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二つの〈良心〉が和解(相互承認)することができた理由とは?~西研著『ヘーゲル・大人のなりかた』から学ぶ~

 前回の記事で、5月のNHKのEテレ番組「100de名著」で取り上げられたヘーゲルの『精神現象学』で述べられている「精神」の成長過程を、講師の斎藤幸平氏のテキストを参考にして素描した。そして、「精神」の最終的な到達点である<良心>の和解(相互承認)、つまり「絶対精神」や「絶対知」についても簡単に触れた。しかし、二つの〈良心〉が和解(相互承認)するプロセスについて触れる余裕がなく、その内実を分かりやすくまとめることができなかった。

 

 私はこのことが気になっていて、次の記事では二つの〈良心〉が和解(相互承認)する過程について綴ってみたいと思っていた。そのような面持ちの中、確か昔読んだ本の中でこの点について分かりやすく解説していた本があったことをふと思い出し、私の書斎の書架に並んでいる哲学関係の書籍コーナーをちょっと探してみた。すると、あった!あった!!もう20年も前だが、私が地元の国立大学教育学部附属小学校に在任中、「自己をひらき、ともに生きる子どもの育成」という研究テーマで実践研究に取り組んでいた頃に、その基になる理論を構築するために読んだ本である。それは、『ヘーゲル・大人のなりかた』(西研著)。私は当時を想い起しながらここ2週間ほどじっくりと再読し、昨日やっとのことで読み終えた。

 本書が出版された時期は、まだポスト・モダニズムの思想が大きな影響力をもっており、アンチ・ヘーゲルの風潮が強く残っていた。本書は、まだ30代後半の著者がそのポスト・モダニズムの思想を過渡期の思想と位置付け、新たな時代の思想のスタイルを作り出そうとして、アンチ・ヘーゲルの風潮に対抗するようにヘーゲル哲学の神髄を見極めようと著した意欲作である。本書の全体構成は、次のようになっている。

〇 序 章 「ヘーゲルってどんな人?」

〇 第一章 「人々が熱狂した近代の夢-自由・共同性・道徳性」

〇 第二章 「愛は地球を救えるか」

〇 第三章 「自己意識は自由をめざす」

〇 第四章 「わがままな意識は大人になる-『精神の現象学』の構想」

〇 第五章 「私と世界の分裂と和解-精神の歴史的な歩み」

〇 第六章 「制度の根拠はどこにあるのか-家族・市民社会・国家」

〇 終 章 「ヘーゲル哲学をどう受けつぐか」

 

 そこで今回は、本書の第五章において『精神の現象学』で語られている「二つの<良心>の和解(相互承認)」に関する解説を参考にしながら、その内容を私なりに要約してみようと思う。

 

 まず、ヘーゲルは<良心>という用語を、「掟のためにある自己ではないという意味の<自己>に道徳上の全権を認める態度とそういう態度を取る個人」と定義し、カントの道徳法則のような抽象的な規範(「普遍的であれ」)とは違って、「具体的にはこうせよ」と自分の心にインスピレーションのように到来するものと呼んでもよいと語っている。そして、この<良心>を理性の極限として描いている。しかし、<良心>には「独善」と言われてもしかたがなかったり、感性や気分という恣意的な内容になったりする面があるために、「他者からの承認」が得にくいところがある。

 

 そこで、ヘーゲルは<良心>がもつ「言葉の力」、つまり言葉によって「自分の知と意志が正義であるという情念」を表現することに着目した。他者がその言葉を受けて、「あれは良心からの行為だったのだなあ」と認める時、他者は彼を「良心ある者」と承認する。たが、ヘーゲルはこの「言葉による承認」という場所にこそ「欺瞞」が侵入してきて、そこから二つの欺瞞的な<良心>(次の示すような<批判する良心>と<行動する良心>のこと)の形態が登場し、それぞれが自分の非を認めず鋭く対立し合うことになると指摘する。

〇 <批判する良心>・・・自分は行動せずに、他人の行為に対してあれこれとイチャモンをつけ、自分の「卓越する心情」を表明しようとする。彼は行為を無視して言葉の普遍性に重きをおく。

〇 <行動する良心>・・・自分の個別的な行為に重きをおいて言葉を表面的なものとみなし、どんな行動にも「情念」のレッテルさえ貼ればすむと思っている。

 

 では、ヘーゲルはこの二つの<良心>のその後をどのように語っているのだろうか。結論を先に言えば、最終的には和解(相互承認)へと至ると語り、その過程を次のように描いている。

① <行動する良心>は、相手からの指摘によって、自分の「悪」をはっきり自覚し、その態度を相手に告白し、放棄することを誓う。

② しかし、<批判する良心>は相手をなかなか赦そうとはせず、「峻厳な心情」となって相手をはねつけたために、<行動する良心>は深く傷つく。

③ だが、こうなってみると、<批判する良心>は自分の普遍性だけにこだわっている態度こそ「悪」であると気づき、それを放棄し相手の「悪」を赦して、相手の存在に全面的に同意を与え和解する。

 

 この二つの<良心>の和解(相互承認)は、それぞれに「わがままに行為を決定する態度」や「わがままに相手を批評する態度」を放棄するので、双方にとっての自己喪失でもある。しかし、そのことを通して、かえって相互の承認が達成され、和解が成立するのである。このことは、個別的な意識である<行動する良心>と普遍的な意識である<批判する良心>とがひとつになることであり、「精神」の本来のあり方(自由であり共同的であること)がここに達成され、しかもそのことが双方に自覚されている。この承認こそ、ヘーゲルは「絶対精神」と呼んだものなのである。

 

 それにしても、なぜこの二つの<良心>が和解(相互承認)することができたのだろうか。ヘーゲルは、このことをきちんと語らずに、「個別性と普遍性の一致」という論理的な言葉で語っているだけだが、著者の西氏は和解の理由を次のように表明している。

① 二つの<良心>ともに、「私は共同的な存在になりたい」という願いが目覚めたから。

② お互いの中に、「共同的存在であろうとする意志」を確認し合うことができたから。

 

 ここから著者は、ヘーゲル哲学の中にある、次の二つの思想を取り出している。

① 「真実の良心」(真実の道徳性)というものを、共同体のルールへの忠誠でも、なんらかの理念への忠誠でもなく、共同性への意志であると考えていること。つまり、《共同的な存在であろうとする意志こそが、あらゆる正義やルールやモラルの根底にある》という思想。

② このような共同性への「意志」の相互承認こそ、過去の対立や悪の行為という「傷」を癒やす精神の力を見出そうとしていること。つまり、《共同的であろうとする意志の相互承認にこそ、対立を癒やして和解に至る鍵がある》という思想。

 

 今、世界はロシアによるウクライナへの侵略や、中国による台湾併合への動向等、国家間「対立」が顕在化している情勢である。また、国家内でもその立場の違いからの「分断」の情況が生起している。これらの切実な課題をよりよく解決していくことは、人類が共存・共生していくためには避けて通れない。また、個人と個人、個人と国家や社会等のより身近な葛藤をよりよく克服していくことも、実存的・社会的な存在としての私たち市民の日常的な営みである。私は、上述したヘーゲルの思想がこれらの課題解決や葛藤克服のための有効な指針となると考えるが、皆さんはどう思われますか。