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道徳教育で「いじめ」はなくなるか?~森口朗著『誰が「道徳」を殺すか―徹底検証「特別の教科 道徳」―』を手掛かりに~

 先週の土曜日も、長女に連れられて孫Hは我が家へ来て、昼食を挟んで4時間ほど遊んで帰った。午前中は、風船やフラフープを使ったり、プラレールで新幹線を走らせたりして遊んだ。また、午後から久し振りに晴れ間が出て気温も少し上がったので、背負うタンク付きの水鉄砲を使った遊びをして楽しんだ。その際に、的になった私を当てるために、Hは水を遠くに飛ばす工夫を繰り返した。おかげで私は服が少し濡れてしまったが、Hの大喜びの表情を見るのが嬉しくて一緒になって遊び呆けた。それにしても、各種の遊びを工夫してより楽しもうとするHの意欲の高さに驚いた。

 

 そう言えば、それ以外にも驚くことがあった。それは、Hが来た時に自分から「じいじ、ばあば、おはよう。」と元気よく朝のあいさつをしてくれたこと。また、自分の靴を脱いで、玄関土間にきちんと揃えて置いたこと。さらに、トイレに自分で行って用を足した後、「後の人のために、トイレットペーパーの先を少し出しておくんだよ。」と言ったこと。これらの基本的な生活習慣やトイレ・エチケットなどは、Hが通っている認定こども園の保育士さんから教わったのではないかと思う。もちろん長女夫婦もしつけをしているとは思うが、年中組へ進級してからできるようになったことが多い。きっと園生活における友達とのかかわり合いが、それらの習慣化を加速させているのではないだろうか。

 

 前回の記事でも触れたが、新学習指導要領に位置づけられた「特別の教科 道徳」が、この幼児期に培われた基礎的な道徳性を基にして、より豊かな道徳性を養うように機能してほしいなあと期待している。そこで、私は学校における道徳教育の在り方について再度考えてみようと、最近入手した『誰が「道徳」を殺すか―徹底検証「特別の教科 道徳」―』(森口朗著)を読んでみた。その中で、特に道徳教育と「いじめ」との関連についての著者の考えを知り、私なりに現職中から考えてきたことを今回、綴ってみようと思う。

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 そもそも今回の「特別の教科 道徳」の新設のきっかけは、2011年10月11日に滋賀県大津市立皇子山中学校2年の男子生徒が「いじめ」を苦にして自殺した事件であった。事件後のアンケートによると、その「いじめ」の実態が大変酷いものであることが判明した。さらに、被害者が自殺した後も加害者側の態度に反省がみられなかったことで、いじめ情報がインターネットに拡散され、社会的に大きな注目を集めた。特にこの事件で特筆すべきだったのは、学校だけでなく教育委員会の役人たちが「いじめ」隠しに奔走してしまい、最後まで被害者側に立つことを拒否したことである。それにより、多くの国民が日本の教育界に潜む深い病理に気付き、何とかしなければならないと本気で考えた。その表れこそが「道徳の教科化」だったのである。

 

 したがって、これらの経緯から鑑みて問われるべきことは、果たして新設された「特別を教科 道徳」を要とした新たな道徳教育によって「いじめ」はなくなるのかということになるであろう。ところが、著者の森口氏はこのような意見は、次の2つの点で誤りだと述べて、この議論でもって道徳教育の無用性や無効性を主張するのは早計だと指摘している。

① 社会の事象をオール・オア・ナッシングで考える点。妥当な議論は、「道徳教育によっていじめは減らせるか」でなければならない。

② いじめをなくすことだけが道徳教育の目的であることが前提になっている点。道徳教育の目的は「豊かな心」を育むことだから、いじめの撲滅や減少はその結果に過ぎない。

 

    これらの指摘内容について、私も同様な考えである。あくまで道徳教育の目標は「学校の教育活動全体を通じて、道徳的判断、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度などの道徳性を養うこと」であることを忘れてはならない。ただし、「特別の教科 道徳」(小学校)の目標が「よりよく生きるための基礎となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」となっていることに注意を払う必要がある。それは、道徳教育の要となる「特別の教科 道徳」の授業が、子どもたちが道徳的諸価値、特に「正義感」「友情」「寛容」「思いやり」「公平・公正」等という道徳的価値の大切さを心底自覚する授業になれば、結果として「いじめ」の撲滅や減少に繋がっていくと私が考えているからである。

 

 では、そのような「特別の教科 道徳」の授業を実現するためには、どのような授業改善が必要なのか。これは現職中に私なりに考えて実践してきた内容(特に指導方法)なので、どこまで一般的な妥当性があるかは定かではないが、いくつかその視点を示しておきたい。

○ 主な資料として読み物教材を取り上げる場合は、登場人物に自分を投影(自我関与)するように働き掛け、道徳的な問題場面における登場人物の判断や心情について多面的・多角的に考えさせるようにする。

○ 道徳的な問題場面における登場人物の判断や心情についての自分の考えの根拠や理由を問うたり、道徳的価値の意味を具体的に考えさせたりする発問をすることによって、問題解決的な学習展開にする。

○ 実際の道徳的な問題場面を実感的に理解させるために、役割演技等の体験的な活動を積極的に取り入れるようにする。

○ 「総合的な学習」や「特別活動」、「各教科」等の他領域の学習において実際に起こった道徳的な問題場面を改めて取り上げて、現実的・具体的な行動変容を促すような課題提示を行う。

 

 これらの授業改善の視点だけではなく、さらに細部にわたる資料提示・発問・話合い・書く活動・表現活動・板書・説話等における指導方法の改善もあるが、それらは全て子どもたち自身が道徳的な問題場面に直面した時に、いかに主体的に考え、自らより適切な判断ができるという実践的能力を育成するためであることを念頭に置くべきであろう。そうすれば、「特別を教科 道徳」を要とした新たな道徳教育によって、少なくとも「いじめ」の減少という結果は後からついてくると私は確信している。