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「居る」を支えるケアラーとしての教師の在り方について考える~村上靖彦著『ケアとは何か―看護・福祉で大事なこと―』から学ぶ~

 9月に入り学校は2学期を迎えたが、本県はまだ「まん延防止等重点措置」の実施が継続している。当面、学校は午前中だけ授業を実施し、給食を食べてから下校という緊急的な対応策を講じている。全国的に従来株より感染力が強力なデルタ株が市中で蔓延し、子どもの感染者も急増している中、学校でのクラスターの発生が心配な状況なのである。ただでさえ2学期当初は残暑が厳しく、熱中症に対しても警戒が必要な時節なので、教師は子どもたちの体調管理に大変気を遣う。その上に新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、学校生活全般、特に各教科等の授業や給食時間において格別の対応が求められているのである。先生方のご苦労が並大抵ではないことは、想像に難くない。

 

 そのような状況下、私たち2名の指導員は、教育相談業務として市内のある小学校の特別支援学級を訪れた。Aは通常学級に在籍していたが1年生の2学期になって集団不適応のために不登校になり、3年生の2学期まで続いた。ところが、3学期から特別支援学級で学習するようになって4年生の現在まで登校できるようになった。本人も保護者も「このまま特別支援学級に在籍したい」という願いがあるらしく、学校からAの学びの場を変更することが適切かどうかを見極めるために教育相談の申請が出されたのである。

 

 Aのいる特別支援学級には、他に5名の子どもたちがいた。2学期が始まってすぐだったので、皆は2学期の「めあて」や「係活動」のカード、9月のカレンダーなどを制作していた。Aは落ち着いた様子で、それらの制作活動に取り組んでいた。途中で情緒不安定な子どもがうろうろと動き回って騒々しくなる場面もあったが、それにはあまり気を囚われることなく、マイペースで活動していた。また、その後に実施された避難訓練の際にも、その目的をしっかり理解して節度ある避難行動が取れていた。私の眼には、Aはこの学級に「居る」ことが居心地よく感じられているように映った。

 

 なぜ、Aはこの学級なら登校できるのだろうか。翌日の母親との教育相談の場で、その理由らしきことが分かった。Aは保育園の頃から、大きな声や怒鳴り声が嫌いであったり、先生から指示された活動にはなかなか取り組めず、マイペースで活動することが多かったりしたそうである。だから、小学校における学級集団の大きさや学校生活のリズムに馴染めず、精神的に不安定な状態に陥り、登校するのが辛くなったのであろう。でも、今の特別支援学級はAを入れて6名の少人数であり、また学校生活のリズムも一人一人のペースをできるだけ保障するようなゆとりがある。このような環境は、あるがままのAの存在を肯定するものだったのである。つまり、この学級はAにとって「居場所」になったのである。

 

 私はこのAの事例を知った時、最近読んだ『ケアとは何か―看護・福祉で大事なこと―』(村上靖彦著)の「第3章 存在を肯定する―「居る」を支えるケア」の内容を思い出した。そこで、今回はその内容の中で私が強く共感した部分を紹介しつつ、「居る」を支えるケアラーとしての教師の在り方についても考えてみようと思う。

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 本書は、「ケアとは何か」という問いについて、著者が対人援助職の語りを聴き、実践の現場を観察する中で学んだことのエッセンスを記したものであり、身体的なケアと心理的なケアの間に境目を設けていないだけでなく、医療と福祉を横断するような目線でケアを考えているところが特徴の一つになっている。また、「コミュニケーション」「願い」「存在の実感」「苦境への応答」「ピアサポート」という章立ては、著者が医療・福祉の現場で学んできたことを整理する中で必然として決まったものであり、本書のもう一つの特徴となっている。さらに、現象学という哲学の方法論に由来する、「患者・当事者・対人援助職の経験における内側の視点からケアを描く」という挑戦的な方針で書かれたものであり、私が今まで取り組んできた教育実践研究のスタイルと共通するものであるので、とても共感的に読み通すことができた本なのである。

 

 特に本書の第3章の内容は、ケアラーとしての教師の在り方について考える視座を与えてくれている。例えば、著者は「居場所」を「周りに気を遣うこともなく、自由にふるまえるような場所であり、何もしないでぼうっとしていてもよいし、喧嘩しても元に戻ることができる環境」だととらえ、そこには「見守りの連続性とあるがままの存在の肯定」があると記している。そして、「居場所は社会のなかでの困難を吸収してくれる安全基地として働く。」とも述べている。さらに、「自分が環境のなかに溶け込み、その人にとっては環境が自分の一部であるかのように感じる場所」のことを「あいまいな居場所」と名付け、ここでは「誰かと共に『ここに居ていいんだ』という感覚を得られることが大切になる。」と意味付けている。

 

 Aにとっての特別支援学級はこの「あいまいな居場所」になっており、それは担任の教師が個々の子どもたちの特性を理解し、その特性に応じた個別の支援を心掛けている成果なのであろう。もちろん学校という集団生活を営む場所は、6名という少人数でも学級というまとまりが求められ、緩やかとは言え一定の決まりやルールに従わなければならない。しかし、その拘束性の強さは通常の学級に比べて弱く作用し、個々の子どもたちの自由性はある程度保障される。そのことがAのような特性をもつ子どもにとって必要なのである。私たちは、Aの適切な学びの場として、通常の学級から特別支援学級へと変更することは妥当だと判断した。

 

 最後に、ケアラーとしての教師の在り方について考える視座として、特に強調しておきたいことがある。それは、著者が述べている次のような箇所の内容に関連する。…気遣いが他の人に向かうとき、自分の存在はより深く支えられる。「私はここに居る」という感覚が、自分自身と向き合う内省によってではなく、他の人への気遣いよって裏付けられる。「誰かから見守られ、誰かを気遣うことで私は存在する。」…このことは、特別支援学級のような少人数の学級であっても互恵的な人間関係を築いていくことが、「居る」を支えるケアとして必要であることを示している。ケアラーとしての教師は、一人一人の子どもにとって自分たちの学級が「居場所」になるように、お互いのためになる役割を皆が担うように配慮することが求められるのである。本当はこのような配慮は、特別支援学級だけでなく通常の学級にも求められるのだが…。