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自分の就いた職業に「矜持」をもつということ~柚月裕子著『慈雨』から学ぶ~

 まだ数冊しか読んでいないが、柚月裕子という作家の作品はとても面白い。その主な理由は、主人公が自分の職業上の正義の実現を目指し、「矜持」をもって行動するミステリー的・サスペンス的な物語展開にある。また、その中で描かれる人間ドラマの感動的内容である。今回読んだ『慈雨』という作品も、そのような特徴を兼ね備えた秀逸なミステリーであった。読後、警察官としての「矜持」をもつということは、こういうことなんだなあとしみじみとした感慨に耽った。

 

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 警察官を定年退職した神場は、ある思いをもって妻と共に四国遍路の巡礼の旅に出る。その旅先で知った幼女誘拐殺人事件は、16年前に自らが捜査に当たった純子ちゃん殺害事件に類似していた。その過去の事件は犯人が逮捕され、現在も懲役刑が執行されているが、神場の胸には犯人が真犯人ではないのではないかという悔恨の思いが渦巻いていた。しかし、もし冤罪ならば、警察組織の信頼を根底から損なってしまう事態に陥り、自らもその汚名を背負うことになる。事件の真の解明は、組織にとっても自分にとっても決して得にはならないのだが、神場は迷いながらも警察官の「矜持」を一生持ち続けたいと意を決する。そこで、手掛かりのない捜査状況に悩みつつも現在の事件捜査に真摯に当たっている後輩で、娘が付き合っている緒方にアドバイスによる協力をしながら、さらに過去の事件の真犯人を見つけるための新たな証拠探しもする。その結果、明らかにされる真実と事件の真相は…。

 

 本作品の中で綴られている「…だが、決意に揺るぎはなかった。なにがあっても、純子ちゃん事件の冤罪を晴らし、真犯人を裁きの場に引きずり出す。まっとうに正義が行われるよう、力の限りを尽くす。」という神場の警察官としての「矜持」は、教職を退いた私の中に今でも持ち続けている教師としての「矜持」を再認識させてくれた。それは、「子どもが人間としてよりよく成長するために、適切かつ真摯に働き掛けるのが教師の仕事。そのために大切なのは、子どもが自分でよりよくなりたいという気持ちをもっていると信頼し切ること。」私は38年間の教職生活をこのような「矜持」をもって精一杯過ごしてきたつもりだが、今でもある一連の出来事を悔恨とともに思い出すことがある。それは、次のような出来事であった。

 

 私が地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務し始めた20代後半の頃の一連の出来事である。その年度、私は4年生の学級担任だった。年度初め、子どもたちと話し合いで決めた学級目標は「お互いの思いや考えを大切にし、共によりよくなっていこう!」。だから、私は教科等の授業はもちろん、学校行事や遊び時間においてもこの学級目標を具体化しようと心掛けて、子どもたちとかかわっていた。例えば、教科等の授業では教材と個々の豊かなかかわり合いを保障し、その中から沸き起こる興味や疑問等に基づいて学習課題を設定する。そして、個々の追究過程を尊重しながらも、適切な場面で集団化の場を設定して学習成果を共有していくような探究的な学習を進めていた。また、学校行事への参加に当たっても、個々の思いや考えを出し合いながら学級としての取り組み方を共有し、力を合わせて実践していく過程を大切にしていた。だから、3学期の後半頃には、私なりに学級目標の実現度合に手応えを感じていた。

 

 そんな時期にその一連の出来事は起きた。最初は些細なことであった。朝の全校朝会で賞状授与があった日の掃除後に、Aさんという女児が私に「先生、私の賞状に上靴で踏みつけた跡が残っているんです。せっかく絵で初めてもらった賞状だったのに…。」と半べそをかきながら訴えて来た。私は5時間目の授業が始まる前に、学級全員の子どもたちに「誰が賞状を踏んだのか。誰かが踏んだのを見た人はいないか。」と問い掛けた。しかし、誰も名乗り出なかったのである。そこで、私は「掃除中に知らずに踏んでしまったかもしれないから、これからは下に落ちている物に気を付けよう。」という主旨の話をして終わった。ところが、その数日後に、Aさんの机の中に彼女の悪口を書き綴った一片の紙が入れてある事件が起きた。私は、先日の賞状の件も偶然ではなく、この悪口を書いた子がわざとしたのではないかと疑った。そこで、これは単なる注意喚起で済ませてはならない。被害を受けた子の心のケアはもちろんだが、加害側の子の真意を汲み取り適切に指導しなくてはならないと考えた。しかし、自分で申し出てほしいという私からの呼び掛けは空振りに終わった。

 

 私は焦った。自分なりの学級経営に自信をもっていただけに、ショックを隠せなかった。私はしかたなく犯人捜しを始めた。Aさんとその友達との相関関係を調べたり、筆跡の似ている子を探り出したりした。そして、Aさんとも交友関係があり、紙片に書かれてあった悪口の様な内容の発言を普段からしていたBさんが、私の頭に浮上してきた。私は、Bさんと個別に面談し、直接尋ねてみた。しかし、返答は否であった。私はそれでも疑いが晴れなかったので、母親に連絡を取り、特別に個人面談をした。母親は私の考えをじっくりと聞き、冷静な口調でその悪口を書いている紙のコピーがほしいと願い出た。私は家庭での話合いに期待し、コピーを渡してその後の連絡を待った。丁度、学期末の個別懇談が近づいてきた頃だったので、その際に結果を聞かせてもらえるだろうと安易に構えていた。

 

 ところが、私のその安易な考えは見事に打ち砕かれてしまった。Bさんの母親との個人面談の際、母親から専門家による「筆跡鑑定」の結果を告げられたのである。「専門家によると、うちのBの筆跡とこの悪口を書いた子の筆跡は似ているところもあるが、別人である可能性が高いそうです。先生、もう一度きちんと調べてください。」Bさんの母親は決して激昂して話している訳ではなかった。自分の娘を「信頼」し切っている自信に満ちた表情で冷静に語ったのである。私は穴があったら入りたいという恥ずかしい思いが沸々と湧き上がってきた。私としては、変に保護者に隠してBさんを指導するよりも、正直に私の考えをお伝えして協力してもらおうとしたのだが、私のこの考えは全く未熟なもので、教師に対する「信頼」を損なうものであった。後の祭りだったが、教師の私が犯人捜しをするという自分の軽率な判断や愚かな行為について母親に詫びた。母親は一言も私を非難するような言葉を発することはなかった。親の愛情の深さを思い知るとともに、教師として大失敗をした出来事であった。

 

 この一連の出来事は、本書における警察官の「矜持」をもつ神場がずっと心の中で引っかかり続けた冤罪事件とは質は違うと思うが、教師の「矜持」をもつと自認している私にとっては忘れられない出来事である。私は、20代後半に経験したこの出来事以来、本人が認めたり確かな目撃情報があったりする以外で、何かの問題行動を起こした子どもを探るために不確かな証拠を基に犯人捜しをすることはしていない。「子どもが人間としてよりよく成長するために、適切かつ真摯に働き掛けるのが教師の仕事。そのために大切なのは、子どもが自分でよりよくなりたいという気持ちをもっていると信頼し切ること。」教職を退いて5年以上経つ私だが、いつまでも教師としての「矜持」を持ち続けたいと改めて心に誓った。…『慈雨』という作品に出会えてよかった。やはり読書は続けていくものだと再認識した次第である。