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「文化的再生産論」と「他者の合理性」について~「100分de名著」におけるブルデュー著『ディスタンクシオン』のテキストから学ぶ~

 この冬一番の寒波襲来を知らせるテレビの天気予報を聞いて、寒風が余計に身に沁みる大晦日になった。また、コロナ禍による失業や減収のために困窮した生活を余儀なくされている多くの人が、心細い気持ちで年の瀬を迎えていると思うと、胸が締め付けられる。そのような境遇に置かれている人々に思いを馳せると、今、自宅で穏やかな気持ちでパソコンを叩いている自分の境遇がどれだけ有難く、幸せなのかをひしひしと実感する。だからという訳ではないが、そんな境遇にある自分が今できることは、常に自分と社会との関係性を問い直し、自分なりのよりよい生き方と社会のよりよい在り方を求めて学び続けること。そして、その学んだことを拙いながらも言語化し、ブログというSNSを活用して社会に向けて発信し続けることだと考えている。

 

 そこで今回は、年末年始の休みを利用した学びの中から、NHK・Eテレの12月の「100分de名著」を取り上げる。具体的には、ブルデュー著『ディスタンクシオン』のテキストを参考にしながら、全4回分の録画をまとめて視聴して私なりに学んだことについて綴ってみたい。

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 まず、番組を視聴した全体的な所感を述べよう。全4回の内容構成が、『ディスタンクシオン』の中で人々の趣味と階層の不可分性を分析した「ハビトゥス」「界」「文化資本」という3つのキー・コンセプトとそれらを総括したことについて解説するものであったので、私のような社会学には疎い者でも大変理解しやすいものであった。また、講師の社会学者で立命館大学大学院教授の岸政彦氏の解説が的確であり、かつ司会の伊集院光氏の具体的な解釈事例とうまく噛み合った対応をされていたので、理解がより深まった。さらに、俳優の國村隼氏の『ディスタンクシオン』の朗読は、その内容が私の頭脳にも明確に伝わってくるほど素晴らしいものだった。私は全ての放送を視聴して、大きな充足感を得ることができた。

 

 次に、私なりに特に学んだことを二つ、述べよう。一つ目は、第3回の放送において語られた、教育社会学でいうところの「文化的再生産論」という見方について。これは、出身階級に傾向付けられる性向が階層を再生産するという見方のことである。もう少し学校教育の場に即して言えば、学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本(身体化された文化資本)であるため、その資本の多寡によって学校での秩序が決まり、ひいては社会での位置も再生産されるということ。さらに、その学校で固定化される秩序が、その人の趣味やライフスタイルにも影響を及ぼし差異を再生産するという見方のことを示す。この「文化的再生産論」が投げ掛ける問題の核心は、学校の社会的機能を問い直すことにある。

 

 ブルデューは、本来、近代社会において階層に関係なく優秀な人を選抜する目的で、階層をシャッフルする機能が期待されていた義務教育が、結果的には選別と格差の維持機能を担ってしまっていたと指摘する。言い換えれば、学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本をそのまま自動的に親と同じように高い位置に押し上げるための装置になっていたのである。しかし、講師の岸氏は、このようなブルデューの主張は希望のない決定論ではないと考えている。その理由は、ブルデューの理論がその過酷さを代償に、幻想を持たずに他者を知ること、幻想を持たずに自分を知ることを可能にしてくれるからだと述べている。私は、ここに岸氏がブルデュー理論に対して新たな意味付け・価値付けを行っていると強く感じた。

 

 上述したことは、第4回(最終回)の放送において語られた、「他者の合理性」という言葉のもつ意味と意義に関連していくものであり、この内容こそ私が学んだことの二つ目に他ならない。「他者の合理性」とは、他者の行為や判断には、私たちにとって簡単に理解できないもの、あるいは全く受け入れないものでさえも、その人なりの理由や動機や根拠があり、それは他者なりの合理性があるということを意味する。そして、その合理性を調べるのが社会学の役割なのである。ブルデューがそれを階級格差や象徴闘争の中に見出し、非常に強力な理論で緻密に言語化したのが『ディスタンクシオン』であった。ここで描かれているのは、自分たちなりに自らの人生をよりよいものにするために懸命に闘っている人々の物語であり、ブルデューがやっていたのは「人生の社会学」なのだと、岸氏は明快に意義付けている。私はこの岸氏の意義付けの中に、他者との共存・共生の在り方に繋がる糸口があると確信した。社会には「私の合理性」とは違う「他者の合理性」があるということ。つまり、社会には複数の合理性が存在するという事実を認めることは、幻想に逃げることなく希望を持とうとする姿勢を形成することになるのである。これは、とても大事な視座である!

 

 もうすぐ新型コロナウィルスに世界や我が国が翻弄され続けた2020年が終わろうとしている。特に我が国は第3波がなかなか収束せず、逆に都市部では更なる感染拡大の兆候が見られる年末年始になりそうだが、高齢者の一人である私はこの期間、できるだけ妻と共に静かに「ステイホーム」しようと考えている。そして、元旦には神棚に向かって手を合わせ、「家内安全」を祈願すると共に、「今年こそ世界や我が国に希望のある未来をもたらせてほしい。」と祈念するつもりである。

 

    では、読者の皆さん、まだまだ安全・安心が保障された情況ではありませんが、よい年をお迎えください。そして、よかったら来年も当ブログの記事をご愛読くださいますようお願いいたします。