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「連帯」への希望をつなぐ「リベラル・アイロニスト」について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ②~

 今回は、2月のEテレ「100分de名著」で取り上げられた『偶然性・アイロニー・連帯』の2つ目のキーコンセプトである「アイロニー」について、テキストの中で朱氏が解説している内容を私なりに大胆に要約しようと思う。特に「リベラル・アイロニスト」というあり方に関する内容が中心になるが、まずはローティの言う「アイロニー」という言葉の意味から入っていこう。

 

 アロニーという言葉は一般的には「皮肉」「冷笑的」「斜に構えた」などというネガティブな意味合いを含んでいるが、ローティが言う「アイロニー」は18世紀末~19世紀はじめのドイツ・ロマン派の批評家シュレーゲルらが用いた「ロマンティク・アイロニー」という言葉に近い意味であり、芸術家が自らの作品を高みから見下ろし、反省し、さらなる創造につなげている態度を指すものである。つまり、彼の言う「アイロニー」は語り直す態度というものに力点が置かれていて、簡潔に言うなら「自己に対して徹底的に懐疑的であること」を意味するのである。

 

 ローティは本書の第Ⅱ部「アイロニズムと理論」第4章「私的なアイロニーとリベラルな希望」において、アイロニストを次の3つの条件を満たす者であると定義している。

① 自分がいま現在使っている「終極の語彙」(それを否定されるともう同語反復以外では二の句が継げなくなる類の語彙)を徹底的に疑い、たえず疑問に思っている。

② 自分がいま使っている語彙で表わされた議論は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわかっている。

③ 自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いとは考えてはいない。

そして、彼は「アイロニーの対極にあるのは常識である。」とも言っている。自分は正しい、なぜなら自分の考えは人間としての常識だからと言ってはばからない人は、アイロニストの対極にある人である。それゆえ自身の終極の語彙が「地域特有の性格が強い」ものだと自覚することは、アイロニストへの第一歩になるのである。

 

 しかし、常識など一切無視していいと考えるのは極端であり、ある程度の「常識の共有」が必要なのではないか。このもっともな指摘から見えてくるのは、社会生活に結びつく常識と私的な生活に結びつくイロニーという構図であり、つまるところ公共的な社会正義と私的な利害関心の対立という政治的な問題に発展していく。彼は、本書を書く際にこの問題に決着をつけるというモチベーションももっていて、このことが「連帯」を論ずるにあたっては不可欠だと考えていたのである。そして、本書を執筆する前から「公」と「私」は統合する必要がなく、むしろそうすべきではないという結論に至っていたのである。

 

 自由に自己創造を行うということ、人間は連帯しなければならないということ、この2つは実は理論的に交わらないものだと認めなければならない。そう認めた人のあり方を示す語が「リベラル・アイロニスト」であるとローティは言う。ここで彼が用いている「リベラル」の定義は、「残酷さ(暴力など物理的なものだけでなく、人を辱めたり貶めたりする心理的なものも含む)こそが私たちがなしうる最悪なことだと考え、それを避けることを求める思想」のこと。また、「アイロニスト」については、「自分にとって最も重要な信念や欲求が偶然の産物だということを認められる人物」と定義している。したがって、「リベラル・アイロニスト」とは、公共的なリベラリストと私的なアイロニストとが一人の人間のなかに同時に存在しうるあり方を意味しているのである。

 

 また、このような「リベラル・アイロニスト」は自己の偶然性を認めるのであるから、自らの信念は何らかの本質や必然に結びついているとは考えない。だから、複数のボキャブラリーをある特権的な基準に照らして、どちらがより真に近いかという意味での優劣をつけるようなことはできない。つまり、人間や社会もそういうものだと考える。このような認識は『偶然性・アイロニー・連帯』の中心にある「人間や社会は具体化した姿形をしたボキャブラリーである」というテーゼに表われており、その帰結はことばづかいが変われば人間は変わるし、流通することばづかいが変われば社会も変わるということになる。ここに、ローティが会話や語彙にこだわる背景がある。

 

 ローティ哲学にとっては、公私の区別が決定的に重要であり、それはリベラルの目標である「残酷さを最小化する」ことにも極めて有用なのである。もし公私の統合の要求を放棄すれば、私たちは公的にも私的にも会話を続けることができる。そして、会話を続けるなかで、私たちは他者の語彙に触れ、自分の「終極の語彙」を再記述に開いていくこともできる。この再記述の余地があるからこそ、私たちはそこに、他者とのつながりや重なりという希望を見出すことができるのである。つまり私たちは、「リベラル・アイロニスト」であるからこそ、「連帯」への希望をつなぐことができるのである。

 

 しかし、先に述べたような人間・社会観は、単に理想的なユートピアだけを現出させるものではなく、そこには負の側面もある。そこで次回は、3つ目のキーコンセプトである「連帯」についての朱氏の解説内容を要約する中で、他の2つのキーコンセプトである「偶然性」や「アイロニー」におけるネガティブな面にも目を向けていくことになるであろう。