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思春期の子どもにかかわる〈他者〉としての教師のあり方を探る~中学校現場における学習指導や生徒指導のあり方に関する考察を通して~②

(前回から続く)

2 思春期の子どもにとっての中学校

 K中学校の生徒たちは,休憩時になると友達同士で戯れ,時にはお互いの身体を乱暴に扱うことを楽しんでいる。特に男子生徒にこの傾向が強い。女子生徒はどちらかと言えば,友達関係に鋭敏で常に仲間づくりの戦いに明け暮れているという感じである。

 

 このような生徒たちの振る舞いを見ていると,思春期の中学生にとっては「教師-生徒」という垂直の権力関係よりも,「生徒-生徒」という水平の仲間関係の方に意識が志向しているように思う。ここに思春期特有の発達特性があるのではないだろうか。もちろん最近は教師に対して友達のように振舞う,また教師も生徒に対して友達感覚で接する者もいるので,垂直と水平の関係をきちんと区別できない情況にあるが,この場合も教師を水平の仲間関係に引き込もうとする思春期の子どもの心性が強く働いていると考えられる。

 

 一般に思春期の子どもは,第二次性徴に伴う身体の成長により,心身のバランスを崩し,精神的に不安定になる時期だと言われている。確かにその通りなのだが,何かもう一つ物足りない概念化である。

 

 そこで筆者は,自分なりに思春期の概念を次のようにとらえてみた。「思春期とは,それまでの家族を核にした人間関係を解体し,新しい人間関係を再編する時期である。」このことは,エロス的なあり方を家族の中の受容性としてのあり方から,家族の外への作用性としてのあり方へと転換していく時期であることを表している。この時期,異性に対する関心を高め,対関係の意識を強めてくるのは,必然的な発達の筋道である。しかし,近代学校の様式や文化等は,このような人間の自然な発達的傾向を阻止するように形成されてきたのである。

 

    またこの時期は,自己のアイデンティティを確立しようと悪戦苦闘するモラトリアムな時期でもある。したがって,不安定さや矛盾したものをつい表出してしまうのである。小学校や大学にはなく,中学校や高校に制服があるのは,昔から社会がこの時期の子どもに対して抱く危機感の表現ではないのだろうか。

 

    さらに,近代社会はそれ以前には「小さな大人」であった「子ども」を発見し,「未熟なために保護と教育を必要とする存在」にしてしまった。そして,前近代社会における大人になるための「通過儀礼」を,近代社会における学校の「教育課程」に変換することで,モラトリアムの期間をどんどんと延期してきたのである。しかも,現代社会は人間を相手にする第三次産業中心の高度資本主義社会=高度消費社会になり,「一人前になる」ことがイメージしにくい情況を生み出し,ますます大人になることが曖昧な時代になってしまったのである。つまり,思春期の子どもは,生物的には十分成熟して大人になっているにもかかわらず,社会的には未熟な子どものままの状態に長い間置かれている,中途半端な存在なのである。

 

    このことから,思春期の子どもにとって中学校とはどんな場所になっているか了解できるであろう。小浜逸郎は,「症状としての学校言説」(JICC出版局 1991年)の中で,このような中学校現場の情況を次のように述べている。

 

   ところが「中学生」の場合は、自分および自分のおかれている場の二重の意味が身体的によく納得できていないのである。彼らは非エロス的なものとしての制度空間と、エロス的なものとしての生徒たち固有の生活空間との矛盾した重なりの場を、まさしくそのようなものとしてはげしく生きる。こうして、教育的タテマエとその機関の内部で営まれる生活実態との<ずれ>は、「中学校」という場において、もっとも顕著な表現をみることになるのである。(p231)

 

 筆者の体験的実感から言っても,近代学校の延長線上に位置する現在の中学校は,思春期の子どもにとっては「生きづらい場所」なってしまい,教師にとっては秩序原理を喪失した「だらしない収容所」なってしまったのである。

 

 そこで,次節ではこのような場である中学校で起こっている教育危機の一つ,少年非行や荒れの実態とその対応策をK中学校の事例をもとに省察することで,思春期の子どもとかかわる<他者>としての教師のあり方を探る糸口にしたい。

 

3 少年非行や荒れの実態とその対応策
 年度当初,K中学校の雰囲気は和やかで,職員室で交わされる生徒と教師の会話はフレンドリーなものだった。もちろん生徒の服装の乱れや頭髪の色等に常に目を付けて,威厳のある注意をしていた教師も数人はいた。しかし,全体としては教師の生徒に対する物腰は柔らかで,生徒も屈託のない振る舞いをしているように見えた。

 

 ところが,筆者が3年生の社会科の授業で初めて教室に入ったときの雰囲気は,先の印象とはまるで違っていた。静かに授業を受けるという受け身の姿勢をとり,筆者の質問や語りかけにも反応がひどく鈍く,他者との<かかわり合い>そのものを拒絶するという感じを漂わせていた。そこで,筆者は自然な対話ができるような雰囲気をつくるために,共感的な態度で彼らと接するように心掛けた。このような対応を続けていると,1学期末には3クラスの内2クラスは徐々に雰囲気が和らいできて,授業の雰囲気も明るくなってきた。ただ,1クラスだけはなかなか打ち解けにくく,1学期末になっても硬い雰囲気のままであった。

 

 そして,夏休みが過ぎ2学期早々に生徒の自主的な運営で実施した秋季大運動会も終わったころ,硬い雰囲気のままだったクラスのある男子生徒が急に学校から抜け出すという行為を繰り返し,次々と学校の秩序を乱す非行を起こすようになったのである。それからあっという間に箍が外れたようにクラスの雰囲気が崩れ,授業中に勝手なおしゃべりをしたり,教師に反抗的な態度をとったりする生徒の数が増えてきた。そうなってくると,力の弱い女性教師や対話を重視する<温情派>教師の授業では特に生徒の甘えが表出してしまい,けじめのつかない授業崩壊的な状態になってしまったのである。

 

 さて,このような思春期の子どもたちの悪しき変化に対して,子どもたち一人一人を生かす授業の工夫が足りなかったのではないか,生徒指導のあり方が甘かったのではないか,もっと「教師-生徒」の権力関係を保つようにすべきだったのではないか等々という様々な立場からの倫理的な批判がわれわれ教師或いは教師集団になされるのではないかと思う。確かに筆者も中学校という教育現場の<外部>にいたら,それらに類する批判をもったかもしれないが,今<内部>にいる当事者として省察してみると,それらの批判はあまりにも形式的なものではないかと反論したくなる。

 

 もちろん,このような原因究明とその対応策の模索は,校内でもいろいろと議論してきた。前述した倫理的な批判の中でも「生徒指導体制の甘さ」についての指摘は,<内部>にいる多くの教師からも表明され,積極的な生徒指導を中心に進めようとする<温情派>の教師は発言がしにくい雰囲気になってしまった。現在の中学校現場では,従来の近代学校の様式や文化等を前提とする消極的な生徒指導が幅を利かせており,いわゆる<厳罰派>の教師の発言力は強いのである。

 

 しかし,先の非行化過程を加速した男子生徒及び荒れを惹き起こしたクラスの学級担任は,年度当初から<厳罰派>教師として子どもたちに接していたのである。だからこそ,そのクラスは,1学期末まで硬い雰囲気のままだったのではなかったか。

 

 筆者は,カウンセリングマインドをもち,生徒の気持ちを受容的・共感的に理解することを基本とする積極的な生徒指導の立場を,全面的に肯定するものではないが,職員会議の席では<厳罰派>教師の主張する消極的な生徒指導のあり方を相対化するために,<温情派>教師の立場から発言する戦略を取った。

 

 例えば,非行を起こす生徒のとらえ方と対応について,竹内常一の「子どもの自分くずしと自分つくり」(UP選書 東京大学出版会 1987年)の中から「非行と思春期統合(子どもが幼年期から親や教師の示す規範や規則等を受け入れ、適応することで安定してきた潜伏期を過ぎて思春期に入った時期に起こる人格の再統合のこと)」の問題を要約して提案をした。また,学級崩壊・授業崩壊に対する対応策については,小林正幸の「学級再生」(講談社現代新書 講談社 2001年)を基に「生徒指導上の問題解決のコツ」を具体的に提示した。つまり,K中学校の一部の生徒が非行や荒れを起こす原因を基本的に学校適応過剰から学校適応不足へと反転する思春期の心理面からとらえ,その対応策としてカウンセリング手法を活用した学級活動の推進や生徒の自治的活動の活性化という提案を行ったのである。

 

 これに対して,<厳罰派>教師たちは,非行や荒れを起こす原因を家庭でのしつけ不足と学校の生徒指導体制の甘さという家庭教育や学校教育の社会面からとらえ,その対応策として校則違反や遅刻等に対する家庭との連携を密にした徹底指導・空き教員による授業中の校内巡視の実施等という提案をしたのである。

 

 そして,結果的には目の前で起こる非行や荒れを早く何とかしたいという欲求からか<厳罰派>教師たちの提案が採用され,具体的に実施に移された。また,急速に非行化過程を辿った3年生の男子生徒に対しても厳しい措置がなされ,さらに高校受験の時期を迎えて表面的には授業拒否や授業妨害等を中心にした荒れの状態も沈静化したのである。しかし,現在の沈静化した状態は,決して問題の本質的な解決になっているのではなく,一時的なものであるように思う。なぜなら,2年生の一部の生徒の中にも3年生と同様な動きが現在見られるようになっているからである。

 

 このような問題事態への抜本的な解決法は簡単に見つかるはずはないが,K中学校の場合は非行や荒れを起こす生徒のほとんどが学力不振であるという事実は明らかであるので,単に生徒指導上の対応策のみで解決を図ろうとするのは無理であろう。つまり,学校適応不足の内実は学力不振にあり,高校進学からの脱落に対する不安や心配から精神的に不安定になり,非行や荒れを起こす場合が多いのである。したがって,中学校現場における少年非行や荒れへの対応策としては,学習指導のあり方も大きなウェートを占めるのである。ただし,この学習指導のあり方についても,先の生徒指導のあり方と同様に二つの立場の考え方があり,教師間に暗黙の対立図式ができるのである。

 

 つまり,<厳罰派>教師は,教育内容を実体的な知識や技能等ととらえ,教師がそれらを教える客体である生徒に一方通行的な指示等によって伝達するという<社会統制型>の学習指導のあり方を基本的には前提としている。それに対して,<温情派>教師は,教育内容はあくまで学ぶ主体である生徒が教師をはじめとする「他なるもの」との双方向的な対話等の過程で結果的に身に付けるという<人間形成型>の学習指導のあり方を探求しているのである。もちろん,このような学習指導に関する二つの立場の考え方が職員会議の議論の中で明確に二極化して表明されることはない。一人一人の教師の内面でこの二つの考え方が葛藤し,他の立場の意見が出されるとついもう一方の立場から反論してしまうというのが本当のところではないだろうか。つまり,現在の中学校教師は,二つの立場の考え方の中で大きく揺らぎながら日々の教育実践をしているのである。

 

 とすれば,これらの学習指導や生徒指導に関する二つの立場の考え方を止揚し,現在の中学校現場における実践的・臨床的な方略とするような対応策を早急に立てることが求められる。

 

 そこで,次節ではこのような対応策を模索しつつ,本稿の主題である「思春期の子どもにかかわる<他者>としての教師のあり方」を探ってみたい。(次回へ続く)