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公教育の本質に基づいた「よい」教師の資質とは…~苫野一徳著『どのような教育が「よい」教育なのか』から学ぶ③~

      現職中はもちろん現職を退いてからも、私は子どもたちにとっての望ましい教師の在り方について、常に考えてきた。したがって、本書を読んだ際にも、著者の苫野氏が「よい」教師の資質について論述している内容に特に注目して読んでみた。

 

 そこで今回は、著者が考える公教育の本質に基づいた「よい」教師の資質についてまとめるとともに、私なりの思いや考えも付け加えてみたい。

 

 「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」と定式化した公教育の本質に基づいて、著者は「よい」教師の資質について次のように述べている。…教師の仕事の本質は、子どもたちの「よい」成長=子どもたちが〈自由〉をより充実させ実質化させていくことを保障することにある。ここでいう〈自由〉の実質化の意味は、①自己承認 ②他者の承認 ③他者からの承認 という三つの承認が充実し成熟していくことにある。言い換えれば、これら三つの承認は、子どもたちの〈自由〉、すなわち「生きたいように生きたい」という欲望を十全に適えるための、最も本質的な条件である。したがって、これら三つの承認の成熟を保障するために、教師に求められる資質を明らかにする必要がある。

 

 まず「自己承認」について。自己承認の内に根ざした大きな支えは、深く信頼されたという意味の親和的承認の体験である。したがって、教師の子どもたちに対する絶大な「信頼」は、「よい」教師の資質の一つである。しかし、教師の子どもたちへの「信頼」は、たいてい裏切られ、教師は失望させられることになる。しかしそれでもなお、子どもたちを信頼し続けること。そのような意志を持ち続けること。そうした「忍耐」力が、教師には求められる。つまり、「信頼」と「忍耐」が教師にとって最も重要な資質になるのである。

 

 次に「他者の承認」「他者からの承認」について。子どもたちは、いつまでも親和的承認や無条件の「信頼」の中に、止まり続けることができるわけではない。いずれ子どもたちは親和的承認から「集団的承認」のステージへ移行していくことになる。要するに、子どもたちは友人や見知らぬ「他者」からの承認を得られる存在へと、徐々に成長していく必要があるわけである。その際、他者からの承認を得るためには、自らが他者を承認できる存在なり得なければならない。そこで教育は、この「相互承認の態度」(ルール感覚)を、いわば生活経験を通して育む必要がある。この時、日々生じる子どもたち同士の摩擦や関係性の成熟などを見守りながら、そこに相互承認のルール感覚を徐々に醸成していく存在こそが、教師にほかならない。そして、その際に教師に求められる資質が「権威」なのである。ただし、これは強権的な権力や暴力とは全く異なる概念である。子どもたちの憧れの対象たりうるような、自分を認めてもらいたいと思えるような「権威」。それが、自らのわがままな欲望を編み変え、他者との関係性へと向かわせる大きな原動力になり、相互承認の感度の大きな土台になるとすれば、「権威」は教師にとって重要な資質であると言ってもよい。

 

 最後に、教師の多様性と「自己了解」について。「よい」教師の条件として、上述したように「信頼」「忍耐」「権威」という資質を挙げたが、これらの資質は必ずしも全ての教師が備えているべきであるわけではない。一見すると矛盾するようだが広い視野から見れば、学校には多様なタイプの先生がいてもいいし、むしろそうあるべきである。中には、子どもを全く信頼しようとしない教師や、自分のルールを無闇に押し付ける教師がいてもいい。子どもたちは多様な教師に触れることで社会の多様性を学び、多様な人たち相互の承認関係やその必要性を学んでいくであろう。つまり、〈自由〉および〈自由の相互承認〉の実質化のためにも、教師の多様性は不可欠なのである。社会的な相互承認とは、まさに多様で異質な人々の間でこそ求められるものであるからである。子どもたちは、いろんなタイプの大人と出会って成長していくものなのである。ただし、どのようなタイプの教師であっても全ての教師に望みたい資質がある。それは、自らの感受性と価値観を深く「自己了解」することである。個々の教師は、絶えず、自身が独りよがりな感情や価値観をもって子どもたちと向き合っていないか、自らを振り返り続ける必要がある。なぜなら、その深い「自己了解」だけが、自らを次のステージへと押し上げる可能性の条件であるからである。

 

 教師の深い「自己了解」に支えられた、教師と子どもとの関係。これが「よい」教師-子ども関係の根本土台である。そしてこの土台の上に、教師は「権威」をもって、「忍耐」をもって子どもを「信頼」し続ける。このことが、子どもたちの「自己承認」「他者の承認」「他者からの承認」を獲得させる、すなわちより〈自由〉な存在へと子どもたちを成長させる、最も本質的な教師の条件なのである。

 

 以上、著者が考える公教育の本質に基づいた「よい」教師の資質についてまとめてみた。「信頼」「忍耐」「権威」そして「自己了解」という教師に求められる資質。私が長年教師をやってきて、実践的・臨床的に必要だと感じてきた内容とほぼ同様である。ただし、私はそれだけでいいのだろうかと、過去の経験から考えてしまう。当ブログの数回前に3回連続で15年前に執筆した教育実践論文を転載したが、そこでも触れたように義務教育段階の後半期の子どもたちに対しては特に異文化として立ち現れる社会及び文化規範を体現する〈他者性(壁)〉としての教師の在り方が問われるのである。これは、「よい」教師の資質と言うよりも〈能力〉の範疇になるかもしれないが、私はやはり「よい」教師の条件の一つになると考える。