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「分人」って、何のこと?~平野啓一郎著『わたしとは何か―「個人」から「分人」へ―』から学ぶ~

 例年よりもかなり早く6月末には梅雨が明け、厳しい暑さが連日続く中で7月に入った。私が当市の教育委員会特別支援教育・指導員として働き始めて、丸1年が過ぎた。現在、午前中は、派遣相談申請のあった学校へ出向き、何らかの「困り感」のある子どもの授業中や休憩時間等における様子や行動を観察したり、学級担任や特別支援教育コーディネーターの先生方から当該児に関する情報を収集したりして、それらの内容をなるべく詳細にメモに取って帰る。帰庁後は、そのメモを基にして当該児の受理簿(教育相談記録簿のようなもの)に必要な事項をパソコン入力する。午後になると、今度は既に行動観察等をしてきた子どもが在籍する学校へ出向き、16時頃から約1~2時間、先生や保護者との教育相談の場に臨み、帰庁するのは定時退庁の時刻を過ぎることが多い。このように体力的には結構ハードな毎日を過ごしている元教員の私だが、「やはり教育現場と直接的に関わる公共性の高い仕事は、私には合っているなあ。」と充実感をしみじみと味わっている。この仕事に挑戦してみて、よかった!!

 

 さて、そんな日々を送る中、私は暇を見出しては趣味の読書も細々と続けている。つい先日も、昼休みの時間を利用して市立中央図書館に出掛け、気になった本を数冊借りた。今回は、その中の1冊、『わたしとは何か―「個人」から「分人」へ―』(平野啓一郎著)を取り上げようと思う。本書の著者、平野氏については、番組名は失念してしまったがテレビで彼がインタビューを受けていた様子を視聴した時、小説家としての思想のようなものに惹かれてしまった。それで、図書館の書棚に並んでいた本書につい手が伸びてしまったという訳である。

 前回の記事(2022.6.23付)で、中国から輸入された「愛」という言葉に因んだ内容について綴ったが、本書で取り上げられている「個人」という言葉は明治になって西洋から輸入されたと述べられている。つまり、「個人」とは英語のindividualの翻訳なのである。individualは、in+dividualという構成で、divide(分ける)という動詞に由来するdividualに、否定の接頭詞inがついた単語である。この語の語源は、「(もうこれ以上)分けられない」という意味であり、したがって「個人」とは「分けられない」存在であるということを意味している。私が地元の国立大学教育学部附属小学校に赴任した当時、今から約40年前に20歳も年上の先輩から、以上のような説明を聞き、教育学者の上田薫氏が使っていた「個的全体性」という用語についても教えてもらった。また「知・情・意」という内面が分かち難く一体化している「個」、さらに「心(精神)・体(肉体)」が一如として存在する「個」という意味についても教えてもらい、「個人」という言葉の教育的な価値を認識したのである。

 

 私は子どもを「個」として尊重し、「個」として関わっていくことの大切さを知った。当時、「個」を断片化してはならないと常に意識しながら、教育活動を展開していた。しかし、その後、現代思想の洗礼を浴びて、人間に対する認識における「実体主義」から「関係主義」への転換に伴って、「個」も環境や他者との関係性によってとらえていく視座を得た。また、相対主義的思考による「本当の自分」というとらえ方にも懐疑するようになり、「個」や「自分」の多様性や複雑性に着目するようになったのを記憶している。

 

 本書では、このような問題、言い換えれば分けられないという意味の「個人」に関する問題を考えるために、「分人(dividual)」という新しい造語の単位を導入しようと提案している。もう少し説明すれば、「分人」とは、対人関係ごとの様々な自分のことであり、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されていくパターンとしての人格のことである。たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、全て「本当の自分」なのである。「分人」とは、そのようなとらえ方から生まれたものである。

 

 著者は、「分人」という意味をより分かりやすくすると、「個人」を整数の1とするなら、「分人」は分数だとイメージしてほしいと言っている。また、私という人間は、対人関係ごとにいくつかの「分人」によって構成されており、その人の個性というのは、その複数の「分人」の構成比率によって決定される。さらに、「分人」の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。そもそも個性とは、決して唯一普遍のものではなく、他者の存在なしには決して生じないものであるとも言っている。

 

 私は著者の「分人」というとらえ方は、メディアが発達し、人間関係がますます複雑化する現代において、多くの人がアイデンティティに思い悩み、自分はこれからどう生きていくべきかを問わざるを得ない現状を踏まえると、大変に有効なものではないかと思った。本書の中には著者の様々な小説のテーマが、この「分人」というとらえ方から設定していることに触れていて、とても興味のある切り口になっていると感じた。私は平野氏の小説を読んでみたくなった。そう言えば、私の幾つかの小さな本箱の中の一つに『マチネの終わりに』という文庫本が積読状態で、私に読まれるのをじっと待っている。寝床の次の友は、この本にしようかな…。