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特別支援教育って、「発達障害」のある子どもたちを支援する教育のこと?~岡崎勝編著『発達障害 学校で困った子?』から学ぶ~

 愛知県名古屋市で40年以上、小学校教員を経験して現在は非常勤講師(理科)をしている「岡崎勝」という人がいる。おそらくもう70歳を迎えようとする年齢ではないかと思うが、今から約30年前に私は彼の名前をある本を読んで知った。その本というのは当時、愛知教育大学教授で体育・スポーツ社会学を専攻していた影山建氏らと共に刊行していた『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』である。私が地元国立大学教育学部附属小学校で体育科の実践研究に取り組んでいる中で、勝利至上主義に陥っていたスポーツ指導の在り方を相対化し、新しい発想で行う運動文化を創造できないかと模索をしていた際に、大いに刺激を受けた本なのである。

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 「トロプス」という名称は、Sport(スポーツ)を逆に綴ったTrops(トロプス)に由来しており、その定義を簡潔に言えば「スポーツのいやらしさに辟易している人々や、スポーツから落ちこぼれた人たちのための楽しい運動ゲーム」というものである。本書はその「トロプス」を生み出した経緯や意味付けた考え方等による理論編と、それを新たな運動文化として具体化したゲーム編の構成で作られている。当時、附属小学校は「個の自律化を図る授業」という研究テーマで各教科等の実践研究を進めており、最終的には新たな教育課程を編成しようとしていたので、体育科でも研究テーマの実現を図る教育課程づくりに専心していた。そこで、私が注目したのが「トロプス」という運動ゲームだったのである。

 

 当時の思い出話はこれぐらいにして、本題に入りたい。前振りが長くなったが、今回取り上げたい本は、この『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』の編著者の一人である岡崎氏が、「発達障害」と向き合いながら学校の在り方を考え直そうとして刊行した『発達障害 学校で困った子?』である。現在の仕事をするようになった私は本書を市立図書館で見つけた時、「あの岡崎氏が特別支援教育関係の本を出している!どんな見解を披露しているのだろうか?」と興味をもち、読んでみたくなった。かつて近代スポーツ批判をしていた彼は一小学校教員として、一学級担任として、「発達障害」のある子どもたちと今までどのように接してきたのだろうか。本書のメインは、彼が2018年8月31日に神奈川県秦野市で行った講演〈「障害」の支援って何?〉の記録を基に構成した内容であるので、今回はその文章の中から特に印象に残った内容をまとめつつ、私なりの所感を付け加えてみたいと考えている。

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 本文章の中で彼は、「…子どもは一人ひとりちがいますから、実際につきあっていくうえでのボクの意識は『発達障害』か否かではなく、子どもの動きの振れ幅が大きいか小さいかという問題しかないわけですね。」と語り、その後ダウン症の子に対する配慮について述べた後、「…そういった対応をするのは、『障害はない』といわれるほかの子もみんな同じはずなのです。」と言い切っている。つまり、障害があろうがなかろうが、子どもは全て一人一人違った存在なので、各々に応じた個別の対応を心掛けることが教育の基本なのである。その意味では、教育という営み自体が「特別支援教育」なのであるという考え方であり、「発達障害」を始め何らかの障害をもっている子どもたちだけに対して行うのが「特別支援教育なのではないのである。この点について、私は彼と全く同様のとらえ方をしている。

 

 そして、最後の部分で彼はこんなことを語って結んでいる。「教員や保護者は一生懸命になりすぎちゃうと、自分を傷つけ、相手も傷つけるということになるので、適当にいいかげんに、バランスよくやっていくということがすごく大事かなと思います。」この中の「適当に」「いいかげんに」という言葉だけ聞くと、とてもマイナスのイメージを受けると思うが、これらの言葉の意味は「ほどよいこと」であったり「ある条件や目的・要求等にうまく当てはまること」であったりするので、プラス・イメージで言っているのである。また、「バランスよく」という言葉はそのままの語義で受け止めてよい。

 

 つい先日も、ある小学5年生の保護者との教育相談の場で、前年度の担任が学力不振の我が子に対して何とかしてやろうと、昼休みの時間も個別指導を一生懸命してくれたが、本人はそれがとても苦痛で登校を渋るようになったというエピソードを語ってくれた。まさに「一生懸命になりすぎて相手を傷つけてしまった」事例であろう。このような事例はよく耳にすることがあり、ある保育園では水が苦手な園児に対して、一生懸命にプールに連れて行って指導したためにその子は水に恐怖心をもってしまったという話も聞いたことがある。保育や教育という営みは、目標を達成するために、子ども自身の身になって考えるということをつい見失いがちになることがあるので、「発達障害」のある子どもに対しても特性に合った定説の支援内容や方法だからと言って、それを闇雲に取り入れて行うことは慎重でありたいものである。