ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「特別の教科 道徳」の理念的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(1)~

     新元号が「令和」と決まり、各種のマスメディアには新しい時代の到来に向けた夢や希望を語っている国民の声が取り上げられている。一方、そのような祝賀ムードに溢れた雰囲気の中、各地から満開の桜の下で「お花見」を楽しむ庶民の姿が、テレビ画面に映し出されている。私の自宅近くの河川土手の「お花見」会場では、陽が落ちた後も肌寒さが残る中で「夜桜」見物を楽しむ酔客が多い。その騒々しい声は自宅にいる私の耳にまでかすかに届いてくる。昨夜は「華やいだ音が風に乗って運ばれる季節になってきたなあ。」と呟きながら眠りに就いた。

 

   いよいよ今年も爽やかな春風がそよぐ季節を迎え、各学校はもうすぐ入学式や始業式を迎える。長く教職に身を置いていた私の心には、定年退職後4年も経た今でも「いよいよ本年度が始まる!」という気持ちが自然に湧き上がってくる。長年の生活習慣の中で肌身に沁みついた時間感覚は、簡単には消えないものなのだ。

 

 ところで、小学校では来年度から新学習指導要領が全面実施になるので、本年度はその移行措置の最終年度になる。既に昨年度から年間を通して「外国語活動」は中学年で15時間、「外国語科(英語科)」は高学年で50時間、「特別の教科 道徳」は全学年で35(1年は34)時間、先行実施されている。各小学校では全面実施に備えて、それらの教科等や新しく導入されるプログラミング教育等の学習指導の在り方を研究する校内研修会に鋭意取り組んでいると思われる。

 

 そこで今回は、私が一番気がかりな「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 苫野氏の「そもそも道徳とは何か。」という質問に答えるという形で、竹田氏が哲学的な観点から回答したことは、おおよそ次のような内容である。

 

    近代哲学の中で特に有名なのは、カントの道徳哲学である。カントは道徳の本質を「聖なるもの」から考えることを全てやめて、人間なら誰でももっている「理性」に道徳の基礎をおいた。まず「人間は何が善であるかを必ず理性で判断できる」という基本命題を立てた。次に、「これが善である」という理性の判断に基づいて、自分の感性(欲望)を抑えてこの判断に従って行動すれば、その行為は必ず道徳的行為(善)と言える。これがカントの道徳原理である。

 

   ところが、このカントの「道徳」の考えは中世までの宗教的道徳に比べると大変よいが、近代社会ではこの考えは本質的に成り立たないと痛烈に批判した哲学者がいる。それは、ヘーゲルである。ヘーゲルは、近代社会では生活様式がますます多様になり、価値観もそれに応じて多様になる必然がある。このために何が善か、また何が幸福かは決して一律に決められず、むしろ各人が自分なりの「善」や「幸福」の在り方を追求することを、他人の自由を侵害しない限りで、互いが相互承認するのが大原則だと主張したのである。そして、「善」は多様な理念として信念対立となることが必然だけど、自分の信念に固執せず、それが本当に普遍的な「善」かどうかを絶えず検証しようとする心意が必要になる。この「善」の心意をヘーゲルは「良心」と呼んだ。近代人は「道徳的」心意をもつだけではなく、「良心」という心意にまで進まないといけない。「良心」という在り方が近代人の倫理の本質であると、ヘーゲルは言っている。この批判は大変本質的かつ強力なのである。

 

 以上のような竹田氏の回答内容を受けて、苫野氏は次のような重要なことを述べている。

 

 「相互承認」。これが一番のキーワードである。共同体の慣習的なモラルを教育する道徳教育は、公教育においてはナンセンスだと考えている。「相互承認の感度」、こちらの方に道徳教育はシフトしていかなくてはいけないと思う。つまり、「これこそがモラルである、善である」と強弁したり教育したりするのではなく、お互いの価値観やモラルを、絶えず「相互承認」へと投げかけ吟味し合う経験や教育こそが大事なのだ。しかし今の道徳教育は、劣化版カント主義とでもいうか…。絶対に従わなければならないとまでは言わずとも、多くの場合、結構その構えが強いのである。

 

 私はこの苫野氏の発言内容に対して、概ねのところは賛同する。私が現職の時に見聞した今までの「道徳の時間」の指導の在り方は、様々な指導方法を創意工夫しているものの基本的には、その時間のねらいを「徳目」として自覚させ、身に付けさせようとする授業構造になっていたと思う。つまり、知らず知らずの内に劣化版カント主義に陥っていたのである。確かに、授業の中で価値葛藤の場面について話合いをする場を設定はしていたが、それはあくまでねらいを達成するための手段的な指導方法である。「話合い」が、お互いの価値観やモラルを「相互承認」へと投げかけ吟味し合う場になっていなかったのではないか。私は、新学習指導要領で新設された「特別な教科 道徳」の授業構造を、「相互承認」を大切にするヘーゲル的な道徳教育の在り方へと転換してほしいと期待している。

 

   なお、次回は今回に引き続き、竹田氏と苫野氏が実践的な道徳教育の在り方として「道徳は学べるのか、教えられるのか」を語り合った対談内容について触れてみたいと思っている。