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「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換していこう!~伊藤亜紗著『手の倫理』から学ぶ~

 当ブログの2021年9月19日付けの記事で、『日本哲学の最前線』(山口尚著)という新書を取り上げた際に、日本の「J哲学」の担い手の一人である美学者・伊藤亜紗氏の『手の倫理』について言及した。記事の中で、私は本書で使用されていた「道徳」と「倫理」という言葉の概念を援用して、今回の学習指導要領において新設された「特別の教科 道徳」の授業は「倫理」を中核にした議論を大切にすべきではないかと提言しておいた。しかし、その時はまだ『手の倫理』を読んでいなかったので、『日本哲学の最前線』で述べられていた内容を拠り所として私なりの思いを綴ったものであった。

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 ところが、先日、その『手の倫理』を市立中央図書館で見つけた。私は小躍りして借り出し、数日間で読み通した。想像していた通り、著者の触覚に関する研究視点の面白さに惹かれるとともに、思考を深めて追究していく研究内容に引き込まれていった。本書のテーマは、「触覚の倫理」、特に人間関係という意味で主要な役割を果たす「手の倫理」であり、それを別の言い方で表せば「さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること」になる。このテーマそのものが魅力的ではないか。私はこのテーマに込められた著者の独自の課題意識に強い興味を覚えた。

 

 次に、本書の構成は、第1章「倫理」第2章「触覚」第3章「信頼」第4章「コミュニケーション」第5章「共鳴」第6章「不埒な手」という章立てになっている。どの章も、著者自身の体験に基づいた議論を展開しているが、今回の記事では特に第4章におけるコミュニケーションのモード(態度や調子のこと)に関する内容を取り上げながら、授業における教師と子どもたちとのコミュニケーションの在り方について問い直してみたいと考えている。

 

 著者はコミュニケーションについてモードを軸にして、その特徴から「伝達モード」と「生成モード」とに分類している。「伝達モード」の特徴というのは、伝えるべきメッセージが発信者の中にあり、それが一方向に受信者に伝わってくると想定されていて、「発信者/受信者」という役割が明確であるところ。それに対して「生成モード」の特徴というのは、「発信者/受信者」という役割が不明確で、やりとりの中でメッセージが持つ意味やメッセージそのものが生み出されるという、「その場で作られていく」ライブ感があるところ。そして倫理学者の水谷雅彦氏や社会人類学者の谷泰氏が、この「生成モード」というコミュニケーションの発想を高く評価していることを認めながらも、全てのコミュニケーションを「生成モード」で捉えることには異を唱え、場面によって「伝達/生成」の割合が異なると考えた方が自然だと述べている。私は、コミュニケーションのモードに焦点化した場面の事実認識は、カッコ書きで妥当性があると思った。カッコ書きの意味は、それぞれのモードの背後にある権力関係との関係性は別に問われるべき問題だと考えからである。

 

 ところで、このコミュニケーションの二つのモードは、教師と子どもという教育関係に基づいて行われる授業におけるコミュニケーションの在り方にも適用できるのではないだろうか。というのは、私が特別支援教育・指導員として何らかの「困り感」をもつ子どもの行動観察をするために学校現場へ出向き、主に授業を参観させてもらう時の教師と子どもたちのコミュニケーションはその多くが「伝達モード」中心である。もちろん全ての場面という訳ではなく、時には「生成モード」のコミュニケーションが発生する場面もあるが、比重としては「伝達>生成」モードである。だから、あまり意味創造の場にはならずに結果的に平板な面白味のない授業になっている。しかし、たまに比重が「伝達<生成」モードのコミュニケーションで展開されている授業を参観する時があり、その教室は意味創造が起こり結果的に学ぶ楽しさに満ちたダイナミックな授業になっている。

 

 様々な個性や特性をもった子どもたちが集まった学級集団を対象にして授業を行う大変さは、元教員の私にもよく分かる。特に近年は何らかの「困り感」をもつ子どもの数が増えているようなので、教師には特別支援教育の視点を踏まえた授業を実践することができる力量が求められており、そのための研修にも多くの時間が費やされるのであろう。多忙な日々の中で、「生成モード」のコミュニケーションを中心とした授業を展開する精神的な余裕もないかもしれないが、せめて現状の「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換してほしいと、私は強く願っている。子どもたちの豊かな学びと育ちを保障するために。