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「本当の自分」の本質とは何なのか?~山竹伸二著『「本当の自分」の現象学』から学ぶ~

 衝撃的なニュースだった。「参議院選挙に向けて奈良県で応援演説をしていた安倍元首相が、背後から凶弾を受けて倒れ、その後運ばれた病院で死亡した!」…「ロシアがウクライナへ軍事侵攻した!」という報道が流れた時と変わらない、否、それ以上の衝撃を私は受けた。世界の中でも治安のよさで知られ、銃規制もしっかりになされている我が国で、このような許し難い蛮行が行われたことに、ほとんどの日本人は茫然自失になったと思う。死亡した安倍氏は67歳。人生100年と言われる時代を迎える現代ではまだまだ若い年代であり、内閣総理大臣の連続及び通算在籍年数が憲政史上1位という実績をもつ元首相のこれからの政治活動に期待する国民も多かったので、受けた衝撃は計り知れないと思う。

 

    それにしても、なぜ、このようなことが起きたのか?私が知る限りの情報では、「容疑者の母親が、ある宗教団体(旧統一教会)にのめり込み多額の寄付をしたために破産し、家庭がめちゃくちゃになってしまったので、その団体の幹部を成敗しようと殺害計画を立てたが実行は難しいと思った。そこで、その団体と関係がある安倍元首相を殺そうと思った。」という動機だそうである。これが本当のことなのかどうかは、今後の更なる捜査に委ねる外ないが、事実だとすればあまりにも身勝手な犯行動機ではないだろうか。確かに同情すべき家庭的な事情はあるとは思うが、だからと言って私的な恨みを晴らすために暴力によって人命を奪うという犯行は、絶対に許すことはできない。また、民主主義の根幹たる国政選挙期間中に、遊説している政治家を殺害するというのは民主主義を否定するような暴挙であり、あってはならないことである。

 

    この事件が起きて1週間という時間が経ったが、私は安倍氏と同い年であることもあって、心の中の動揺は未だに治まらない。また、その政治信条に対して少なからずシンパシーを感じるとともに、「森・加計」問題や「桜の会」問題等に対して深い疑惑をもっている私は、安倍氏との間接的とはいえ日常的な関係性が、突然なくなってしまったことの喪失感は大きい。まさに心の中に穴が空いた感じ。そのような心境の中で、山上容疑者の逆恨みとも言える犯行動機の裏側に潜む実情とその心理にも、私は強い関心を持ち続けている。

 

    一部の報道によると、山上容疑者は幼い頃に父親を亡くし、またその後、母親と祖父、兄妹らと比較的裕福な暮らしを送っていたらしい。また、同級生によると、小・中学校時代の彼は勉強も運動もよくでき、性格も穏やかで優しく、「非の打ち所がない」人物だったそうである。ただし、奈良県内の進学高校に通っていた頃には、応援団に所属していたが、友達とは距離を開けて一人で行動していた様子だったという。そして、母親が自己破産した時期と同じ2002年8月(彼が20歳か21歳頃)には、「任期制自衛官」として海上自衛隊に入隊し、その後3年間の任期を終えて退官している。

 

    私は本件の犯行動機の構成要素として重要な点は、彼の高校卒業後の進路だと思っている。母親が旧統一教会へ入信して寄付をし始めたのが2000年だから、彼が高校3年生頃ではないかと思う。もしかしたら、この時期の彼が置かれていた家庭の経済的な状況や家族関係の実相等が、彼の人生設計を狂わせるほどの影響を及ぼしたのではないか。自分の志望していた大学受験を経済的な理由で諦めたのかもしれない。また、就活をしていたが思うような就職先が見つからなかったのかもしれない。推測は尽きないが、私はこの時期の彼の情況をもっと詳しく知りたい。(もしかしたら、どこかの新聞や週刊誌の記事に掲載されてしているのかも知れないが…)

 

    これは私の勝手な憶測だが、この時期の山上容疑者は自己不全感や不遇感に襲われて、自暴自棄な精神状態になっていたのではないか。自分なりに描いていた将来設計が、母親の旧統一教会への多額の寄付によって経済的に叶わなくなってしまい、この理不尽な現実を生きる自分に対して、「自分はこれからどう生きて行けばいいのか。」「自分は何のために生きているか。」等々、青年期の彼は実存的な不安を抱えていたに違いない。そして、その中で「本当の自分」を探し求めていたのではないか。もしその時に彼がそのような自分を深く自己了解し、自己価値を見出して、他者からの「承認」を受けるような方向へ歩んでいたら、今回のような事件を起こすことはなかったのではないかと思う。

 

 このようなことを考えていた私は、彼と同じように「本当の自分」を見失い「本当の自分」を探し求めている人の心理や、「本当の自分」を見出すことや「本当の自分」を実感することの意味について知りたいと、次第に関心を広げていった。私はもともとポストモダン思想(「現代思想」と言ってもよい。)の影響を受けて、「真理や絶対的なものはない。ものごとの意味や価値は全て相対的なものにすぎない。」という考えに共鳴していたので、当然「本当の自分」が心の中に実体的にあるとは思っていなかった。しかし、何らかのきっかけで「これが本当の自分だ」と感じる体験自体を否定することはないとも考えていた。だから、「本当の自分」の本質についてじっくりと考えてみたいと思っていたのである。そんな中で、偶然出合ったのが、『「本当の自分」の現象学』(山竹伸二著)という本だったのである。

 そこで今回は、著者の山竹氏が現象学的に解明した「本当の自分」の本質について、特に私が深く納得した内容の概要をまとめてみようと思っている。ただし、この内容はあくまでも本書の内容の一断面程度のものなので、もっと具体的な内容を知りたいと思われた方々には、ぜひ本書に目を通してほしい。私は、本書の内容にとても共感して納得することができたので、多くの人々も共通了解できるものだと確信している。

 

 まず、<序章 「本当の自分」とは何か>において、著者は自らの体験を踏まえて、「本当の自分」という観念は、無意識の欲望・不安として確信されたものが、自己意識に転化して生み出されたものだから、「本当の自分」の本質を解明するためには「無意識」の概念に焦点を当て、そこから掘り起こしてみる必要があると言っている。そして、その考察を進める中で、「無意識」への学問的関心が近代における理性主義への反動から生まれたこと、「無意識」に一般の人々が関心を抱くようになったのは近代に至って「自由」を手にしたこと、「無意識」の正しい解釈は確定できないことなどを明らかにしていく。その結果、私たちが問うべきは「無意識を了解すること」の本質ではないかという考えに至り、その本質を解明するために現象学の「本質観取」という独自の方法を使って「本当の自分」を求めてしまう根拠を明らかにしたいと表明している。

 

 次に、<2章 無意識の現象学>において、著者は実際に現象学の「本質観取」によって、「無意識」が日常の中でどのような意味を持つのかを具体的な手順を示しながら解明していく。その過程で、「無意識」とは自己了解であり、事後的に想定された自己像であるという認識に至る。さらに、「無意識」の存在確信につながる自己了解は、「身体現象」「他者関係」「承認欲望」といった三つの要因によって生じているという結論を得る。このことから、これら三つの要因は、「これこそ本当の自分だ」という確信を生み出す要因でもあることが分かったと明快に示している。

 

 以下、著者は「身体現象」「他者関係」「承認欲望」の考察を順次進めていき、「本当の自分」の本質に迫っていく。ここでその内容を追っていく作業を継続することは、今の私の時間的制約や体力的限界を考えると難しいので、とりあえず章立てだけを紹介すると、<2章 欲望と当為の自己了解><3章 相互幻想的自己了解><4章 他者の承認から自己承認へ>となる。これらのタイトルだけを見ても、どのような考察内容なのだろうかと知的好奇心が起きてくるのではないだろうか。ぜひ本書を手にして、自分の目と頭でその知的好奇心を満足させてほしい。

 

 最後に、本書の最終章<5章 自由と承認を求めて>の内容に少し触れておきたい。著者は、4章までの考察から、「本当の自分」を実感するような状況には二つあることが明らかになったと言う。一つは、親和的他者による愛情的承認が得られた場合であり、これは恋人や親友、家族等にありのままの自分を肯定された時に生じる「本当の自分」の実感。もう一つは、一般的他者の視点によって自分の行為の価値を自己承認できた場合に生じる「本当の自分」の実感である。そして、この二つの「本当の自分」は、「自由への欲望」と「承認への欲望」が深くかかわっている。言い換えれば、「本当の自分」は「自由」と「承認」という二つの本質契機を有しているのである。ここで重要なことは、「本当の自分」が最初からどこかにあるわけではなく、恋人や親友等に出会った結果として、あるいは自己価値を求めて努力した結果として、「本当の自分」の実感は生じてくるのである。「本当の自分」を探し求める人たちは、目的と結果を取り違えてしまっているのである。

 

 また、著者は次のようにも言っている。もし「本当の自分」を感じられない自己不全感から自分で抜け出そうと思うなら、親和的他者にばかり期待するのではなく、自分なりに価値があると思える行為に向かって歩み出さなければならない。「ありのままの自分」の価値を他者に承認してもらおうとするよりも、他者に承認してもらえるような努力をして、そこに自分の価値を見出す必要があるのだ。一般的な他者の視点から自分の行為の価値を熟考し、自分の行為が価値あるものだと自己承認できれば、自ら進んでその行為とその成果に向かって邁進できるだろう。そこに、自分の行為を自分で決めているという「自由」の感覚、自分の行為が一般的他者に「承認」されているという感覚が生じ、「本当の自分」の実感が得られるのである。

 

 私は、上述したような著者の文章の意味を20歳頃の山上容疑者が知り、自らのこれからの生き方について深く考え、その時の荒廃した気持ちを「本当の自分」を実感できるような方法へ切り替えていたら、今回の事件を起こすことはなかったのではないかと思う。彼の優秀な頭脳を、自分の行為が価値あるものだと自己承認できる方向へ向けて活かしていたら…と思うと、私は残念で仕方ない。安倍元首相のご冥福を心よりお祈りしつつ、今回の記事はここらで筆を擱きたい。