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分断を乗り越える思想とは?~「100de名著」におけるヘーゲル著『精神現象学』のテキストから学ぶ~

 四国地方はすでに梅雨入りし、カレンダーも6月のページになってしまったが、今日は先月放映されたEテレの「100de名著」の話題を取り上げよう。5月に取り上げられた名著は、「近代哲学の完成者」とも称されるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルの『精神現象学』であった。極めて難解な哲学書として有名であり、読破した人はほとんどいないのではないかとも言われている書である。もちろん私などには手が出る哲学書ではないが、今までにヘーゲル哲学について触れた哲学関連の本を何冊か読んだことがあったので、ちょっとした興味をもった。また、講師が「100de名著」で以前にカール・マルクスの『資本論』を取り上げた時に分かりやすい解説をしてくれていて、好感をもった東京大学准教授の斎藤幸平氏だったこともあり、私は事前にテキストを購入して通読した後に、録画していた放送分を暇な時間を活用して順次視聴したのである。

 今回の「100de名著」は、「精神」と「承認」を主たるキーワードにして『精神現象学』を読み解いていくという構想の下で、各回のキーワードは第1回が「弁証法」と「承認」、第2回が「疎外」と「教養」、第3回が「啓蒙」と「信仰」、そして最終回が「告白」と「赦し」をめぐるストーリーを入り口として、自由な共同体を実現する「相互承認」と「絶対的な知」のあり方を考えていく構成になっていた。お馴染みの安部みちこアナウンサーとタレントの伊集院光氏が番組の司会役で、日常的な話題を取り上げて、難しい内容を噛み砕いて伝えてくれるので、私は楽しく視聴することができた。

 

 講師の斎藤氏が、第2~4回の放送において特に自由を実現するための「相互承認」のあるべき姿を詳しく論じている「精神」章について取り上げ、その内容のポイントを解説してくれており、私は大変勉強になった。その中で、ヘーゲルが「精神」を人間に特有の社会的行為の総称としての「私たち」として定義付け、徹底的に解き明かそうとした筋道は、「精神」が社会の中で多くの他者と交わり、影響をうけながら、「私」が「私たちの中の私」として成長していく過程を描いたものになっている。

 

 その成長過程を素描すると、「精神」が素朴な意識から出発して「教養」⇒「啓蒙」⇒「良心」へと長い旅を続けてきて、ついには「相互承認」という「絶対精神」へ到着するのである。ヘーゲルは、この「精神」の到着点を「絶対知」と呼んだのであるが、後世の人々の中にはこの「絶対精神」や「絶対知」を全知全能の神の観点として誤解する者もいる。実は、ポストモダン思想に洗礼を受けた私もその愚かな者の一人であったから、そのとらえ方はヘーゲルが考えていたこととは正反対だったので、私の今までのヘーゲル観とその評価は全く転換したのである。

 

 ヘーゲルが「絶対知」と呼んだ概念は、「近代社会におけるコンフリクトを適切に処理することを可能にする相互承認という精神」のことであり、これは絶対的に正しい知のもとで安住するような精神ではなく、「コンフリクトを相互承認に基づいて調停し、一緒に考えながら、絶えず新たな知を反省的に生み出していく」という、この問い直しのプロセスが永遠に続いていく「開かれの始まり」のことを指している。また、「絶対精神」という概念も、「常に新たな知に開かれている精神のありようとしての相互承認のこと」を指しているものなのである。

 

 現在、社会の分断はますます深まっている。このような中、完全には分かり合えない他者と、共に生きていくためには何が必要か、どうすれば分断を乗り越えて、自分や相手の自由や価値観を押しつぶすことなく、社会の共同性や普遍的な知やルールを構築することが可能なのか。このようなテーマが「承認論」として論じられているのが、『精神現象学』なのである。

 

 講師の斎藤氏はテキストの最後の部分で、現実の社会で自由が実現するかどうかは、私たちの選択にかかっており、再動物化という野蛮への道を選ぶのではなく、「自由の意識における進歩」という精神の「労働」がもたらした成果を引き受けて、他者と共に生きていく未来を築くことができるかどうか―それこそが、現代を生きる私たちに付き付けられている課題なのだと締めくくっている。「相互承認」の道を選択するかどうかは、私たちの「自由」であるのだから、もしそれを放棄すると社会の「自由」は消失してしまう。その意味で、今、私たちが享受している「自由」も決して安泰ではないのである。