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「栗本慎一郎」から受けた思想的インパクトを回想する!~仲正昌樹著『集中講義 日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか―』を再読して~

 私は千葉雅也著『現代思想入門』を読んだことをきっかけにして改めて日本における「現代思想」について振り返ってみたくなり、書棚に並べていた仲正昌樹氏の著作群の中から『集中講義 日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか―』を取り出し、先月中旬頃から暇を見つけては再読していた。「再読」と言っても、今から15年ほど前に、私の関心の高かった箇所だけを拾い読みしたようなものだったので、全体を通読したのは今回が「初読」と言ってもよい。その中で、1980年代に私がハマった「現代思想」の輸入経緯や日本における具体的展開等について、改めて確認することができた。特に、日本における戦後マルクス主義大衆社会におけるサヨク思想等の実情について、今まで以上に理解を深めることができた点は再読の価値があった。

    本書は、そもそも西欧諸国における資本主義が大量消費社会へ移行しつつある現状の中で、理論的にも実践的にも衰退していったマルクス主義の代替としての意味合いがあったフランスのポストモダン思想が、1980年代に日本に紹介されてからブームになった「現代思想」の何を、後世のために遺産として書きとめておくべきか、その考えるヒントを提供するために、金沢大学法学部教授の仲正昌樹氏によって著されたものである。それまで私は『「みんな」のバカ!―無責任になる構造―』『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界―』『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論―』『「プライバシー」の哲学』『「自由」は定義できるのか』『知識だけあるバカになるな!―何も信じられない世界で生き抜く方法―』等の著書を読んで多くの知的刺激を受けていたので、同氏が本書を発刊した時は日本における「現代思想」について俯瞰的に理解したくて、すぐに入手したことを覚えている。

 

 さて、本書を読み進めていく途中で、私は1980年代当時に思想的インパクトを強く受けた人物のことを回想していた。その人物とは、当時、明治大学法学部教授で経済人類学の旗手として活躍していた「栗本慎一郎」その人である。栗本氏を初めて知り、その思想的インパクトを強く受けたきっかけは、光文社のカッパサイエンスから刊行していた著書『パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か―』を読んだ時であった。その後、私はカッパサイエンスのパンツ・シリーズ『パンツを捨てるサル―「快感」は、ヒトをどこへ連れて行くのか―』『パンツを脱いだロシア人―国家と民族の「現在」を問う―』『パンツをはいたサル、国会へ行く』をはじめ、『都市は、発狂する―そして、ヒトはどこへ行くのか―』『鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評―』等、同氏が著した様々な著書を読み継ぎながら、その問題意識と追究成果等について後追い的理解を図ってきた。当時「栗本慎一郎」の思想的な動向と足跡をマークしていけば、自分なりの思想を形作ることができるのではないかと考えてのことだった。それぐらい彼の思想的インパクトは強かったのである。

 

 そこで今回は、本書の中で解説されている「栗本慎一郎」の思想内容に関する記述を参考にして、1980年代当時、私が彼から受けた思想的インパクトの中身について回想しつつ、改めて私なりの思想形成にとってそれがどのような意味があったのかを考えてみたい。

 

 栗本氏は、もともとハンガリー出身の経済史家・ポランニーに依拠しながら、市場における人々の振る舞いの儀礼的・幻想的な性格を分析する経済人類学的な仕事をする一方、「蕩尽論」を唱えるフランスの思想家・バタイユにも通じていた。バタイユによると、人間が労働するのは単に生活に必要な物を作り出すためではなく、過剰に生産した物を破壊し消費しようとする欲求が潜んでおり、そうした破壊と消費の大々的な形態が、非日常としての「祝祭」であると考えた。現在、ロシアがウクライナへ軍事侵攻しているが、そのような戦争や殺戮も物だけでなく人間自体も蕩尽されると考えられて、広い意味での「祝祭」なのである。このような考えは不謹慎のような考えだが、バタイユは非日常的な「祝祭」において「過剰」を処理することによって人間社会は成り立っていると主張したのである。彼をマスコミ的に有名にした、1980年刊行の著書『幻想としての経済』はこのような理論に基づき、様々な社会・経済事象を分析したものである。

 

 彼はその翌年(1981年)に、パンツによって性器・性欲を隠しながら生きていくことに象徴される、自己の欲望を隠蔽する技術を覚えたサルとしての「人間」をテーマにした『パンツをはいたサル』という俗っぽいタイトルの本を刊行した。パンツというのは、「人間」の身体の一部ではなく、簡単に取り外し可能な外的な附属物であり、そのパンツによって隠されている欲望というのが、バタイユ的な「蕩尽」への欲望であるということが、ポイントになっている。そして、経済、法律、道徳等のあらゆる社会制度を、「蕩尽」へと向かう欲望を蓄積し、強度を高める「パンツ」として分析することを試みているのである。

 

 なぜ私が同書で示された内容に強い思想的インパクトを受けたかというと、彼の言う「パンツ」を穿いたことによってことによって、人間が社会的な秩序を守る「理性的な動物」に完全に変貌したのであれば、西欧近代の「理性的人間」像とさほど矛盾しないが、彼はあくまでも、どこかで「一気に蕩尽」するための「パンツ」であるという立場であり、この「蕩尽論」に結び付る形で、一見、無駄に消費しているとしか思えない過剰な消費行動も人間にとって必要な「労働」として再評価していた点であった。言い換えれば、「理性的人間」としての「生産的に労働する人間」観から「蕩尽的に消費する人間」観へパラダイム・シフトを企図していた点なのである。ただし、私は同書に出合う数年前に、当時、和光大学人文学部教授でフロイド派心理学者の岸田秀氏の著書『正続・ものぐさ精神分析』を通していわゆる「唯幻論」と出合っており、経済や法律、道徳等の社会制度は全て「幻想」だとする知的ショック体験をしていたので、同書によって「パンツ」と称された概念やそれを下ろすタイミングなどについての理解はそれほど抵抗感がなかったと思う。

 

    しかし、私はそれまで受けてきた学校教育によって意識的であれ無意識的であれ西欧近代の「理性的人間」を理想とし、自分もそうありたいと願っていたのだから、その私の生き方を相対化するこの思想的インパクトはあまりにも強いものであったのである。また、その生き方に基づいて「理性的人間」の育成を目標としていた私の教育観も再構築しなければならないと自覚するきっかけになったと思う。そのような意味でも、その後の教育活動や教員生活の在り方を大きく左右するような強い思想的インパクトだったのである。