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経験主義に立つ「問題解決学習」論を再評価する!~上田薫著『個を育てる力』を再読して~

 前回の記事で、10月のEテレ「100分de名著」で取り上げている西田幾多郎著『善の研究』の解説内容から学んだことを綴った。そして、今回はその続編を投稿するつもりであったが、西田幾多郎氏の孫になる、元都留文科大学学長で「社会科の初志をつらぬく会」の名誉会長でもあった上田薫氏が、10月1日に逝去していたことを先日のネット・ニュースで知った。私は、何かの因縁を感じた。そこで、急遽、今回の記事で上田氏について取り上げることにした。

 

 上田氏は、戦後日本における「新教育」、特に小学校社会科において経験主義に立つ「問題解決学習」を提唱した教育学者で、それまでに上梓した著書の集大成として1978年に明治図書出版から『上田薫社会科教育著作集』(全5巻)、1992年~1994年にかけて黎明書房から『上田薫著作集』(全15巻)が刊行されている。氏はみずからの立場を「動的相対主義」としながら、当時「這い回り」と揶揄・批判された経験主義に立つ「問題解決学習」の意義を主張し続けた。この「動的相対主義」という立場とは、従来の「科学の内容を系統的に学習すれば科学的な認識が育つ」という系統主義という立場に疑問を提起し、「科学の相対性」を主張する立場である。

 

 私が自分なりの教育実践論を構築しつつあった20代後半に、このような立場から著された『個を育てる力』(上田薫著)と初めて出会い、多大な影響を受けた。私はこのことをきっかけにして、その後、著者の「動的相対主義」の考え方とある面で類似していると考えるフッサールの「現象学」へと傾倒していったのである。

 

 そこで、以下では本書の中で特に影響を受けた「系統主義との対決―問題解決学習論―」という論考の要旨と、それに対する私なりの簡単な所感をまとめてみたいと思う。

 

 著者は教育の目的としての「系統」を単に否定しているのではなく、むしろ有用であることを認めている。そして、その「系統」について厳密な「関連性・統一性」が要求されるが、「つながる」ということはそれが生きた関係である以上絶えず動くということが前提になるべきであるから「系統の相対性」は明白であり、「系統」は固定されたものではなく、明らかに変化し動くものであるとの見解を示している。しかし、その「系統」を固定化し金科玉条の如くとらえて注入しようとするいわゆる「系統主義」に対しては、毅然とした態度で対決するのである。その理由は、著者が「問題解決」という手段によってのみ「系統」が成立し発展すると考える「問題解決学習」論者であるからである。著者は、知的探究のもっとも自然な姿は「問題解決」であると強く主張している。

 

 ただし、問題把握に始まって仮説の検証、さらに適用と進む過程を形式化すれば、かえって子どもの思考を殺す結果になると警鐘を鳴らしている。必要を明確にすることを怠って型に頼ることは、明らかに学習に分断を惹き起こす。問題の解決は必要に徹して核心に突き進むことによってのみ期待されるのである。「問題解決学習」が望むことは、それぞれの子どもがそれぞれに意味のあるかたちで知識や技能等を獲得していくことである。表面的な知識より深層にある理解を目指すとき、「問題解決学習」がもっとも自然な知的探究の態勢になると著者は繰り返し述べている。

 

 私は、著者のこのような経験主義に立つ「問題解決学習」論を支持する。教育においては、「系統」とはあくまでも子ども一人一人のものとなる複雑な動的系統である。また、その「関連性・統一性」はあくまでも生きたもの・個性的なものの中で成立しなければならない。「問題解決学習」は、それらを可能にする学習方法なのである。近代教育は、ともすると知識や技能等の「系統」を科学化・実体化し、それを注入的に教え込もうとする教育方法を採用してきた。しかし、本当に知識や技能等の「系統」が一人一人の子どもに身に付くようにするためには、現実的な必然性に支えられた問題を子どもたちが主体的・協働的に解決していく学びの過程を保障することが求められるのである。近代教育の弊害を克服するには、やはり経験主義に立つ「問題解決学習」論の復活なくしては成し遂げられないと私は考える。

 

 来年度から全面実施される小学校学習指導要領において強調されている「主体的・対話的で深い学び」とは、現代的な経験主義に立つ「問題解決学習」の具体的な姿だと考える。私は、今こそ上田薫氏が唱えた「動的相対主義」という経験主義に立つ「問題解決学習」論をもう一度見直し、再評価すべきだと思う。