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老後は「回想」によって孤独を楽しもう!~五木寛之著『孤独のすすめ―人生後半の生き方―』から学ぶ~

 先日、梅雨の合間の晴れ日に、私が中学生から大学生時代に住んでいた場所辺りを散歩してみた。その場所というのは現在の自宅がある町の隣町なので、徒歩で30~40分ほどあれば回ることができる。今まで仕事をしていた頃は当時を思い出すこともほとんどなく、ましてや以前住んでいた場所辺りを回ってみようとも思わなかったが、本年2月以降仕事をしなくなった上に新型コロナウイルスの感染を回避するために「ステイホーム」状態になってしまってからというもの、室内で過ごす日がほとんどであった。そのために、何だか身体が鈍ってしまうような気がして、外出するための何らかの名目を捜していたところ、近所を散歩するための口実として思い付いたという次第である。

 

 私が小学校中学年の頃に母子家庭になったことについては、以前の記事でも綴ったことがあるが、そのことが影響してか私は小学生から大学生までの約10年間に4回の引っ越しを経験した。その内の3回の転居場所は中学生以降に住んだ所で、それまで通っていた小学校とは校区が異なる隣町であった。また、小学校の同級生と別れて私が入学した中学校は、当時各学年8~9クラスある全校生徒数1,200人を超えたマンモス校であり、生徒間はもちろん教師に対しても校内暴力が起きるような「教育困難校」であった。それまで通っていた小学校が「坊ちゃん嬢ちゃん学校」と言われるほど平和だったこともあり、その中学校へ入学してしかも粗野な生徒が多い野球部へ入部したものだから、私はあまりのカルチャーショックでしばらく登校拒否的な気分に陥っていたことがある。

 

 そのような事情があってか、私は今まで隣町でありながら以前に住んでいた場所辺りを散歩してみようとは思わなかった。でも、今回本当に久し振りに歩いてみると、当時味わった嫌悪感ではなく、甘酸っぱいような気分が蘇ってきた。そうなのだ!中学生以降の生活は決して嫌な思い出だけでなく、楽しく愉快な思い出もいっぱい詰まっていたのである。登下校の通学路が同じ級友と共に、好きな女子を言い当てるゲームをするなど他愛もない会話で盛り上がりながら通った道路を懐かしい気分で歩きながら、私はつい頬が緩んでしまった。もうあれから50数年経ったので、道路端の家並みの様子はすっかり変貌していたが、私の心は当時の通学の様子を「回想」しているだけで、次第に元気になってきたのである。

 

 「回想」と言えば、1年ほど前に読んだ『孤独のすすめ―人生後半の生き方―』(五木寛之著)の中で、高齢者になれば未来を考えるより、むしろ昔を振り返ることが大事だというようなことが書かれていたことを思い出した。そこで、私は約1年振りに本書を書棚から取り出し、ざっと目次と内容に目を通してみた。あった、あった!それは、本書の「おわりに」の中で主張されていたので、その要旨をなるべく簡潔に次にまとめてみよう。 

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 「回想」は、もともと1960年代にアメリカの精神科医が高齢者の鬱に効果があるとして提唱された療法であるが、後に認知機能の改善にも役立つことが実証され、認知症のリハビリとしても取り入れられるようになった。それは「回想」することで脳が活性化され、「回想」を語るとコミュニケーション力にも刺激を与えるからであろう。また、蘇った思い出が楽しいものであればあるほど、心理的な効果が高いと言われている。自分の人生、捨てたものではないと、肯定的な気持ちになるからである。高齢になり何となく厭世的になって生きていくのが嫌だと思う原因は、人間不信と自己嫌悪の2つあるが、これらは「回想」の力によって乗り越えられると考える。たくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張り出して「回想」して咀嚼しているうちに、立ち直る自分がいる。最終的には、人間とは愛すべきものだという温かい気持ちが戻ってくる。「回想」は誰にも迷惑を掛けずお金もかからない。歳を重ねれば重ねるほど、思い出の数は増えてくる。いわば頭の中に、無限の宝の山を抱えているようなもの。下山の時期を豊かにするためにも、「回想力」をしっかり育てたいものである。

 

 今回、私は中学生から大学生時代に住んでいた場所辺りを何となく散歩することを決めた。そして、その途中で昔の楽しく愉快な思い出を「回想」して心が元気になってきたが、それには著者が述べているような「回想」のもつ効用があったのかもしれない。とかく過去を振り返るのは後ろ向きだ、頽廃的だと批判する人も多いが、高齢になると前を向いたら「死」しかないということもある。だから、私はこれからさらに歳を重ねて万が一「おひとりさまの老後」に陥ったとしても、今までの楽しく愉快だった様々な思い出を「回想」することによって孤独を楽しむことができるように、今から時々は「回想」することを習慣化してもいいかなと思い始めている。