一つである〈現象学的還元〉というのは、「現象」(意識体験)の場面のみにとどまって、その在り方を反省的に明らかにしようとすることであり、それは二つの段階がある。第一の段階は、第三者的・客観的な見方を排して、自分自身の体験(一人称の体験)のみに即してそこから本質を取り出すという段階で、これを「心理学的-現象学的還元」と名付けている。第二の段階は、そこからさらに進んで、客観的世界及び一切の対象の存在が確信される場面として主観性の領野が位置付けられ、存在確信が主観的体験の中で成り立つ「条件」を取り出すことが目指される段階で、これを「超越論的-現象学的還元」(略して〈超越論的還元〉)と呼んでいる。

 

 この〈超越論的還元〉とは、認識(主観と客観の一致)の難問を解決するために提示されたものであり、簡潔に言えば、あらゆる認識の意識体験においてのみ生じるもの(意識の内部で生じるもの)とみなし、「意識の外側にあるだろう客観的世界」を考えることをしないという姿勢のことを示している。もう少し分かりやすく説明すると、私たちの通常の見方(フッサールのいう“自然的態度”)では、「まず客観的世界とそこでの客観的な事物や事実があり、それが意識に入ってくる」とみなす(世界→意識)。それに対して、〈超越論的還元〉の見方では、「意識体験の連続の中で、客観的世界の存在とその中のコップなどの事物の存在が疑えなくなる」とみなすことになる(意識→世界)のである。このことは、客観的世界を意識体験の中での確信へと還元することになるのだが、著者はそれ以外にフッサールの超越論的現象学は、〈超越論的還元〉を通じて合理的な共通了解が成り立つための「条件」を明らかにするという大きな課題をもっていたと強調している。

 

 私は以上のような〈超越論的還元〉という方法が、「哲学対話」における共通了解を図る方法として有効であると確信するとともに、さらにその理解を深めたいと強く思った。