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公教育で育成すべき〈教養=力能〉とは…~苫野一徳著『どのような教育が「よい」教育なのか』から学ぶ②~

      著者の苫野氏は、公教育の本質を「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」と端的に定式化している。そして、本書の中で各人の〈自由〉も社会の〈自由の相互承認〉も、各人の一定の〈教養=力能〉がなければ、現実に実質化することはできないと言っている。言い換えれば、私たちが自由な社会生活を営むためには、私たちに一定量の知識教養を獲得することが不可欠なのである。今までの教育用語では〈基礎学力〉ということになると思うが、著者が言う〈教養=力能〉は単にそれと同義ではない。では、その概念や中身をどのようにとらえればよいのだろうか。

 

 そこで今回は、この公教育で育成すべき〈教養=力能〉について本書で説明されている内容を私なりにまとめてみたいと思う。

 

 まず、著者は〈教養=力能〉という用語を使う理由や根拠について、次のように述べている。…よく知られているように、「教養」と訳されるドイツ語のBildungは、豊かな意味内容をもった言葉である。私はしばしばこれを「力能」とも訳している。これは哲学者の西研から借りている。教育が育成すべき教養とは、読書算とかコミュニケーション能力とかいったいわば個別的な力というよりは、自らが〈自由〉になるための、これらを含むより包括的な力能なのである。

 

 次に、著者は公教育が全ての子どもたちにその育成獲得を保障する〈教養=力能〉の本質について、次のように述べている。…特に義務教育段階において育成獲得が保障されるべき〈教養=力能〉を、私は「共通基礎教養」と呼ぶことにしたい。ここでいう「共通」の意味は、一つには全ての子どもたちに共通に獲得を保障すべき基礎教養という意味。もう一つは、将来どのような学業や職業に就いても、一定程度共通に必要とされる教養という意味である。そして、この「共通基礎教養」の本質を、私は三つ取り出したいと思う。一つは、重要な「諸基礎知識」、二つは「学び(探究)の方法」、そして三つは「相互承認の感度」である。前者二つは、一般的な用語で言えば「学力」のこと。そして最後の一つは、一般的な用語で言えば「ルール感覚」のことである。

 

 さらに、著者は上述した「共通基礎教養」の本質について、次のように詳しく説明している。…一つ目の「諸基礎知識」については、特に重要な内容にして量的にも絞り、徹底的にその獲得を保障する必要がある。しかしそれと同時に、その過程において二つ目の「学び(探究)の方法」を十分に身に付けることができれば、子どもたちは自ら探究したいと思う事柄について、学校が教えるより効果的に、また深く、自ら学ぶことができるようになるだろう。義務教育段階において決定的に重要なことは、「諸基礎知識」の「分かる」「できる」を徹底すること、そして「分かる」「できる」をより充実させていくための「学び(探究)の方法」を、徹底的に育んでいくことなのである。次に、義務教育段階以降の教育の機会において育成が求められる〈教養=力能〉、つまり「自らの教養」は、より専門的かつ探究的、そして自身にとってこそ重要な、自らをより〈自由〉な者たらしめてくれる「教養」でなくてはならない。それは、自らの「生きたいように生きたい」を、自ら実現するための「教養」である。最後に、もう一つの重要な本質である「相互承認の感度」、つまり「ルール感覚」については、お互いが合意して決めたルールは守るべきことを知らさなければならない。ただし、子どもたちは〈自由〉の感度が育ってくるに伴い時にはルールを破ることもあり、必要に応じてルールは常に作り直し、また編み直し合っていけるものだという認識も育てていく必要がある。

 

 以上、公教育が全ての子どもたちにその育成獲得を保障する〈教養=力能〉の本質について、著者の考えをまとめてみた。私自身、三つ目の「ルール感覚」についての考え方は、以前に取り上げた「特別の教科 道徳」に関する記事においても述べたように大賛成である。また、一つ目の「諸基礎知識」と二つ目の「学び(探究)の方法」についての関連的な考え方も、私としては概ね賛成の立場である。ただし、その具体的な内容については、検討内容が明確にされていないので、賛否の立場をはっきりとさせることはできない。というのは、「諸基礎知識」の内容として、学習指導要領に示されている各教科等の指導内容の中でどこまでの内容を想定するのか。また、「学び(探究)の方法」として、基本的に問題解決学習における探究過程を想定するのかなど、個別には議論の余地があると思うからである。これらの点については、今後の実践的な検討課題として残しておくことを記して、今回の記事はここら辺で筆を擱きたい。