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「実在」と「純粋経験」について~「100分de名著」における西田幾多郎著『善の研究』に関する解説内容から学ぶ②~

 今回の記事は前々回の続編となるものであり、10月のNHK・Eテレ「100分de名著」の第3回目(10/21)に放送された番組とそのテキストの中で、講師の評論家で東京工業大学教授の若松英輔氏が解説した内容から、本書の中核的問題である「実在」と「純粋経験」について学んだことを要約的にまとめてみたい。

 

 まず、「実在」と「純粋経験」の二つの問題を、西田の「思惟」という哲学的営みの両面だと考えると、西田哲学の「骨(コツ)」がつかめると、若松氏は的確に解説している。また、「純粋経験」とは「実在」を経験することであり、「実在」は「純粋経験」を通じてのみ経験される。さらに、西田は『善の研究』によって「実在」、あるいは「純粋経験」という真理へと通じるであろう道を提示しようとしているとも述べている。

 

 では、「実在」とは何なのであろうか。西田は岩波書店版の「版を新にするに当って」という序文の中で、「実在は現実のままのものでなければならない」と言っている。言い換えれば、「実在」を感じるには、世界をありのままに感じなければならないのである。しかし、私たちは気が付かないうちに、自分の価値観や世界観によって「実在」を覆ってしまうから、「ありのままの世界」を感じることが簡単にはできないのである。そのため、西田は禅に打ち込むことで、この「ありのままの世界」を全身で認識しようとしたのである。

 

 西田にとって「実在」とは何かを考えることは、そのまま「不可知な存在」である「神」とは何かを考えることであった。西田のいう「神」は、それを知りえないという経験を通じて深く認識される何かといってもよい。しかし、人間が造った「価値」に「神」を当てはめるのでは、「神を間接」的に認識したところで終わる。重要なのは「神其者を自己の直接経験において直に」認識することなのである。「実在」を究めようとすることはそのまま、「神」の認識の深化にほかならない、それが西田の実在論の結論だったといってもよいと、若松氏は分かりやすく解説している。

 

 次に、「純粋経験」とは何なのであろうか。西田は「純粋経験」とは「事実に従うて知る」こと、言い換えれば、人間が事実に従うときにはじめて「純粋経験」となるという。このことは、通常のような人間が主語になる世界から、「世界が人間に何かを感じさせる」というような世界が主語になる世界へと私たちを導くことである。また、西田のいう「経験」(「純粋経験」、「直接経験」のこと)は、私たちを量的な世界から質的な世界へと導く。つまり、「多い/少ない」の世界から「ただ一つ」の世界へと誘うのである。

 

 西田にとって「純粋経験」とは、どこまでも対象「を」深く見つめ、直接的に認識することであり、対象の本質にふれることである。西田は、この経験をもっとも豊かな経験、「経験の最醇なる者である」だと述べるとともに、「思想」「思慮分別」「判断」から自由になることが「純粋経験」の始まりだとも言っている。これらのことから、若松氏は「純粋経験」とは、ある意味では「メガネ」を外して世界を見ることにほかならないと述べている。

 

 以上のように、西田にとって「実在」あるいは「純粋経験」とは何かを「考究」することが、『善の研究』における中核的問題だったのである。「考究」とは、「考える」ことを究めることであり、存在の究極点に向かって考えを展開することである。したがって、西田は『善の研究』を書くことによって「わたしの哲学」を発見しようとしたと言ってもよい。そこで若松氏は、読者である私たちにもそれぞれの「わたしの哲学」を書く、すなわち「論究」することを提案している。そのためには、まずはどんな文章でもかまわないので、書いてみること勧めている。西田がそうしたように、自分の切実な経験、切なる思いを言葉にしてみるという素朴な「書く」という行為こそが「読む」ことを深めるとも述べている。

 

 私は、今、この記事を書いているが、これは自分の切実な経験や切なる思いを言葉にしているのだろうか。私は改めて「書く」という行為について、その意味や価値を問い直す必要性を感じた。また、このことは私に新たな学ぶべき課題を提示されたように思った。今回の記事を書くという作業が、また新たな学びのスタートの位置に着くことに繋がった。Eテレの「100分de名著」は、取り上げる名著にもよるが、これからもできる限り視聴して学んでいきたい。