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「本来性なき疎外」って、どんな疎外のことなの?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑤~

 全国各地から桜の開花宣言がなされ、暦の上では昨日「春分の日」になり春のお彼岸を迎える好季節になってきた。また、首都圏の1都3県に延長して発出されていた「緊急事態宣言」が、明日には解除される運びである。しかし、首都圏ではまだ新型コロナウイルスの新規感染者数が下げ止まっている上に、今後は特に感染力の強い変異ウイルスの流行によるリバウンドが予測され、全く油断できない状況である。

 

    それに比べれば、我が県では今のところ新規感染者数が少ない状況のままで推移している。とは言っても、実質的な感染拡大防止策を取り続けて丸1年以上経ったにもかかわらず、経済活動をはじめ社会生活全般において依然として闇の中を彷徨っているような感じが続いている。ただ、高齢者へのワクチン接種が来月から始まる予定なので、そのことが「終息」という出口に灯る微かな明かりのように感じる今日この頃である。そんな社会状況の中、私個人としては「暇」と「退屈」に関する自分の実存的な問題への取組として本書を再読しながら記事を綴っていくことで、春を迎えるような明るい気分に少しずつなってきているのも事実である。

 

    さて今回は、本書に関する10回連続記事シリーズの往路の最後、5回目である。やっと折り返し地点にまで辿り着けそうなので、余計に気分は明るくなってくる。本書の「第4章 暇と退屈の疎外論-贅沢とは何か?」の中で、特に私の心に印象深く刻まれた内容の概要をまとめながら、短い所感を綴っていくという恒例のパターンで記事にしてみたい。

 

 まず本章の前半部で、著者はかつての労働者の疎外(一般に、人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のこと)とは根本的に異なっている、消費社会における疎外の特性について強調している。つまり、消費社会における疎外の特性とは、終わりなき消費のゲームを続けているのが消費者自身であるから、労働者が資本家によって虐げられているというのとは違って、自分で自分のことを疎外してしまっているということ。しかも、その消費の対象が、単に物やサービスだけに留まらず人間のあらゆる活動にまで拡張されてきている。特に社会学者・哲学者であるボードリヤールが注目しているのは、「生き甲斐」という観念を消費する「労働」であり、「好きなことをしている」という観念を消費する「余暇」であることを紹介している。さらに、それらの消費はいつまでも満足することがないので、永遠に続けざるを得ない蟻地獄のようになっている。したがって、この消費社会における疎外を克服するのは、至難の業なのである。

 

 このような消費社会における疎外の特性を踏まえた上で、本章の後半部において著者は、今までの思想や哲学が忌避し目を背けてきた疎外論に同伴していた「本来性」という語の陥穽について、鋭く指摘している。そして、消費社会の論理と現代の「退屈」との関係を問う際に避けられない、「疎外」という概念についてやや込み入った哲学的議論を展開している。その中でも特に重要な視座である「本来性なき疎外」について、ジャン=ジャック・ルソーカール・マルクス疎外論を取り上げて、その意味や意義の大きさを何度も強調している。なお、「本来性」という語の陥穽については、私が教職に就いていた頃に反省すべき経験があるので、今回の記事はこの「本来性なき疎外」の意味や意義に重点を置いた内容をまとめようと考えている。

 

 「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿<本来的なもの>」というものをイメージさせるために、ともすると強制と排除という危険性を孕んでしまう。だから、「本来性」に基づいて疎外論を構築する場合、その議論は強力に保守的なものになり、時に凶暴な、暴力的なものにすらなる。「本来性」に基づいて構築された疎外論は、現在の姿を全面否定し、過去の姿へと帰還するように強制することがあり得るのである。そのため、過去の疎外論ブーム以後の思想・哲学は、このような危険性を孕む「本来性」という語と共に「疎外」という概念も否定してしまった。しかし、結局そこに生れるのは現状追認の思想であった。著者は、本当にそれでいいのだろうかと異議申し立てをする。

 

 それに対して、近代的な疎外の概念を提起したルソーや、それを議論の中心に据えて前景化したマルクスは、人間の本来的な姿を想定することなく人間の疎外状況を描いている。彼らは疎外を徹底して思考しながら、本来性の誘惑に囚われることなく、新しい何かを創造しようとしたのである。言い換えれば、「本来性なき疎外」という概念を提起して、疎外からの脱出を目指していたと言えるのである。著者は、このように戻っていくべき本来の姿などないことを認めた上で、「疎外」という言葉で名指すべき現象から目を背けないような方向こそ、本書が目指す方向であると断言している。また、ボードリヤールが鋭く指摘した、消費社会において「暇」なき「退屈」をもたらしている「現代の疎外」についても、この「本来性なき疎外」という枠で論じられねばならず、いかなる方向に向けてこの疎外からの解放を考えるべきかという問題意識を伴わなければならないと主張している。

 

 私はこのような著者の考えを知った時、過去の自分の反省すべき経験を思い出していた。それは、私が地元の国立大学教育学部附属小学校において教育実践研究に精力的に取り組んでいた時、「旧来の教育は硬直的で画一的であるから、本来の教育のあるべき姿である柔軟で個性的な方向へパラダイム・シフトすべきである。」という主張をすべく、多くの先輩たちを糾弾するような理論を振りかざしていたことを指している。私は旧来の教育の在り方を批判する研究論文を書いていた時、いつも「本来の」という言葉を使っていた。そのことは、結果的に私が主張する新しい教育パラダイムへと他の人を強制したり、それに反対する人を排除したりしていたのではないか。知らず知らずの内に私は自己本位的で傲慢な態度を取っていたのではないか。今、振り返ると、大いに恥ずべきことであったと思う。だから、著者が本章で指摘していた「本来性」という語が孕む危険性について、私は実感をもって理解できたのである。当時、<自律>と<共生>をキーコンセプトとした教育目標を掲げて実践的な研究を推進していたにもかかわらず、<共生>を求めようとする姿勢が不十分だった。それ以後、管理職になってからの学校運営や経営等においては、この反省を生かしてきたつもりだったが、本章を再読しながら当時もっともっと思考を深める必要があったことを改めて痛感した次第である。