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「読む」ことについて考える~高橋源一郎著『「読む」って、どんなこと?』から学ぶ~

 先日の日曜日、車で約1時間半の場所に住んでいる二女とその長男M(私たち夫婦にとって二人目の孫)を訪れた。父親は、市役所の秘書課勤務なので日曜日でも出勤していて不在。Mとは久し振りの再会だったが、すぐ私たちに甘えてくれた。まだ2歳4か月なのだ。でも、身の回りの物や色等の名前を言うことができ、簡単な会話なら言葉でのコミュニケーションもできて、よくおしゃべりをするようになった。また、絵本の読み聞かせをすると、興味を示してじっと聞いている。平仮名やアルファベットなどの文字にも少し関心を示すようになっていて、もうすぐ「読む」ことができるのではないかと、その成長ぶりに驚くばかりである。

 

 「成長」と言えば、この春に我が家の近くのマンションに引っ越してきて、校区の小学校へ入学した長女の長男H(一人目の孫)は、国語科の学習で平仮名の書き方を全部習い終わったそうだ。近頃は教科書の音読が宿題に出るようになり、先日も我が家へ立ち寄った時には私たちに音読を聞かせてくれた。有意味言語を発するのがやや遅かって心配をしたHだが、今では教科書に載っているお話を表現豊かに読むことができるようになっていて、その成長ぶりについ私たちは目尻を下げてしまった。まだ読み飛ばしや読み間違いなどが少しはあるが、「読む」ことに対して今のところ苦手感をもっていないのが嬉しい。少しずつでいいので正しく音読ができて、内容を理解することができる力を伸ばしてほしい。

 

 二人の孫たちに対するそんな願いをもち始めた私は、月曜日の昼休みに馴染みの古書店へ出掛け、そこで偶然「読む」ことの意味について考えさされる本と出合った。それは、NHK出版「学びのきほん」シリーズの『「読む」って、どんなこと?』(高橋源一郎著)。帯には<作家40年、初の読書論!読書にまつわるあたりまえを疑って、いま、本当に必要な「読む力」を見につける。>と書いてあったので、私はつい手に取り、迷わず購入した。著者の高橋氏の本は、今までに『文学なんかこわくない』と『ぼくらの民主主義なんだぜ』という評論本しか読んでなかった。昔、『さよならギャングたち』とか『優雅で感傷的な日本野球』とかの小説が気になっていた時期があったのに、今まで読まなかった。なぜ、読まなかったのかな・・・。

 それはともかく、まずは本書の内容の概要を紹介しておこう。著者は「はじめに」の最初に、リチャード・ブローティガンという詩人が書いた『ロンメル進軍』という詩集の中にある「1891-1944」というタイトルだけしかない詩を紹介して、「読む」ということに対して抱いている疑問を呈している。そして、小学校の1年~6年までの国語科の教科書に書いている「読み方」(手引き)を列挙して、国民はこれらをきちんと学んで「社会のことば」を立派に使いこなせるようになるが、「読めない」ものが出てくると問題提起している。

 

 全体は、この「はじめに」と「おわりに」の間に「1時間目」~「6時間目」まで構成して、その中でいろいろな種類の文章をどう読むのかという内容を位置付けている。簡単な文章から(絶対に)学校では教えない文章、(たぶん)学校では教えない文章、学校で教えてくれる(はずの)文章と順番に読んでいくようにしている。そこで、今回はその中でも私の心の中に特に大きな痕跡を残した文章の主旨を紹介し、私なりの思いを綴ってみようと思う。

 

 私の心の中に特に大きな痕跡を残したのは、5時間目「学校で教えてくれる(はずの)文章を読む」で取り上げていた、作家の武田泰淳氏の『審判』という小説の中の文章である。日中戦争時、中国で戦っていた元日本兵「二郎」が、主人公「私」だけに残した手紙という形で書かれた文章の途中の部分で、現地の中国人の農夫と別の盲目の老農夫夫妻とを撃ち殺す2つの場面が描かれている。著者は、「殺人」のシーンがあるのだが学校で教えることができないわけではないと言いつつ、それでもこの「殺人」の情景を学校で教えるのは難しいような気がすると書いている。もちろん、この文章を「はじめに」で箇条書きした国語科教科書の「読み方」(手引き)に従って十分に読むことはできる。しかし、そうやって学校の授業という形で「読んでみる」と、何か違う。その理由を考えてみること。それも『審判』を「読む」ことではないかと、著者は問題提起しているのである。

 

 そして、ここから先で著者が考えてみようとしているは、国語科教科書の「読み方」(手引き)には出てこないと断り、次のような主旨のことを述べている。・・・『審判』の中のこの手紙の私(二郎)が中国人たちを殺したのは、彼が所属している「国家」、あるいは「社会」と呼ばれる共同体なのである。私に「殺そうか・・・・・殺してごらん。」と囁く「声」は、私たちの内部に食い込んで、密かに出現の時を待っている、「社会」が送り込んだ「ウイルス」のようなものではないか。この「ウイルス」が姿を現す最も効果的な瞬間こそ、戦争であり、その時に初めて最後のメッセージである「敵を殺せ」という命令なのである。では、なぜ私(二郎)は、たった一人のこの作品の語り手にだけ、そのことを打ち明けたのか。それは、ほとんどの人間がこの「社会」が送り込んだ、最も恐ろしい「ウイルス」に感染していて、それを打ち明けた瞬間に私は「社会」にとって危険なことを言う人物として葬り去られてしまうからである。そして、学校もまた、「社会」が最も力を発揮する場所であり、この「読み方」(手引き)には「こうやって、わたしのいう通りにして、正解にたどり着かないと落伍者になるよ」と書くべきなのだ。

 

 著者は、学校というのは「社会」のことばを教える、いやもっと露骨にいうなら「植えつける」場所であり、その「社会」がその奥にどんなことばを隠し持っているかを見つけることはひどく困難であると指摘している。そのような認識に立てば、武田泰淳氏が書いたのは「社会」によって滅ぼされた人間が、その最後の瞬間に、自分に植えつけられた「ことば」の正体を、誰か別の「個人」に伝えようとする物語だったように思うと、著者は意味付けている。

 

 私は、このように『審判』を「読む」という著者の考えに対して共感を覚えつつも、多少の違和感をもった。確かに「学校教育」のもつ権力性を絶対化することは危険なことであると思うし、そのことを常に自覚しておくことは必要だと思う。しかし、「学校教育」とくに「国語科」という教科教育においては常に「批判的な思考力」を育成することが求められていると考えているので、『審判』の中のこの文章を本書の5時間目に取り上げたように、どの段階の国語科で取り上げるかは慎重に検討する必要があるが取り上げるべきだと思う。

 

 最後に、本書の「おわりに」の中で心に強く残った文章の一部を記しておきたい。それは、批評家の加藤典洋志の遺作となった『大きな字で書くこと』の原稿の中で、「ことばでキャッチボールすることの意味」について触れている、次のような箇所である。・・・自分のなかに二つの場所をもつこと。二人の感情をもつこと。その大切さ。それが、いま私が痛感していることである。/自分のなかに、もう一人の自分を飼うこと。ふつう生活している場所のほかに、もう一つ、違う感情で過ごす場所をもつこと。それがどんづまりのなかでも、自分のなかに感情の対流、対話の場を生み、考えるということを可能にする。それは、むろん、よく生きることのためにも必要なことである。