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結論は「退屈」との共存の道?それとも「退屈」からの回避の道?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ⑨~

 早いもので、今年ももう4月に入った。「毎日が日曜日」状態になると、曜日感覚とともに年度感覚も薄れてくるものである。現職時代は「さあ、新年度だ。また、新たな気持ちで頑張ろう!」という意識が高まってきたが、現在のように平板な日々の連続の中では、新年度になったと言っても単に月替わりをした程度の意識しかもたなくなる。多くの男性は、定年退職後、毎日を均質的な時間で過ごすようになると、「暇」の中で「退屈」してしまうのではないだろうか。もちろん、男性もかつてはシャドー・ワークと言われた家事労働を担うのが当たり前の時代。その意味で完全なフリー状態になる人は少なく、またボランティア活動や趣味を楽しんでいる人も多くいるだろうから、私のように「暇」と「退屈」に翻弄されそうになることはないと思うが…。

 

    さて、私は今、二人目の孫Mの世話を中心にした慌ただしい生活を送っているが、その後の生活における実存的な問題として浮上してきたのは、ハイデッガーの退屈論の中で問われている「なんとなく退屈だ」という気分との闘いであり、社会的に有意義な仕事をしていないと人生を充実できないのではないかというロマン主義的な価値観の揺らぎへの対応なのである。この闘いや対応の方策を探るきっかけにしようと読み始めたのが本書であった訳だが、今回の記事は著者が<暇と退屈の倫理学>において提示した「結論」という章を取り上げる。さて、著者はどのような結論に至ったのだろうか。

 

 そこで今回は、本書に関する10回連続記事シリーズの第9回目として、本章の内容の概要をまとめるとともに、その結論に対する私なりの所感を付け加えてみたいと考えている。著者の結論内容は、私の実存的な問題への回答内容にどのような影響を与えてくれるのだろうか。

 

 著者が本章で提示した結論は三つあり、順番にそれらを説明している。私がその中でも特にハッとさせられたのは、一つ目に揚げた「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要がない」という結論の趣旨である。まず、その概要について説明してみよう。

 

 著者は、あなたが本書を読むことで、既に<暇と退屈の倫理学>の実践の第一歩を踏み出しており、その只中にあると言う。そして、その意味するところを、哲学者スピノザが使った「反省的認識」という概念を援用して説明している。「反省的認識」とは、人が何かが分かった時、自分にとって分かるとはどういうことかを理解すること、つまり認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている場合のことを指す。読者が本書を読み進めてきた中で、自分なりの本書との付き合い方を発見してきたことが何より大切で、論述の過程を著者と一緒に辿ることで主体が変化していく過程こそが重要なのだと強調している。したがって、以下に述べる二つの結論は、それに従えば「退屈」は何とかなるという類のものではなく、その方向へと向かう道を読者がそれぞれの仕方で切り開いていくものである。そうなのだ。一人一人が開いていく<暇と退屈の倫理学>があってこそはじめて、それぞれの結論内容は意味をもってくるのである。

 

 私は、この一つ目の結論の意味するところはとても大事な視点だと思う。それは、世間に流布されている短絡的な合理主義的考えでは、ともすると何か問題が起きればすぐに解決できるマニュアル的な結論を求めようとするが、そのような態度は生起した問題構制の本質的・抜本的な解決には至らず、一時凌ぎの表層的な解決にしかならないことが多いからである。それに対して、この一番目の結論は、「暇」と「退屈」というテーマの自分なりの受け止め方を涵養していく過程こそが、この実存的な問題構制の本質的・抜本的な解決に導いていくようになることを教えてくれている。私は、一度目は本書を通読し、二度目は精読していく過程で、自分の中でそれまで漠然ととらえていた「暇」や「退屈」という概念のとらえ方が変容していく感触を既に味わってきた。このことこそ私にとって意味があるのだと、改めて実感した。この一つ目の結論内容を知ることが、私自身の今までの生き方や在り方に対して希望を抱かせるものになった。

 

 次に、著者が二つ目に揚げた結論に話題を移そう。それは「贅沢を取り戻すこと」である。贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要以上に物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件である。ところが、現代の消費社会ではこの浪費が妨げられる反面、終わることのない観念消費のゲームを続けている。浪費は過剰な物の受け取りであるが、それはどこかで限界があるので、そこには満足がある。それに対して、消費は物ではなく観念を対象としているから、いつまでも終わりがなく満足もない。満足を求めて消費を繰り返せば満足はさらに遠のいていく。ここに「退屈」という気分が現れる。これを本書では「疎外」と呼んでいた。いかにしてこの「退屈=疎外」から逃れるか。この解決の道は観念を消費するのではなく、物を受け取るようになるしかなく、それは贅沢の道を開くことだと、著者は提案しているのである。

 

 しかし、そこにはいくつかの課題があるとも言う。ここで言う<物を受け取ること>とは、その物を楽しむことであり、例えば衣食住を楽しむこと、芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。ただし、楽しむことは決して容易ではなく、楽しむための訓練が必要である。だから、生活の中で自然な形で訓練が行われれば、日常的な楽しみにはより深い享受の可能性があると、著者は強調している。したがって、「贅沢を取り戻すこと」とは、本書の論述に即して言えば退屈の第二形式の中の気晴らしを存分に享受すること、つまり<人間であること>を楽しむことなのである。

 

 最後に、三つ目に揚げた結論について概説しよう。それは「<動物になること>」である。前回の記事でも触れたが、人間は極めて高度な「環世界間移動能力」をもち、複数の「環世界」を移動する。だから、一つの「環世界」に留まり浸っていることができない。これが人間の「退屈」の根拠であった。しかし、人間はこの「環世界間移動能力」を著しく低下させる時があり、それは何かについて思考せざるを得なくなった時である。人は自らが生きる「環世界」に何かが不法侵入し、それが崩壊する時、その何かについての対応を迫られ、思考をし始める。この思考する際に、人は思考の対象によって<とりさらわれ>る。つまり、<動物になること>が起こっており、「なんとなく退屈だ」という声が鳴り響くことはない。ただし、人間にとって「環世界」の崩壊と再創造は日常的に起こっている事実があるから、私たちは実は日常的に<動物になること>を経験している。ということは、人は常に「なんとなく退屈だ」という声が鳴り響いている訳ではないのである。

 

 しかし、それでも私たちはしばしば「退屈」する。その理由は上述した通りである。だが、何かに<とりさらわれ>たとしても、すぐそこから離れてしまう。であるなら、どうすればよいのだろうか。より強い<とりさらわれ>の対象を受け取るようになるしかない。習慣化によって何かに<とりさらわれ>ることに迅速に対応できるようになるしかないのである。では、それはいかに可能なのだろうか。それは、退屈の第二形式を生きる人間らしい生活の中に見出すことができる。人間らしい生活とは、その中で「退屈」を時折感じつつも、物を享受し、楽しむような余裕がある生活である。その中では、思考を強制するものを受け取ることができる。この事態は、楽しむことは思考することにつながることを表わしている。なぜなら、それらはどちらも受け取ることだからである。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのである。著者は、このように考えていくと、<動物になること>という三つ目の結論は、<人間であること>を楽しむという二つ目の結論をその前提としていることが分かると述べている。

 

 以上のことから、著者による本書『暇と退屈の倫理学』の総括的な結論は、「<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになること」であると締め括っている。今回は私の生活時間の都合によりこの総括的な結論を確認したところで筆を擱きたいと思う。なお、この著者の総括的な結論を受けて、私なりに今までの生き方や在り方を振り返りつつ、私を不意に襲った実存的な問題(「暇」の中で「退屈」してしまうという事態にどのように向き合うかという問い)に対する具体的な回答内容をまとめるという作業は、次回の記事に残しておきたい。