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「暇」の中で「退屈」せずに生きる術を知る階級?仕事こそ生き甲斐と感じている階級?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ④~

 孫Mが誕生して1か月を迎え、我が家に二女と共に来てから3週間が経った。二女と妻は、昼夜を問わずにMの世話。私はというと、今までは昼間にMが泣き出したら抱っこして機嫌を取る世話が中心であった。しかし、さすがに二女と妻が睡眠不足になり疲労困憊になってきたので、私も夜間の世話の一部を担うことにした。ぐずって寝ないMを寝かし付ける世話が、ここのところ連夜続いている。なかなか根気がいる世話で、改めて育児というのは本当に大変だなあと実感する。でも、その分、孫への愛情が深まってきているように思う。育児は主に女性が担う役目だと押し付けてきた男性の一人として、今、猛省することしきりである。

 

 さてさて、今回は本書に関する10回連続記事シリーズの4回目になる。「第3章 暇と退屈の経済史-なぜ「ひまじん」が尊敬されてきたのか?」の中で、私の心に強く残った内容の概要とそれに対する所感を綴ってみようと思う。

 

 まず、私の心に強く残った内容の一つ目、「暇」と「退屈」の関係について。著者は本章の冒頭部分で、改めて「暇」と「退屈」というキーワードを、次のように定義している。

○ 「暇」とは、何もすることがない、する必要がない時間を指すもので、客観的な条件に関わっている。

○ 「退屈」とは、何かしたいのにできないという感情や気分を指すもので、主観的な状態のことである。

 

 この後、この2つの言葉の関係に係わる問題について、著者は経済学者ソースティン・ヴェブレン著『有閑階級の理論』を取り上げ、「暇」の価値という観点から考察している。社会の上層部に位置し、あくせく働いたりせずとも生きいける経済的条件を獲得している「有閑階級」は、かつて周囲から尊敬される階級であり、「暇」であることは高い価値が認められていたとヴェブレンは書いているが、このことは彼自身が「有閑階級」への妬みをもっていたために、その理論に大きな歪みをもたらす原因になっていると、著者は指摘している。そして、その歪みが最もよく現れているのが「製作者本能」(有用性や効率性を高く評価し、不毛性、浪費すなわち無能さを低く評価する感覚)の概念であり、これが彼の歴史理論に大きな矛盾を引き起こしていると厳しく批判している。

 

 この無駄を嫌う性向=「製作者本能」を人間の中に見出したくて仕方がないヴェブレンは、額に汗して労働することだけが幸福をもたらすものであり、文化などは浪費に過ぎないと考える。それに対して、哲学者テオドール・アドルノ社会主義者ウィリアム・モリスは、文化や芸術を非常に高く評価し、人間の生は労働だけに縛られてはならず文化や芸術こそが人を幸福にすると反論したことを、著者は紹介している。この点について私自身を振り返ってみると、今までの私の価値観はどちらかとヴェブレン的だったのではないかと思う。もちろん文化や芸術の価値も十分に認識していたつもりだったが、やはり労働の価値を最優先に人生に位置付けてきたのではないか。その意味で、私はピューリタン的であったのだ。

 

 さて、以上のように私自身の価値観に近いヴェブレンの理論に対して否定的な評価を与えている著者であるが、ここで「有閑階級」を全く別の視点から見直すヒントを見出している。それは、歴史的に古い「有閑階級」であった貴族たちが、品位ある仕方で「暇」の中で「退屈」せずに生きる術を知っていたという事実である。彼らにとって、「暇」と「退屈」という2つの言葉は結び付かないのだ。だからこそ、キケロの言葉である「品位あふれる閑暇」という伝統が存在していたのである。もちろん他の階級を搾取していたこの階級を、美化してはならないし、その復活を望んでもならないと、著者は釘を刺している。しかし、「暇」と「退屈」を直結させないロジックをもつ彼らの存在はヒントになる。「暇」の中にいる人間が必ずしも「退屈」するわけではないことを教えてくれるのである。ここで私は、具体的にその方法について知りたいという強い欲求が起こったが、まだまだ先は長いのだと自分に言い聞かせ、次の記述内容に向けて気を取り直して再読を続けた。

 

 次に、私の心に強く残った二つ目は、仕事こそ生き甲斐と感じている人を指す「新しい階級」について。著者は、序章でも取り上げたガルブレイス著『ゆたかな社会』を再度取り上げ、彼の分析から引き出した「新しい階級」という希望に対して大きな疑問が残ると主張している。もう少し説明を加えよう。ガルブレイスは、所得が増えることより仕事が充実することを目指す「新しい階級」を急速に一層拡大することこそが、社会の主要な目標の一つであると結論付けている。それに対して、「仕事が充実すべきだ」という彼の主張は、仕事にこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生み出すことになり、人は「新しい階級」に入ろうとして、あるいは、そこからこぼれ落ちまいとして、過酷な競争を強いられることになると、著者は痛烈に批判しているのである。しかも、ガルブレイスはこのような新しい強迫観念、新しい残酷さの存在を認めた上で、そこから目を背けている。そのために、「新しい階級」からこぼれ落ちる人間は、周囲の「憐みの目」によって劣等感の方へと追い詰められていく。この恐ろしい事態を生んでいるのは、ガルブレイスの主張に他ならないと、著者はさらに舌鋒鋭くその問題点を指摘しているのだ。

 

 私は今までの人生で、ガルブレイスの言う「新しい階級」に入らなければならないという強い意志をもって生きてきたように思う。そして、その生き方を選ぶことによって充実した仕事を続けることができ、生き甲斐のある人生を歩むことができたと自己肯定感をもってとらえている。しかし、今、2度目の退職年齢である65歳を過ぎてもなお、今まで通りの生き方をしようと固執しているのではないか。退職後の人生においても、仕事にこそ充実しなければならないという強迫観念に取り付かれているのではないだろうか。だから、そうなっていない現実に直面して劣等感のような気分に陥り、このことが「暇」の中で「退屈」することへの恐怖感を生み出しているのではないだろうか。ここは、もう一度これからの自分の生き方や在り方について、この連続記事を続けていく中で問い直してみようと、決意を新たにした次第なのであります。でも、決意というのはちょっと大袈裟だったかな…。(照れ笑い)