一週間に一度は馴染みの古書店か近所の書店に行くのが、私の楽しみの一つである。もちろん目当ての本を探索したり入手したりする目的で行くことが多いが、特に目的もなく書棚に並ぶ本をしばらく眺めて帰ることもある。ただし、そのような場合でも、著者や書名等に興味を抱き、目次や内容にざっと目を通した上で読んでみたくなれば、その本を急きょ購入することもある。今回取り上げる『みんなの道徳解体新書』(パオロ・マッツァリーノ著)も、そのような経緯で入手した本である。
私は「哲学」や「倫理学」という人間のよりよい生き方を探究する学問に興味をもっており、教職に就いていた頃には自分の研究教科であった「体育科」や「社会科」以外では、「道徳教育」の在り方について強い課題意識をもって自分独自の実践研究を進めていた。その後、教職を退いてからも、学校教育においてそれまでの「道徳の時間」という領域が「特別の教科 道徳」という新設教科に移行する改訂経緯に注視してきた。しかし、何分にも教育現場から距離を置いた立場なので、今の「特別の教科 道徳」の実施状況を知る機会がない。だから、どうしても近年の道徳教育に関連する本から得る情報に頼らざるを得ないので、古書店や書店へ出掛けると「道徳教育」に触れた本についつい目を向けてしまうのである。
本書は「特別の教科 道徳」が実施される前の2016年11月の発刊だが、近い内に学校の教育課程に位置付くことははっきりしていた時期であり、著者はそれを承知の上で今までの「道徳のしくみ」や「道徳副読本」等について面白い見解を披露している。また、著者がイタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者であるというユニークな点、さらにちくま文庫やちくま新書、新潮新書等で何冊かの著書を出版している点を見込んで、私は購入することにした。ただし、公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認という点も記載されていて、何だか怪しい気がする。だから、あまり学問的な信頼性を置いて取り上げているのではないことを、前もってお断りしておきたい。
本書で著者が主張している次のような内容について、私は支持をする。
○ 社会や人間について考察する際は、道徳心はいったん脇に置き、まずは多くの事例を謙虚になって勉強し、学んだ事実を基に科学的に考えることが必要である。そのためには、一生勉強することはとても重要である。
○ 殺人の主な理由は憎しみなのだから、殺人を減らしたいのなら、いかに他人を憎まないようにするかを教えるのがもっとも効果的である。ゆえに道徳の授業で教えるべきは、いのちの大切さではなく、多様性の尊重である。
しかし、著者が主張している次のような内容について、私は支持しない。
△ 偉人伝を子どもに読ませるのはやめるべきである。偉人を尊敬する子どもは、偉人でない凡人やダメな人をバカにするようになり、エラい人にはゴマをすってすり寄り、エラくない人は足蹴にする人間へと成長するであろう。
△ 偉人というのは、たまたま運良くなにかを成し遂げられた人のことで、ほとんどの人間は偉人にはなれないのだから、偉人の生涯は参考にならない。
私も、偉人を目指すべき理想的な人物像として子どもに押し付けるような道徳教育には、もちろん賛成はしない。しかし、子どもたちにとって偉人の生涯は参考にならないとは思わない。なぜなら、私が現職中、勤務した小・中学校で「全校道徳」のつもりで郷土の偉人たちを話題にして校長講話を行った際に、その後に感想文を書いてくれた多くの子どもたちが、「偉人たちの生き方を参考にしたい」という内容を綴ってくれたからである。例えば、これはほんの一事例に過ぎないが、私が市内M中学校に在任時に「正岡子規の生きざまに学ぶ」と題した校長講話を行った時に、中学3年のある男子生徒は次のような感想文を書いていた。
◇ 人には人それぞれの人生がある。それは分かっていました。けれど「知る意味」がないと気にかけたことがありませんでした。しかし、今回の校長先生がされていたお話で学びました。人の人生を知ることが、今の自分に響いて、そしてまた新しい可能性が生まれる。ホトトギスが血を吐くまで泣くと言われているのは、今まで知りませんでした。それに、正岡さんの生き方で、どんな辛い時でも己の好きなものでそれを乗り越えられる。そう思いました。だから、人の人生に少し興味をもちました。その時のその人の気持ちを自分自身に重ねて、この場合はどうすればよいかな?と思ったら、先人の生き方を参考として、そこに自分らしさや考えを入れて、自分の人生につなげていこうと思います。
著者は本書の中で、「自分が知らなかったことを知る、それが勉強です。新たな事実を知ることで、それまで自分が正しいと信じてきた常識や経験が、じつはまちがいだったと気づかされることもあります。」と述べている。その通りだと、私も思う。だから、著者は先のような中学3年の男子生徒もいるという事実を知って、「ほとんどの人間は偉人にはなれないのだから、偉人の生涯は参考にならない。」という常識にとらわれない方がよいのではないだろうか。少なくとも、この生徒は「正岡子規」という偉人の生涯から、自分とは違う人間の在り方を知り(つまり、人間の多様性を認めて)、そこから自分をよりよく変容させる契機にしようとしているのだから…。
私は、子どもたちが今の自身の生き方や在り方を相対化し、よりよく自分を変容させる契機にするような偉人の取り上げ方をするのであれば、道徳教育において偉人伝を取り上げることは有効だと考える。読者の皆さんは、どう考えますか。