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約20年前の「村上龍」の学校教育に対する問題意識とは?~村上龍著『希望の国のエクソダス』を再読して~

 前回の記事で、村上龍著『オールド・テロリスト』を取り上げて、私の「村上龍」作品の読書体験の概要を述べた。その際に、私の興味内容の転換点に位置付けたのが、教育問題に対する彼の課題意識の高さを表した『希望の国エクソダス』という作品であったことに触れたのだが、では彼の学校教育に対する問題意識とは何だったのだろうか。私はそれを改めて確かめてみたい衝動に駆られて、約20年前に読んだ本書を再読してみた。

 そこで今回は、本書を再読した簡単な所感を綴った後で、約20年前の「村上龍」の学校教育に対する問題意識について、本作品の中でポンちゃん不登校の中学生グループの一つASUNAROのリーダー)が国会中継で語った言葉を拠り所にして探ってみようと思う。

 

 まずは、今回再読しての率直な所感について。それは、本物語が近未来の経済の姿を描くことがバックボーンになって展開していることについて、私は改めて深く認識したということ。昇任教頭として山間部の僻地にある小規模な小学校へ赴任とした当時、本書を職員住宅の寝床で読み進めながら、私は不登校の中学生である中村君やポンちゃんこと楠田穣一君らの言動にことさら注意を向けていた。言い換えれば、物語の意外な結末の背景にある複雑な経済事情に関する記述部分を、ほとんど無意識に読み飛ばしていたのである。ところが、最近の円安動向や先進諸国の金利政策等の経済事情をマスコミが取り上げられている中で、私自身が多少は経済にも関心をもって本書を再読したので、上述のようなことに気付いたのである。それにしても複雑な経済の仕組みについては、約20年後の今でも理解できないことが多かったが…。

 

 次は、本題である約20年前の「村上龍」の学校教育に対する問題意識について探っていこう。前回の記事でも取り上げたが、予算委員会国会中継ポンちゃんが語った「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」という言葉は、当時の国民の多くが実感していた「社会の閉塞性と実存の不遇感」を端的に表現したものであった。しかし、この言葉のインパクトに圧倒された国民は、その具体的な意味についてどれほど理解していただろうか。この言葉に続いてポンちゃんが語った言葉を少し引用して、私なりに解説してみよう。

 

…愛情とか欲望とか宗教とか、あるいは食糧や水や医薬品や車や飛行機や電気製品、また道路や橋や港湾設備や上下水道施設など、生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない。という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカでない限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと思います。…

 

 戦後、特に1950年代中頃から1970年代に掛けて、我が国は「高度経済成長」を果たしてきた。そして、1980年代から1990年代に掛けて、政府の低金利政策により企業の投資等が進んで、土地や株の値段が泡のように膨らんだ「バブル経済」になった。しかし、1990年代に入ると、政府が引き締め政策をとったために、土地や株の値段が暴落して「バブル経済」は崩壊してしまい、その後、日本経済は長期的な低迷が続くことになったのである。ポンちゃんの上述の言葉には、日本経済の歴史的経緯が背景にあり、それに伴って問われた学校教育の在り方の転換が企図されているのである。

 

 では、学校教育の在り方をどう転換すればよいと、ポンちゃん=「村上龍」は考えているだろうか。そのヒントは、予算委員会におけるポンちゃんに対する参考人質問の場面、つまり最初の質問者である自民新党のサイトウ委員とポンちゃんとのやり取りの場面にあると私は思う。その部分をまた引用して、私なりの解説をしてみよう。

 

…「それでは、どうして中学校というものがこの国に存在しているのか、ちょっとそこのところを教えていただきませんか?」

ポンちゃんはまたそう聞いた。なかなかやるなと、後藤が呟いた。

 「それはですね。法律で決められている義務教育というものがありまして、該当する年齢になったら、誰でも中学校に行かねばならなんのです」

 サイトウという議員は元大学教授らしい。自分の質問にポンちゃんが答えないことに少し苛立っている。ポンちゃんはその答えを聞いて、しばらく黙ったあと、質問者を替えて下さい、と言った。どうしてですか?と委員長がポンちゃんに聞く。

 「コミュニケーションできません」

 ポンちゃんはまったく顔色を変えずにそう言ったが、サイトウという議員は見る間に顔が真っ赤になった。垂れ下がった喉の肉が揺れているのがわかった。…

 

 ポンちゃんは、ほとんどの不登校の中学生が、今あるような中学校なんか要らないと思っているが、サイトウという議員はどうも必要だと思っているから、それはなぜかと訊いた。それに対して、義務教育というものがあると答えるのは的外れなのである。だから、「コミュニケーションはできません」と断定した。至極真っ当な反応なのである。このやり取りの場面を見て、私は教室の中の教師と生徒のやり取りの場面を想定してみた。すると、サイトウとポンちゃんとのやり取りと同じようになるのではないかと思った。言い換えると、今の学校教育において教師と生徒の間に相互主体的な対話が成立していないことを意味する。

 

    約20年前、「村上龍」は学校教育が教師から生徒への伝達に終始する「一方的なコミュニケーション」という閉塞的関係性で占められていると認識していたと思う。したがって、学校教育の在り方を転換するためには、教師と生徒とが相互に主体であることを前提とした「双方向性のコミュニケーション」という自由な関係性を構築していくことが大切だと考えていたのではないかと思う。この問題意識こそが、本書を執筆しようとした主な動機ではなかったか。

 

 それから約20年後の現在、「村上龍」のこの問題意識は、現場の教師たちによって醸成されているだろうか。学校現場へ訪問して授業を参観する機会がある私の実感は、「醸成されるどころか、この問題意識さえ共有できてないのではないか!」というものである。私は、学校教育に携わっている教師の方々に、本書をぜひ読んでもらいたいと強く願っている。