ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

現代社会におけるマスコミの自己欺瞞について~村上龍著『オールド・テロリスト』を読んで~

 隣の市で「本」をキーワードにした活動を展開している団体が、毎月第1土曜日か日曜日に同市のJR駅近くの手作り交流市場で「古本交換会」(1冊につき1冊交換)を開催している。私は、今年になって気が向いた月には、不要になった文庫本を数冊車に乗せて、この「古本交換会」へ片道約20分掛けて行っている。もちろん気に入った古本があれば交換して帰るのだが、今までの交換本10冊ほどは積読状態になってしまっている。でも、今回読んだ『オールド・テロリスト』(村上龍著)という文庫本は、先月の交換本でありほとんど積読状態を経験しなかった本である。

 では、なぜ本書をすぐに読もうと思ったか。それは、「村上龍」が著した比較的最近の小説だったからである。1976年に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞し、文学界に彗星の如く登場したこの作家に、当時大学生だった私は、大変興味をもった。というのも、この作品を読んだ時に、大きな衝撃を受けたからである。それは、福生の米軍基地に近い街を舞台に、麻薬・セックスなどの風俗を道具仕立てにして青春群像を描いたセンセーショナルな題材はもちろん、視覚だけではなく聴覚や触覚などの五感全てを駆使して表現した文体にショックを受けたのである。

 

 それ以後、『海の向こうで戦争が始まる』『コインロッカー・ベイビーズ』『悲しき熱帯』『ラッフルズホテル』『愛と幻想のファシズム』『音楽の海岸』『トパーズ』『イビサ』等々、その時々の気分に応じて気ままに「村上龍」を読んできた。そして、その度に私は新鮮な感動体験を積み重ねてきた。登場人物の視点から重層的に物語を展開していく手法や、話し言葉をそのままの形で表現していく文体等、私はいつも「村上龍」の小説の内容というよりも方法に驚かされていたのである。

 

 ところが、80万人の中学生が不登校を起こし、その中のあるグループが自らの組織を活用してネットビジネスを始めたことで意外な結末を迎える『希望の国エクソダス』という小説を読んでからは、さらにその内容についても強い興味をもつようになった。特に、ASUNAROという組織のリーダーのポンちゃんが、国会のネット中継で語った「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」という言葉が、私の心に強く突き刺さった。この小説は現代日本の絶望と希望を描いたもので、混迷する教育問題に対する「村上龍」の課題意識の高さを表していると思ったのである。これ以降、今度は「村上龍」の教育問題に対するスタンスに、私の関心の軸が移っていき、『寂しい国の殺人』『「教育の崩壊」という嘘』『最後の家族』等を読み継いできていた。しかし、最近はほとんど「村上龍」の小説を読むことがなくなった。そんなところへ本書と出合ったのだから、すぐ読みたいという衝動を抑えることはできなかったという訳である。

 

 そこで本回は、本書のネタバレすれすれのあらすじ紹介をした上で、特に私の心に印象深く残った登場人物たちの言葉を取り上げ、その簡単な所感を綴ってみようと思う。

 

 物語は、2018年フリーの記者になったセキグチ(『希望の国エクソダス』に登場していた「関口哲治」のこと)がNHKに対するテロの予告電話に応じて現場取材に当たり、実際に実行されたテロに遭遇する場面から始まる。その後、第2・第3のテロが起こり、セキグチは「キニシスギオ」という老人たちからなる組織の存在に行き着く。彼らのテロの目的は、現代日本をリセットするという大それたものであったが、そのレポートを依頼されたセキグチは老人たちの考えに共感しつつも、書くべきか書かざるべきか深く悩んでしまう。そして、彼らの真の標的は何と…。

 

 ネタバレすれすれのあらすじのつもりが、ついつい筆が滑ってしまった。それにしても、「気にし過ぎ」という言葉からもじった「キニシスギオ」という組織名は洒落が効きすぎていて、ちょっと興醒めになりそうだったが、本書を通じて「村上龍」が本物語に込めた思いや考えには共感することが多かった。特に「キニシスギオ」のリーダーであるミツイシに語らせている次のような言葉は、我が意を得たりの心境に陥ってしまった。少し長い引用になるが、お許しいただきたい。

 

 「わたしは、この国のあらゆるものを信じていない。政治しかり、経済しかり、社会システムしかり。ですが、もっとも大きな不信感を抱いているのは、マスコミだ。どう思いますか。彼らは、正義を言う。権力を批判し、弱者の側に立つと言う。だが、日本で、平均してもっとも高額な給与を得ているのはマスコミの人間ですよ。フジデレビの社員の給与は世界一だとも言われている。ワーキングプア孤独死など、貧困と孤独をテーマに特別番組を作るのが大好きな日本放送協会、つまりNHKですが、平均年収は一千万円を優に超えて、サラリーマンの平均の三倍近い。朝日新聞日本経済新聞なども同様。講談社小学館など、出版社も同様。すべてのマスコミは、弱者を擁護し、権力を批判する資格などない。いやいや、セキグチさん、勘違いしないでいただきたい。金を稼いではいけないということではない。金ならわたしたちも稼いでいる。彼らマスコミが偽善者だと言うつもりもないし、嘘を報じると言うつもりもないし、権力の側について事実を隠蔽していると言うつもりもない。単に、能力がないのです。事実を報じる能力がない。世界的にパラダイムが変わってしまっているのに、気づくことができない。その理由がわかりますか。あなたならわかるでしょう。」

 

 しかし、このミツイシの言葉に対して、つい感情を吐露してしまったセキグチの次のような言葉は、小市民たる私に対する批判のようにも感じてしまい、今後の生き方について真摯に問い直すことを要請する凄みがあった。

 

 「そうです。あの連中は、自分を否定したことがないし、疑うこともない。わからないことは何もないとタカをくくっている。わかるという前提で報道し、記事を書く。だけど、たいていのことはわからないんだ。わからないことはないというおごりがあるので、絶対に弱者に寄り添うことができないんだ。くそったれ。」

 

 本物語は、後期高齢者たちが虚構にまみれた現代日本をぶち壊したいという衝動をもち、ついには原発テロまで画策するという荒唐無稽な話であるが、私にある種のリアリティを感じさせた。特に社会的弱者や底辺に生きる人々は、このような破壊衝動を心の中に秘めているのではないだろうか。そういう意味で、本物語は現代日本サイレント・マジョリティが無意識に求めていた願望を小説という文芸の世界で実現させたものである。がしかし、週刊誌記者の職を失い、妻子に逃げられた54歳のセキグチという人物が、老人たちの途轍もないテロの実施と大それた計画の実行を前にして苦悩したり苦悶に喘いだりする赤裸々な姿に、等身大の人間らしさを見出して共感を抱いたのは、私だけなのだろうか…。